第四話
腕の固定が解除されるまでの間、俺は鈴葉から音楽理論を叩き込まれた。
曲の進行、コードの意味、ルート弾き、コードトーン、スウィング、ツーファイブ、等々。
正直、頭がパンクして湯気が出そうだった。音楽というのは感覚だけではできないらしい。
ようやく怪我が治りベースを弾くことが出来る状態になったが、詰め込まれた知識をすぐに実践できるほど現実は甘くなかった。
ベースはギターと違ってピックではなく人差し指と中指を使って弾く。ツーフィンガー奏法というが、これが意外と難しい。頭ではリズムを刻めているのに指が追い付いて行かずもどかしい。さらに人差し指から小指まで順番にフレットを押さえていく基礎練習。蟹歩き奏法だが、フレットのないこのベースでこれをやるには正確な音を耳で覚えなければならない。当然俺は絶対音感なんてものはないから自分が引いている音が正しいのかさえわからない。
いきなり高すぎる壁にぶち当たった。
しかし壁に当たったからといってすぐに諦める俺ではない。
早く俺も皆に混ざって弾いてみたい。そんな衝動はセッションを聴いた日から治まるどころか、増す一方だ。
「あれ? 音がずれてる。昨日はそんなことなかったのに」
楽器は日によって顔色を変える。人間と同じだ。初心者の俺にはまだ違いがわからないのでチューナーを頼って機嫌を伺う。ベースと会話しながら今日も放課後の部室で練習をしていた。部室には自分以外の人はおらず、閑散としている。
鈴葉は珍しく店の手伝いで早く帰り、戸神もバイトでいない。先輩たちはあの日以降、部室にいることはなかった。こんなでは文化連合に目をつけられてもおかしくない。
三軽が活動しているところを俺はまだ見たことがなかった。
「だーっ。一人でベース鳴らしても面白くない」
とか叫びながらソファーに倒れこんでも、誰も反応をしてくれない。そりゃいないのだから当たり前だ。それに面白くないと言っても基礎練習は重要だ。やらなくてはカノンの隣に立つことなんて到底かなわない。
ふと、部室の隅にくしゃくしゃに丸めて放置されたプリントを発見する。好奇心に駆られてそれを拾って広げると、それは去年の新人ミュージックフェスティバルのパンフレットだった。
うちの高校が主催する音楽のイベント。他校の音楽団体も参加する上に、フェスティバルなのに賞が設けられている。さすがは音楽に力を注いでいる高校だけある。
「なになに、大人数の楽団部門と小人数のバンド部門があるのか」
今年はこれに参加しないのだろうか。そもそも、こんな調子では去年参加したのすら怪しい。
パンフレット表紙を見ると、そこにはトランペットを片手に満面の笑みをこちらに向ける女の子が描かれていた。どっかの誰かさんとは大違いだな。
そんなことを思いながらベースをスタンドに立てかけて窓を開ける。
向かいにある防音室にはいつもなら見える人影が今日は見えなかった。もう帰ったのだろうか。
結局、カノンが防音室に籠った理由を俺はまだ知らない。
学校でカノンを見かけた時のことを思い出す。
いつ見ても彼女は常に一人だった。遠巻きの視線に蜂の巣にされながらも、気にすることなく堂々と廊下を歩く姿を何度も見た。あの様子だとクラスでも浮いていた存在に違いない。
学校ではそんな調子だが、外ではそうでもない。放課後の帰り道で、野良ネコを追って小道に入っていく姿を見かけた。
そういうところを見てしまうと、学校での態度は鈴葉の言うとおり周りから自分を守ろうとしているように見えてしまう。
いったいカノンは何から自分を守っているんだろうか。
今度会ったら眺めるだけでなく声をかけてみよう。無視されるかもしれないけど。
突然強い風が吹き込み、あちこちに乱雑に置かれたプリントが巻き上がる。
「やっちまった……」
慌てて窓を閉めたが、床にはプリントの絨毯が広がった。
独り言ちながらプリントを拾っていく。
「殺虫剤? まさか出るのか?」
机の下からプリントに埋もれた殺虫剤を発見する。これを使用する機会がないことを願おう。
というか散らかりすぎだな。
初めて来たときから思っていたが、皆が使う部室にしては汚すぎる。このままいくと足の踏み場も無くなってしまう。
「掃除でもするか」
整理して居心地が良くなればカノンや先輩たちも部室に来るかもしれない。
片づけを始めてすぐに、閉めていたはずの扉が開いていることに気づく。暗い隙間からカノンの琥珀色の瞳が猫の様にこちらの様子をじっと伺っていた。
気付かないふりをして油断させてから、隙を見て扉を引きあける。喉の奥で悲鳴を上げたカノンは驚きのあまり後ろに倒れそうになる。
慌てて腕を掴んで引っ張り戻した。
「ごめん。そこまで驚かせる気はなかった」
「別に驚いてないし」
「あっそ。で、何してるの?」
「それはこっちの台詞よっ」
俺の腕を振り払うと、すぐに気まずい表情に帰る。申し訳なさそうに視線が右手に向けられていた。
「大丈夫。もう治った」
「別に。心配なんてしてないし」
そっぽを向いたカノンは色々な物が入り乱れる部室に入って行く。器用にも落ちている楽譜は一切踏まずに。
「で、何してるのよ」
「片付けだけど」
「そんなこと見ればわかる! なんで片付けてるの!」
「何となく散らかっているのが落ち着かなくてさ」
「ふーん。ヒロって綺麗好きなのね」
興味なさそうに答えて、奥のソファーに座ると傍らに掛けてある俺のベースを軽く撫でる。お目当てはそっちだったらしい。
「しっかり大事にされているのね。楽しい?」
もちろんそれは俺に向けた言葉ではない。不意に見せた天使のような横顔に見惚れ
てしまう。
「なに? 見てないでさっさと片付けしなさいよ」
天使の微笑みは幻だった。
「少しは手伝えよ。一応、部員だろう」
「だから何? 部員だけど私はこのままでも良いと思うし」
カノンの不遜な態度に少し意地悪をしたくなる。
「しかしこれだけ散らかっていると、あれが出そうだよな。あれが」
「あれって、何よ」
「黒光りしてて素早い奴だよ。あと足がたくさん生えている奴も居そうだな」
「だ、だからなに? べ、べつにきにしないし」
笑みが少し引きつり床に着けていた足を浮かせると、確かめるように床を見回す。
「ひっ!」
カノンの顔が引きつったまま固まった。
視線の先で何かが素早く紙を擦る音がする。
「見たのか?」
カノンは引きつった顔のままゆっくりと頷く。
部室の時間が止まり、耳障りな静寂が包み込む。静寂の隙間から先ほどと同じ、擦れる音がした。
音がしたところから目を離さないままカノンはゆっくりと窓を開けていく。
「まてまて、ここは三階だぞ。窓からの脱出は無理だ」
「じゃあなんとかしてよ」
半泣きだった。先ほどまでの態度や威厳は見る影もない。
まさか本当に使う機会が来てしまうとはな。
殺虫剤を構えると、意を決して音がしたプリントの端を掴む。しかし、
「いやーーーこっちきーーーーーーーーーーーた!」
奴らが怖がっている人間の方へと逃げていくのは、いわばお約束である。
「ばか。やめろ! 落ちつけ。物を投げるな。見失う」
「こないで、こないで、こないでっ!」
「あ、俺のベースをどうする気だ!」
「叩き潰すのよ!」
「やめてくれーーーーっ!」
気が狂ったカノンが俺のベースで叩き潰す前に、なんとか殺虫剤で仕留める。盛大に逃げ回った相手に敬意をささげた後、ティッシュで包みコンビニ袋で厳重に隔離する。
こうして事態は収束したが、少しは整理され始めていた部室が元の通り、散らかった状態に戻ってしまった。
「うぅ……もぅだめ。トラウマになった」
カノンはソファーの上でベースかかえて蹲っている。
「もう大丈夫だから泣くなよ」
「そういう問題じゃないの! ばか!」
殺虫剤を投げられた。吹きかけられなかっただけましか。
「とりあえず、これ捨てて来るから」
「ねえ……」
部室から出ていこうとしたところで不意に声をかけられる。
「早く……もどってきてよね」
小さな身体をさらに小さくして、虫に怯える普通の女の子がそこにいた。
「……うん。なるべく早く戻る」
何を見惚れているんだ、俺は。
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