第三話

 亀田先輩は小川先輩を待つらしく、一緒には来なかった。あの二人、普通の関係ではなさそう。

 鈴葉は陽気に鼻歌を歌いながら俺の先を歩く。背中にはいつもより一回り大きいギターケースを背負っている。


「やっぱり俺が持つよ」

「ダメだよ。まだ治ってないんだから」


 俺の男としてのプライドも考えてほしいものだ。女の子に重たい荷物を持たせるのは心苦しい。


「ねえねえ、腕って本当に階段から落ちて怪我したの?」

「え、そうだよ。寝ぼけてて踏み外したんだ。大玉みたいに転げ落ちてさ。大した怪我じゃなくて良かったよ。骨折とかだったら何もできないからな」


 どうしてそんなことを聞くのか一瞬ひやりとしたが、すぐに取り繕って適当に応える。


「水泳はどうするの?」

「休部ってことになってる。まあ、本番は夏だし。いいリフレッシュ期間だよ」

 

 もう戻る気なんてないのに本当のことが言えなかった。それは未練があるからなのか、それともずっと応援してくれた鈴葉に気を遣ってなのか。ちゃんと言わなくてはいけないと心ではわかっていても、言い出すことが出来なかった。

 怪我の理由を知れば鈴葉は間違いなく自分を責める。水泳を辞めた理由も自分にあると責めるだろう。それだけはしてほしくなかった。

 これは俺が決めたことで誰の所為でもない。


「そっか。でも驚いちゃったな。ヒロくんがいきなり音楽はじめるなんてさ。それとカノンちゃんと仲良いよね?」

「あれのどこが仲良いって事になるんだ? 性格きついし、わがままだし」

「それだけヒロくんに心を開いているってことじゃないかな。私はカノンちゃんにわがまま言われた事無いよ」

「カノンちゃんはね。きっとバリアを張ってるんだと思うな。ああやって振る舞えば誰も近づかないでしょ」

「そうなのかな。素な気もするけど」


 鈴葉の言うとおりなら、何のためにバリアなんて張っているのだろう。

 ふとトランペットを吹いている時のカノンの顔が浮かぶ。


「あいつ辛そうに音を鳴らすんだよな」

「そうだね」

「俺はそれを変えたいと思ってる」

「ヒロくんなら出来るよ」

「ありがとう。その為には鈴葉の協力が不可欠だ」

 

 自分でもそれが出来ないとは思っていないかった。楽器を弾いたこともないのにどうしてだろうか。


「それより、ヒロくんがベースならセッションができるね」

「気が早いな」

「そんなことないよ。協力するから早く弾けるようになってね」

 

 まだベースをやるとは言っていないのだけど。

 今日の鈴葉はいつもの三割増しで陽気だった。

 春は過ぎ去りどんよりとした季節が近づきつつあるというのに、鈴葉の周りはまだまだ春だった。

 楽器店に入ると客はおらずBGMが虚しくこだましている。


「閑古鳥が鳴くとはこのとこだな」

「うちのお店みたい」


 突っ込みづらい。自虐ネタなのか、本気で言っているのか。父親が聞いたら泣くぞ。


「店長は……いないみたいだぞ」

 

 レジカウンターには「店長は只今出かけています」の札が置かれていた。

「そっか。じゃあ適当に待ってよう」

 

 鈴葉はカウンターの上にベースを丁寧に寝かせて奥へ進んでいく。

「良いのか? 店員もいないみたいだけど」

「店員さんならいるから大丈夫」


 鈴葉が店の最奥に置かれたドラムを指差す。

 制服の上から黒のエプロンをかけた女の子がシンバルの位置を調節していた。

 間違いなく店員だ。しかし、けだるそうにこちらを見るゆるふわショートに見覚えがあった。


「戸神」

「……いらっしゃいませ」


 抑揚のない低いトーンの挨拶がやる気のなさを前面に押し出している。店長がいない間にドラムを叩いてサボろうとしているので邪魔しないでください。みたいな言い方だった。というかまさにそう言いたかったのだろう。

 戸神は一通りセッティングを終えてドラムの前に座る。硬い表情が少しだけ朗らかになっているように感じる。


「店長なら30分で戻るよ」


 用件だけ伝えると、口を挿む間もなくドラムを叩きはじめてしまった。

 店長は何故、戸神を雇ったのだろう。よほどの人材不足だったか、弱みを握られているか。なんとなく後者のような気がする。


「あきちゃんはね、マイペースなんだよ」

「見りゃわかる」

「じゃあ、私たちはシールドと練習用のアンプ見てよ」

「シールド? 盾か?」

「違うよ。アンプとベースを繋ぐケーブルのこと。こっちだよ」


 大量のシールドが棚に掛けられているコーナーに案内される。見た感じではどれも同じに見えて違いがわからない。いったい何が違うのだろうか。


「ヒロくんのベースにはこれがいいかな」


 手渡されたのは少し高級感漂う深緑のケーブル。値段を見て驚愕した。

「げ! 5000円!? こっちので良いじゃん」


 適当な籠に置かれていた、お手頃価格500円のシールドを取る。


「だめだよ。そこをケチったら音もケチくさくなっちゃうの。これでも安い方なんだから」

「でも……」


 お年玉貯金を下ろしてきたとはいえ、シールドだけでこの値段は痛い。


「じゃあ、ヒロくんは水着買うとき値段で決めてる?」

「いや、性能かな。そこをケチったら記録が出ない」

「でしょ」


 してやったりの笑顔。上手く丸め込まれてしまった。高校生にとって5000円は結構高い。スタバに十回は行ける。スタバ行ったことないけど。

 その後も俺はベースを肩にかけるためのストラップを選び、楽器の手入れの仕方についても教えてもらった。

 持ってきた予算の範囲内で収まったものの、どんどん迷っていることが言いづらくなる。

 その間、戸神は休むことなく正確なリズムを刻み続けていた。どこにそんな体力があるのだろう。見た感じ普通の女の子だ。


「お、今日はカップルだね」


 ようやく出先から帰ってた店長は俺らをからかうように交互に指さす。

 そんなからかいを意に介さず、俺は店長に詰め寄った。


「譲ってもらって文句言うのもなんですが、こいつベースなんですけど」


 カウンターの上で寝ているベースを指差す。

 この無精髭はギターをくれと言った俺にベースを持たせたのだ。何も知らないことを良い事に。


「え? ベースもギターの一種だよ」


 しれっとした顔でこちらに喧嘩を売ってくる。


「だってー、ギタァーとしか言われてないからさー、ベースでもいいのかなーって、エレキ・ギターほしいならそう言ってくれないと」


 悪びれる様子もなくむしろからかってくる無精髭に俺は何も言えない。お金をちゃんと払っていれば何とでも言えるのに。


「そうですか。ギターがほしい。だけでだと何を買わされるかわからないということですね」


 隣にいた鈴葉は話し方はいつもと変わらないのに言葉に凄く棘がある。

 店長も何かを察したのか、笑顔が引き潮のように引いていく。


「そうなるとギターのことに詳しくない初心者はお断りということになりますね」

「それはね……」


 先ほどまで流暢だった舌が凝り固まったように回らなくなる。


「あ、もしかしてわからないのを良い事に高い楽器を買わせてるなんてことも」

「そ、そんな事あるわけないよ」

「そうなんですか。でもギターやりたいのにベース渡された子が目の前にいますし」

「いやいや、これはちょっとした冗談で」


 いい大人が明らかに動揺している。というか俺は店長のちょっとした冗談であんな大恥をかいたのか。許せん。


「これからは隣駅の楽器店に行きますね。皆にもそう言わないと」

「それだけはやめて! 謝ります。ふざけたこと謝りますから」


 隣駅の楽器店。そのワードでついに折れた。

 なるほど、この閑散とした有様はライバル店に後れを取っているからなのか。


「どうしてこんなことしたんですか」

「だって、鈴ちゃんベースが居ないって困ってたし、ちょうどヒロが選んだのがベースだったから、初心者なら別にどっちでも良いかなって」

「良くないです。こんなアバウトな接客してるから負けちゃうんですよ」

「はい……」


 おっさんが女子高生に叱られている姿はシュールだった。


「では誠意を見せてください」

「返品?」

「いえ、そうではなく」


 鈴葉はケースから俺のベースを取り出し胸に抱える。

「なるほど。ほほーそういう事か。鈴ちゃんも考えたね。準備してくる」


 鈴葉の意図を理解した店長はいたずらを思いついた子供の様に微笑むと、バックヤードの方へ小走りで消えて行く。

 ドラムを叩くのをやめてこちらの様子を伺っている戸神は、口角が僅かに上がっているように見えた。


「なあ、鈴葉。いったい何を」

「ヒロくんが迷ってるのは知ってる。でも結論はもう少し待ってほしいの。ベースの役割をちゃんと理解してから決めてほしい。ついでにジャズを身体で感じてくれたらうれしいかな」

「ジャズはついでなのか?」

「そんなもんさ。知らないうちに身体に入り込んでる。それがジャズさ。だから良い」


 店長が裏から鈴葉のギターをケースごと持って戻ってくる。

「言葉で説明するより感じた方が理解できるしな。習うより慣れろだ。はいこれ。ちゃんと調整しといたから」

「わーパスちゃん久しぶりー」


 鈴葉はケースを開けて自分のギターを抱え上げる。ギターもそれに応えるように爛々と照明を反射していた。

 二人は楽器をアンプにつないで準備を始める。

 戸神を中心に左手に店長、右手に鈴葉が座る。その正面に俺は腰かけセッティングは完了。

 俺だけに向けた演奏が始まろうとしている。

 ベースの役割、演奏を聴けばわかるというのだろうか。だとしたらCDを聞いている時点でわかっているはず。

 店長がベースの弦を指で弾いた瞬間に腹の底を震わすような太い音が飛び出す。動画でみたベース音と全然違う。

 男性の声の様に低いのに、受ける印象は女性的で柔らかい。


「変な音だって思ったかい?」


 ベースをじっと見つめていたからだろう。店長が俺に気付いて声をかける。


「なんか、音に棘がないというか……柔らかいような」

「このベースにはフレットといって音程を決める金属が打ち込まれていないからね。

金属が当たる音がしない分音も柔らかくなる。それにこんなことも出来る」


 店長は一番下の弦を適当なところで押さえると、弦を弾いてボディのところまでスライドする。

 まるで滑り台を滑り落ちるような音がした。


「ちなみにフレットがあると。こうなるの」


 準備をしながら話を聞いていた鈴葉が自分のギターで同じことをする。

 ベースとは違う、鼓膜を震わすような音は階段を下って行くような音がした。ピアノの鍵盤を順番に叩いた時の様に音程がはっきりと聞こえる。


「フレットがないだけでこんなに違うんですね」

「それだけじゃない。フレットは音程を決める役割をしているんだ。それがないこのベースは音を安定させるのは非常に難しい。かなり練習しないとこいつを弾きこなすことは叶わないぞ」


 何を言っているのか半分くらいしか理解できなかったが、つまり初心者には難しい楽器だということか。初めて見た時から普通の楽器とは違うと思っていた。

「大丈夫だよヒロくん。練習すれば誰だって上手くなれるから」

「そうだな」


 そうはいうけど。本当にこいつを俺が操るなんてことが。

 突然、店内にシンバルの音が響き渡る。


「もう待てない。早く」

 しびれを切らした戸神が下唇を噛みながらうずうずしている。

「あきちゃん待てそうにないからはじめましょう。店長はテーマの一回目は入らないで二回目から入ってください」

「了解!」

「テーマって何?」

「その曲のメロディー部分のことをテーマって言うの。それが終わったらみんなでソロをやって、またテーマに戻って曲は終わる。これがジャズの基本的な流れなんだよ」


 なるほど。CDで聴くとわかりづらいが言葉で説明すると結構単純だ。


「とにかく説明はその辺にして、聴いてみてよ。曲はマイ・フェイヴァリット・シングスでいい?」


 二人は無言で頷いて顔色を変える。いつもふざけてる店長でさえクールで大人な雰囲気を漂わせている。何だかわからんが、既にジャズっぽさを感じる。

 戸神が二人にアイコンタクトをしてからスティックでカウントを数え、鈴葉と一緒に三拍子のリズムを刻み始める。

 スッキプのような三拍子が続いた後、電車のCMで一度は聞いたことのあるテーマが奏でられる。

 演奏は軽やかにスキップをして進んでいくのだが、宙に浮いているように軽く、スナック菓子の用に歯ごたえがない。

 安いイヤホンで音楽を聴いているきに感じる感覚。それに似ていた。


「それじゃ、店長お願いします」

「了解! ヒロ、ちゃんと聴いて感じろよ。これがベースの役割さ」


 テーマが一周したところで店長のベースが入る。

 途端、それまでの曲が一変した。

 埋まらなかった隙間がぴったりと埋められ、浮いていたメロディが地に足をつける。ベースの低重音が足元から響くと同時にジャズがも一緒に響いて来る。

 CDを聴いているだけではわからない生の振動。これがベースの『基礎』という名にふさわしい役割。


「感心するにはまだはえーぞ」


 しかし、ベースの役割はそれだけではなかった。

 ソロパートに入ると歩くような四分音符のリズムを基本にしながら、自由に走り回るソロに寄りそう。リズムを刻んでいるのはドラムのはずなのに、その場のノリをベースが支配していた。

 時に低音部で静かに、時に高音部で激しく音を出しながら。跳ねまわるギターソロとドラムが刻むリズムを繋げていく。


 しばらくソロが続いたのち、鈴葉が店長に視線を送る。

 すると、それまで盛り上がっていたドラムが控えめにリズムを刻みベースの背中を押し始めた。

 今度はベースがソロを弾く。

 ギターのソロとは違い、派手さの少ないベースソロは高まった興奮を鎮めるブレイクタイムのよう。地味なんて言葉で表すには失礼で、ベースの音は包み込むような優しさや、人を引き付ける魅力を内包している。

 やがてベースのソロが終わると今度は戸神も混ぜてキャッチボールをするようにソロを回し始める。

 ゴールデンウィーク直前、ライブに、ロックに、衝撃を受けたあの時とは感じ方が違う。

 どうしてこんなに身体が熱いのだろう。

 ロックとは違った一体感。三人が音で会話をしながら楽しんでいる。まるで日常会話のように音をやり取りする三人を見ていると、敷居が高いと思っていたジャズがとても身近に感じる。

 

 それぞれのソロが一段落したところで再びテーマに戻る。冒頭のテーマとは違い、今度は曲が終わってしまう寂しさを伴っている。もっと聴いていたい、聴かせて欲しいそんな衝動が沸き上がる。

 

 気づいたら俺は椅子から立ち上がっていた。

 三拍子ということもあってか、最後の音が慣らされても身体の中に入り込んだジャズが鳴りやむことはなかった。

 音の余韻に浸りながら俺は水の中に沈み込んだ時と同じ感覚にとらわれる。

 無重力のように身体が軽くなる高予感、優しく包み込む音の残響。屈折するように歪んでいく視界。

 音楽の楽しさを教えてくれたあの人の顔が浮かんでくる。俺のやりたい事が目の前にあった。

 俺の弾くベースがカノンのトランペットに寄り添うことを想像する。

 バンドで固定された右腕が今にも暴れ出しそうな程に疼いた。


「ヒロくん? どうしたの?」


 演奏が終わり、立ったまま反応を見せない俺を鈴葉は心配そうに覗き込む。

 内に秘めていた何かが早く楽器を弾かせろと暴れ出す。

 自分のやりたかったことを目の前にして感情を抑えることが出来ない。


「鈴葉、俺にジャズを教えてほしい」

 

 俺は鈴葉に食って掛かるように詰め寄る。


「うん。もちろん」


 鈴葉は今日一番の笑顔を浮かべた。

 そして俺にはもう一つちゃんとしなくてはならない事がある。


「店長!」

「な、なに?」

「ベース買います」

「え!? いいよ。無理しなくても。売れ残りだし」

 

 困惑した表情の店長に詰め寄る。


「こんなに良い音出すベースをタダで貰うわけにはいきません」

「やめといた方が」

「お年玉貯金を全部使ってでも払います。いくらなんですか」

「それは……」

「19万5000円」


 渋る店長の代わりに、いつの間にかレジに立っていた戸神が抑揚のない声で告げる。

「シールド、5000円」


 冷ややかな瞳に嗜虐的な色が覗いていた。


「ストラップ、3900円」


 リズミカルなタップ音に続いて会計が進んでいく。ちなみにベース本体の価格で、お年玉貯金を優に超えている。


「ベースアンプ、5900円」


「ちょ、ちょっと待って」


「その他もろもろサービスで割引」


「あきちゃん!? サービスって何?」


 店長の困惑の声にも耳を貸さず戸神は集計を済ませる。


「合計、20万9800円のお買い上げです」


 ドロワーが開く効果音が頭の中にこだまする。今さらなかったことにはできそうになかった。

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