ジョイ・スプリング

第一話


 誰も居なくなったプールで、スタート台に立ち、あの音を待つ。静まった水面は夕日を優しく反射する。


「きた」


 いつも決まった時間に聞こえるトランペットの音色。素人の俺でもそれが高校生のレベルをはるかに凌いでいる事はわかる。聞いているこちらの心を響かせるのだ。


「今日は随分と繊細な音を出すな」


 その音に後押しされるように揺れの静まった水面目がけて飛び込んだ。

 途端、泡の音に身体を包まれる。

 水泳は孤独な競技だ。

 仲間の声援、観客の興奮、それら全ては泳いでいる方に届くことはない。聞こえてくるのは自らの鼓動とネガティブな心の声。

 そうした声に屈しそうなとき、頭の中で曲を流す。

 身体を通り抜けるようなトランペットの音に小気味よい三拍子。

 三拍子に合わせてキックを打ち、腕を回す。

 不思議なもので、この曲を流していると嫌々続けている水泳が楽しくなってしまう。

 何往復かしたところで、プールの真ん中で大の字に仰向けになる。

 

 動きを止めると、先ほどとは異なり、飛び跳ねるようなトランペットの音色が聞こえてくる。いったい誰が吹いているのだろうか。最初の繊細な音の響きは女子のように思えたが、今の叩きつけるような力強い音は男子のような気がする。トランペットの音はまるでこちらを弄ぶかのように曲によって表情を変えていた。

 

 そもそも、一人ではないのかもしれない。いや、あんな演奏が出来る高校生が二人もいるわけがない。いたとしたら有名人だ。

 ぼんやりと妄想を膨らませていると、ガラス張りの天井からは茜色と藍色が折り混ざる空が見えた。

 溜息をつくように肺に残った空気を吐き出し、ゆっくりと水の中に沈み込む。

 見ている景色は水に屈折して大きく歪む。

 空気が抜けた身体は重力に逆らうことなくゆっくりと底へと沈んでいく。

 いまでもこの時間が苦手だ。

 

 過酷な練習を強制された幼い頃を思い出してしまう。スクールの練習へ向かう途中、暖かい家庭に帰って行く子供たちをどれだけ羨んだことか。

 

 高校に入ってスクールは辞めた。しかし、生活の一部となっていた水泳を手放すことはできず、今も俺は水の中にいる。

 先ほどから聞こえているトランペットの音は、屈折することなくまっすぐこちらに届いていた。

 同じトランペットの音でも幼い時に出会ったあの音とは少し異なっている。

 俺の中で鳴っている音はどこまでも広がっていく金色の音に対して、聞こえてくる音は勢いよく突き進む銀色の音だ。

 素人の俺が音を色で表現することはいかかがなものかと思うが、イメージとしてはそんな感じだった。


『~~~~ん。~~~~ろ~~~~く~~』


 トランペットの音に混ざって柔らかい声が耳に届く。

 もう少しこうして居たかったが、息もそろそろ限界だ。

 水面に向けて手をかく。


「いたっ」

「あ! ヒロくん!」


 顔を出した瞬間にモグラ叩きのように、ライフガードと書かれた浮をぶつけられた。


「今、助けに行くからね」

「入ってこなくて良いから。溺れてないから」


 今にも飛び込んできそうな幼馴染の鈴葉(すずは)に向けて言う。

 鈴葉は深呼吸をして、最近また大きくなったらしい胸を強調するように反る。

 その隙にプールから上がり、軽く身体を拭く。暖房完備のプールといっても春先だと肌寒い。


「もう、急に沈んじゃって、呼んでるのに反応しないから死んじゃったかと思ったよ」

「死んじゃってたら浮掴めないんだけど」

「あれは私のだよ。泳げないから」


 泳げないのに水に飛び込むのは無謀だな。


「とりあえず、泳げないなら助けを呼んだ方が確実だと思う」

「あ、そっか。今度からそうする」


 その手があったかというように手を打つ。

 鈴葉は抜けている。いわゆる天然というやつだ。これが憎めないキャラらしく、男女共に人気があるらしい。ただ世話がやけるだけだと思うが。


「それと、ギター背負ったまま飛び込んだら誰でも溺れるぞ」

「そうだね。それより、もう下校時刻過ぎてるよ。早くしないとまた怒られるよ」

「もうそんな時間か。知らせてくれてありがとう」

「校門で待ってるね~」


 軽やかな鈴葉の声を背で受けて更衣室に急ぐ。いつの間にか、トランペットの音は消えていた。

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