第二話

急いで着がえて校門に向かうと、鈴葉は鼻歌を歌いながら足でリズムを打っていた。心なしか身体も揺れている。


「待たせてな」

「意外と早かったね」

「また脳内セッションか?」

「うん。まだ一曲しか終わってないよ」

「ゆっくりするわけにもいかないだろ。この前注意されたばかりなんだから」

「それもそうだね」


 鈴葉は軽音部に所属しているのだし思う存分演奏しているはずなんだが、暇さえあればこうして脳内でバンドを組んで演奏を楽しんでいる。一種のイメージトレーニングみたいなやつなのだろう。

 頭上の空は藍色の成分が多くなり、西の方が仄かに茜色なだけだった。学校の灯りは職員室以外にはついておらず、もの寂しさが漂っている。


「お店の手伝いとか平気なのか?」

「それは大丈夫だよ。お客さんいないから」


 それは別の意味で大丈夫じゃないような。

 鈴葉の家はジャズ喫茶を経営している。ジャズが好きだった父親が、鈴葉が生まれた直後に脱サラして開店したらしい。


「鈴葉のお父さん思いきったことするよな。子供が生まれてすぐ仕事辞めるなんてさ」

「やりたくない仕事で稼いだお金で養いたくなかったんだってさ」

「そんな台詞を言うところが想像できない」

「そうだね。そんなことより」


 お父さんの格好良い台詞をそんな事よりで片付けられてしまうのが不憫でならない。


「ヒロくんって滑るように泳ぐよね。余計な音とかしないし。見てるこっちも気持ちよくなっちゃうよ」

「まあ、あれくらいは長くやってれば出来るよ」


 自分でもその辺は自信があるので否定はしない。謙虚さと卑下は別物だ。


「コツとかないの?」

「ないことはないけど」

「なになに」

「一回のかきに三回のキックそれがコツかな」

「ふん?」


 首が左側に傾く。

 伝わるわけないか。これで理解されてしまったら、こちらの努力が報われない。


「足でリズムを打つようにして手をかく。曲に合わせたりすると楽なんだけど」

「へ~」


 この会話は一方通行だ。諦めよう。

 スリーキック、ワンストローク。頭で理解していても、実際に動かすことはなかなか出来るものじゃない。

 それが出来るようになったのは、頭に流れるあの曲に出会ったあの時。


 水泳をやらされていたあの頃は、世の中には嫌な事しかないと思っていた。そんな荒野のようにすさんだ心に、恵みの雨のようにその曲は降ってきた。


 川辺で金色の髪を靡かせた女性が吹いていたトランペット。夕日の色を反射した姿は他のなによりも美しかった。


 そんな美しい女性が奏でる金色の三拍子。それまでの暗い気持ちが一変して不思議と心が弾んで、踊って、昂った。


 あの人に出会って、あの音を、あの曲を聞かなければ、俺はとっくに水から上がって当てもなく陸を彷徨っていただろう。


 あの曲を頭で流しながら泳ぐと全体のバランスがとれて綺麗に腕が回る。三拍子の歌ならば何でも良いのだろう。しかし、俺にとって重要なことは曲よりも、トランペットの音の方だった。


「どうしたの? 中年サラリーマンが学生時代を思い返すような顔をして」

「どんな顔だよ……そうだ。これ、ありがとう」


 鞄からCDを取り出し鈴葉に渡す。

 黒人男性が祈りをささげるようにトランペットを吹いているジャケット。おおよそ高校生が聴くようなものではない。


「どうだった?」


 鈴葉の問いに俺が首を横に振ると、鈴葉は残念そうに俯いた。

 俺はあの頃に聴いた曲を探している。藁にもすがる思いで。


「気にするなよ。そもそもジャズかどうかもわからないんだしさ」

「じゃあ、次はこれ」


 残念な結果にめげることなく、鈴葉は鞄から数枚のCDを取り出す。

 こうやってメロディーもあやふやな曲を探し始めたのは高校二年になってからだ。鈴葉のお店からCDを少しずつ拝借しては聞いてを繰り返す。まだ、一カ月も経っていないが、ジャズに少しは詳しくなった気がする。


「ヒロくんの中で流れてる曲ってどんななの? 参考までに聞かせて」

「上手く歌えるかわからないけど」


 いつも頭で歌っている唄を歌う。いつも口に出して歌ったことがなかったので上手く歌えるかわからなかったが、意外と上手く歌うことが出来た。


「ごめんね……」

「なんで謝る?」


 真剣に謝られた。

 気分を害することをされた覚えはない。


「ヒロくんが音痴なのこと忘れてたよ。その所為で中学生の合唱コンで三年間、指揮者やらされたトラウマ思い出せちゃったね」

「なんだよそれ。初耳だよ。今トラウマになりそうだ」

 君はリズム感があるから指揮者に向いているよ。とか都合の良い事言われて実は音痴な俺を排除する作戦だったのか。上手く煽てられて俺は木に登っていたらしい。


「大丈夫だよ。ヒロくんの、気持ち、は伝わったから」

「それって気持ち以外は伝わってないってことだよな」

「ん~。やっぱり三拍子か……ということはワルツかな」

「ワルツって何?」

「えー。知らないの。三拍子の舞曲の事だよ。社交ダンスとかで有名な」

「あーあれか」

「でもでも、ワルツ・フォー・デビイって曲はね、はじめは三拍子なんだけどインテンポになると四拍子になるんだよ。変だよね。ワルツって名前がついてるのに。それにね――」

「……そうだな」


 適当に相槌を打つ。

 インテンポが何なのかわからないから理解できない。それより俺が音痴って話をもっと詳しく聞きたい。


「それからね――」


 鈴葉はその後も音楽の知識を披露しながら俺の少し前を歩く。背負ったギターに身体が隠れてまるでギターケースから手足が生えているように見える。

 音楽の話をしているときの鈴葉は甘いスイーツを食しているような顔をする。そんな顔を曇らせたくないから、俺は理解できなくてもそれを止めることはしない。本当はちゃんと理解したいとも思うが、世界が違いすぎる。


「ところで水泳部は新入部員きた?」

「来たよ。期待の大型新人が何人も」

「いいなー。こっちは新入部員ゼロかも」

「第三軽音楽部って名前だと三軍みたいだもんな」

「その言い方はひどよー」


 頬を少し膨らませてむくれる。

 のっぺりと柔らかく話すので怒られている気がしなかった。

 うちの高校は音楽活動に力を注いでいて、全国常連の吹奏楽部を筆頭に、室内楽部、合唱部、民謡研究会、第一、第二、第三軽音楽部、その他、様々な音楽団体が活動している。

 俺は水泳部なので文化系のことについてはあまり詳しくない。横のつながりが良好な体育会系と違って、文化部は色々とトラブルが絶えないと噂で聞く程度だ。


「そういえば、最近俺のこと良く迎えに来るけど何かあったのか?」

「別に……何もないよ。ヒロくんの泳ぎ見るのが好きなだけ」

「もう飽きるほど見ただろう」

「……あのさ」


 赤信号に歩を止めた鈴葉がこちらを振り返る。その表情は幾分か強張っており、いつもの和やかな雰囲気が感じられなかった。まるでこれから告白でもするかのようで、こちらも緊張して身体に変な力が入る。


「ヒロくんの方こそ何かあったんじゃない?」


 柔い風が俺たちの間を通り抜け、春の心地を運んでくる。


「別に、無いよ。何も」


 虚を突かれて言葉に詰まりかけたが、咄嗟に誤魔化した。


「……そっか。私の勘違いか」


 気まずくなって、思わず視線を逸らしてしまう。

 茶色くなった桜の花びらが一枚、コンクリートにこびりついている。


 信号は未だ赤。


 それまで弾んでいた会話が嘘のように静まってしまう。

 この沈黙は俺の所為だ。俺が会話の糸を断ち切ってしまったのだ。それがわかっていても本当の事を話す気にはなれなかった。


 新しく入ってきた後輩達にあっさり追い抜かれた、なんて。


 そんなの格好悪いこと、たとえ幼馴染でも言いたくない。むしろ、ずっと応援してくれていた鈴葉だから言えなかった。


 自分の記録が頭打ちというわけではない。僅かだが去年よりも速くなっている。それにフォームを変えれだまだ速くなると顧問からも言われた。


 俺の泳ぎは競泳には向かない。競泳の世界では綺麗な泳ぎは必要ない。コンマ1秒でも縮めようとする心意気の方が肝心だ。中には毛を剃ったり、爪を伸ばしたりするやつもいる。


 俺だってそんな風になればまだ……しかし、そこまでして俺は何になりたいんだ? 一時的に記録を伸ばしたとしても、すぐに伸び悩むのはわかりきっている。才能の壁ではない。俺は本気で競泳を好きになれていない。それが周りとの決定的な差を生んでいる。


「ねえ、明日のライブに来てよ」


 切られた会話の糸を鈴葉が再び結ぶ。


「昨日も言ったけど、明日は練習が」

「休んで。たまには私のわがまま聞いてよ」


 いつもの様にのっぺりとした話し方なのだが、言っていることは強引で、真剣な眼差しが冗談ではないと言っていた。


「……わかったよ」

「約束……はい、ゆびきり」


 出された小指に小指を絡めると、鈴葉はいつもの柔らかな表情に戻った。

 なんだか騙された気がする。


 鈴葉にどんな意図があるのかわからないが、もしかしたら、あの時の様に、俺の中で響く曲に出会えるかもしれない。


 思えば、あの時と状況が似ている。ライバルたちに置いて行かれ、一人悔しい思いをしていたあの時。


 ふと立ち寄った河原で聴いたトランペットの音は、今でも俺を支えてくれている。しかし、それが最近になって靄がかかったように薄くなっているのを感じていた。


「ヒロくーん、置いてっちゃうよ」


 横断歩道を渡りきった鈴葉が、後ろを振り返り向こう側で俺を呼ぶ。信号はちょうど赤に変わってしまった。


 俺たちの間をとめどなく車が流れていく。


 四月は明日で終わり、大型連休がやってくる。


 自分だけが前に進めずにいるような焦りを感じていた。

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