12 今日ですべてが終りだ

 品川駅の中央改札口を出ると、すぐ目の前に銀色の時計台がある。


 トライアングルクロックと呼ばれる時計台は、港南口と高輪口とを結ぶ自由通路の中央にあり、目立つ銀色の外見と大きさから、待ち合わせ場所の目印として多くの人に利用されている。


 その時計台の前に、一人の少女が佇んでいた。


 彼女の名は、芙蓉真梨花ふよう まりか


 都内でも有数の進学校と名高い女子高の制服をまとい、携帯電話の画面から目を離そうとしない真梨花は、もうかれこれ五時間ほど人を待ち続けていた。


 時計台の周囲には、真梨花と同じように誰かを待っている様子の人が数人いる。彼らは時折、真梨花のほうへと視線を向けた。

 広い通路を行き交う人々や、改札口に流れ込んでいく人の中にも、真梨花のことをチラリと覗き見るようにしていく人がいた。


 妙に注目を浴びているのは、真梨花が一般的な価値基準からすれば相当に整った容姿をしていることもあるが、それに加え、彼女の着ている制服の右袖が不自然にへこんでいて、袖口から右の手首が覗いていないことが原因だろう。


 袖の中にあるべき右腕が失われたのは、つい一昨日のことだ。


「……ちっ」


 忙しなく携帯電話の画面上を滑らせていた指を止め、真梨花は舌を打った。

 画面には「QUEST FAILD」と表示されている。それは、プレイしていた対戦型3Dアクションゲームで、真梨花が敗北したことを意味していた。


 もう少しで勝てたのに。勝てれば新しいスキルを解放できたのに。

 ほんの一瞬の操作の遅れが、取り返しのつかない敗北を招いた。利き手でない左手でプレイしていたからだ。


 真梨花は、憎しみの籠もった目で、身動みじろぎするたびに揺れる右腕の袖を睨んだ。


 あの忌々しい“白手はくしゅ”に右腕を切り落とされていなければ、こんな敗北はなかった。自分に似せて作ったアバターが、無様に膝をつく姿を見ることもなかったというのに。ああ忌々しい。


 苛立ちを隠さない乱暴な操作でゲームアプリを終了させ、ホーム画面へと戻す。人気アニメのキャラクターが、手に持ったスケッチブックで、現在の時刻を十三時二十二分と知らせていた。


 真梨花は、もう一度舌を打った。


(やっぱり来ないか。あのバカ)


 これまで幾度となく確認した事実を、頭の中で再確認する。

 五時間待った待ち人は、もう来ない。これ以上待つのは時間の無駄だろう。


 最初からわかっていたことだった。ことが済んだらこの場所で合流しようと決めたときから、待ち人が現れることはないと、真梨花は理解していた。


 真梨花の待ち人の名は、ジェイコブ・マーカスという。

 だが、真梨花は彼をその名で呼んだことはない。

 彼のことは、と呼んでいた。数千年もの昔から。

 そして、彼も真梨花のことを真梨花とは呼ばず、アンドラスと呼んでいた。


 品川駅を合流地点にしようと提案したのは、真梨花のほうだった。海が近く、空港へのアクセスもあり、何より地の利がある。品川駅周辺の地理は、四年前の『第二次東京結界攻略戦』の想定で徹底的に調べ上げたからだ。


 エリゴスは真梨花の提案に素直に頷いた。

 自分が合流地点に行けることはないと察した上で、頷いたのだ。


 最初から、エリゴスは死地へ赴く覚悟だった。


(それが目的だったんじゃないの、の……)


 名で呼ぶことすら嫌悪したくなる者。蔑称すら相応しくないと思わせる害悪。真梨花とて自分が真っ当だと思ったことなどないが、それでも、どうやったらあそこまで歪むのかと眉をひそめずにはいられなかった。


 は指示とも命令とも言わなかった。いつも、「お願い」だと言った。真梨花たちが進もうとする道を笑顔で塞ぎ、何事も選びようのない状況に追い込みながら、ふざけた仕草で両手を合わせ、「お願い」と言った。


 元より解放派我らと志を同じくする者ではない。自分の目的を果たすと同時に、こちらの戦力をごうと企んだのではないのか。


(だから、従う必要はないと言ったのに)


 エリゴスは聞かなかった。いや、聞いた上で従うべきと判断した。エリゴスは、その剛胆な戦い方とは裏腹に、いつも安全側の判断をする。目の前に並べられた選択肢の中で、最も損失が少なくなるものを選ぶ。


(おかげで私は待ちぼうけ。ハウレスへの言い訳も私一人で考える羽目になったじゃないの)


 あのバカ、と今度は口に出して繰り返す。


 疑わしい「お願い」に従うか否か、真梨花とエリゴスの意見は対立していた。

 こうした対立は珍しいことではない。むしろ、考え方が違うからこそ、真梨花とエリゴスは数千年に亘りパートナーとして戦い続けることができたとも言える。


 の言っていることが本当でも嘘でも、指示には従ったほうが失うものは少なくて済む、とエリゴスは言った。


「詐術であれば、それでもよい。何一つ失われずに済む」

「よくない。どっちにせよ、アンタが死ぬでしょ」

「我らにとって、死は損失か?」


 エリゴスの問いかけに、真梨花は即答できなかった。


 真梨花たち〈にえ〉にとって、死は必ずしも終端を意味しない。それは次なる生まれ直しへの始点でもあるからだ。

 過去、主柱のために、仲間のために、命を惜しんだことがないのは、エリゴスも真梨花も同じだった。


 二人の意見の対立は、最終的に真梨花が折れて終わった。


(エリゴスのバカ。いくさバカ。私の時間を返せバカ)


 今となっては当人に届けようもない罵倒。

 届けられないという事実への苛立ち。

 それを真梨花は、ついさっきまでスマホゲームの対戦相手にぶつけていた。

 対戦に負けたのは利き手を使えなかったからではない。八つ当たりの雑なプレイングをしていたからだ。


 合流地点に現れないということは、エリゴスは死んだのだろう。確認することはできなかったが、それは間違いない。


(また先を越された。いっつもアイツが先に死んで、いっつも私ばかりが待たされるんだ)


 真梨花の――“尖鉄せんてつ”アンドラスの権能けんのうは、はっきり言って戦闘には不向きだ。そのため、彼女の役割は後方での支援が主であり、最前線で愚直に戦うエリゴスの死を、今までに幾度となく見送ってきた。


 そうしてまた、生まれ直しの再会を待つのだ。

 何度も何度も繰り返される、別離と再会。悲劇と呼ぶには今さらすぎる。


 今回こそ女と男として出会ったが、過去には男同士だったことも、女同士だったこともある。生まれ直す性別を選ぶ権利は〈贄〉にはない。アンドラスとエリゴス、二人の絆は最早、性別などに影響されるものではなくなっていた。


(まあいいや。こっちの戦力が整うまで待つことにはなっただろうし。今のままじゃあ、動きようがないんだから)


 エリゴスとのはここじゃない。真梨花は移動しようと携帯電話を鞄にしまおうとした。

 すると、タイミングを測ったかのように、着信メロディが鳴った。無料通話アプリの新着メッセージがあることを知らせるメロディだった。


 アプリを開いて確認したメッセージの差出人の名は、ハウレス。


 主柱を同じくする仲間からのメッセージに、真梨花は今日何度目かわからない舌打ちをした。


(しつっこいなあ。定期連絡しろってんでしょ。わかってるよ。既読の文字が読めないの? 連絡できる状況じゃないって察してよ)


 無視してアプリを閉じようとしたが、指を止めてしばし考えたあと、真梨花は返信文を打った。ごく短く「これからそっちに合流する」と。


 このまま東京に留まっても、真梨花にできることはない。から新しい「お願い」が来る気配がないことに加え、昨日、真梨花が秋葉原で目にした光景は、が虚言を吐いていたことを証すのに十分なものだった。


 詐術師にまんまと踊らされたことにはなるが、異名いなを出せばハウレスや他の仲間への言い訳にはなる。四年前の戦いのあと、東京に残って反解放派の動向を探るという自分の役割を、こちらは十分以上に果たせたと言えるだろう。


(ハウレスはまた五月蠅うるさく言ってくるだろうけど……きっと、アスタルテ様はわかってくださる。まあ、エリゴスを死なせたことは叱られるかな)


 真梨花たちの主は、部下がいたずらに命を捨てることを最も嫌う。たとえそれが、主を守るためだとしても。そのように考えてくれる主だからこそ、部下たちが命を賭けたがるというのは皮肉と言うべきか。


 真梨花は携帯電話を鞄にしまい、歩き出した。

 いずれ戻ってくるであろう東京という街に、今はまだ、背を向けて。




     ◆   ◆   ◆




「今日で全てが終わりだ」


「開口一番になんだ? 思ってもいないことを言うな」


「終わりじゃん。色々と」


「終わりも始まりも、全ては人間が定めた概念にすぎない。人間たちがともに抱いているだけの幻想は、私たちにも世界にも、なんらの影響も与えない」


「じゃあ、格好よくなかった?」


「ない」


世羽せうちゃん、今なにしてるの?」


「知っていることを訊くな」


「何色のパンツ穿いてるの?」


「切るぞ。引きこもりの遊びに付き合うほど暇じゃない」


「あの子の遊びには付き合ったのに? あ、パンツの色は知ってるから言わなくていいよ」


「付き合ってない。巻き込まれていい迷惑だ。お前も一枚噛んでいるんだろうが」


「どういう勘違い、それ? 私は何もしてないよ。それにしても、世羽ちゃん本当に黒い下着好きだよね。白い肌に映えていいと思う。でも、ブラはまだ早いと思うな。ぺったんこだからズリ落ちちゃうよ」


「確かに何もしていないな。全てを知った上で、その全てを無視しただけだ、お前は。あと、いい加減、他人の下着にこだわるのをやめろ。本当に切るぞ」


「あの子に何か言った?」


「言うまでもなかったさ。トンズラだよ。……いや、アレは賭けに勝ったのだし、勝ち逃げと言うべきなのかな」


「それでも黙って逃がしちゃうのは意外だなあ。もしかして、世羽ちゃん、悠人ゆうと君や朔哉さくやちゃんに変な期待でもしてるの?」


「お前がそれを言うか。朔哉を〈贄〉にしておきながら」


「あれはツバつけておいただけ。人間っぽく言うなら、保険かな」


「だから石なんて使ったのかよ。呑気なことだ。何か一つずれていれば、朔哉が死んでいたぞ」


「だよねえ。静流しずるちゃんも随分と面倒なことするなーって思ってた」


「アイツに任せてたのか。なら、襲撃を利用したのもアイツか……」


「静流ちゃんらしいよね」


「よく笑っていられるな。妬心としんに駆られて、あわよくば朔哉を死なせるつもりだったんじゃないのか。お前、飼い主なら飼い犬のリードはしっかり握っておけよ」


「可愛いじゃない。私に愛されたくて必死なんだよ」


「そのために他の飼い犬を噛み殺そうとするのが可愛いのか?」


「うん」


「即答かよ」


「人間らしくなったね、世羽ちゃん」


「逆だ。人間が私たちに似てきたんだ。……このやり取り、これで何度目だ?」


「世羽ちゃんは朔哉ちゃんに死なれたくないの?」


「朔哉という遊び相手がいなくなったら何をしでかすかわからんがいるからな。四年だぞ。いい加減、遊び疲れて眠る頃合いがきたということだ」


「それを朔哉ちゃんにできるかな?」


「もう一度言うぞ。知っていることを訊くな」


「私は美優ちゃん派だもん。部屋ですっぽんぽんにして羞恥に身を捩る姿を日がな一日ワイングラス片手に眺めたい」


「切るぞ」


「……ねえ?」


「なんだ」


「黄昏が来るよ。ずっと待ち望んでいた、あの夕闇が……」


「その先に何がある? 血のように赤い夕日の先に」


 返事を待たず、世羽は通話を終了した。

 携帯電話の画面には、通話していた相手の名前が表示されている。と。


 通っている私立中学校の中庭で、世羽が空を見上げると、西の空が微かに茜色に染まりつつあった。




     ◆   ◆   ◆




 楽しい時間ほど、体感的に短く感じるという。

 青から橙へと色を変えた空を見ながら、確かにそうだ、と朔哉は実感した。


 下校時間を告げる音楽が、校内に鳴り響く。


 朔哉は、どうやっても持ちづらい刀を担ぎ、図書室をあとにした。


 校内に人の気配はない。残っているのは部活のある生徒くらいだろう。


 悠人からメールが来たのは、昼休みに入る少し前のことだった。何か確認したいことがあるらしく、反解放派の〈はしら〉たちに会いに行くから合流するのが遅くなる、という内容に、朔哉は学校で待つという返事を送った。


 意味があるかはわからないが、図書室で剣道などの指南書を流し読みしながら時間を潰していると、下校時間になってしまった。

 悠人からの連絡はまだないが、これ以上学校に居残ることはできない。


 橙色に染まった、無人の廊下を歩いていく。


「今日は楽しかったなぁ……」


 呟きとともに、笑みがこぼれた。


 朝の時間だけではなく、朔哉は今日という一日を目一杯楽しんだ。紫陽花あじさいや、他のクラスメイトと、思いっきり遊んで、ふざけあった。受験が近いのに弛んでるんじゃないと先生に叱られるくらい、全力でふざけた。


「これでもう思い残すことはない」


 などと、ふざけついでに口にしてみる。だが、割と冗談じゃないセリフになっていたことに気づき、今のなし、と首を振った。


 昇降口にも生徒の姿はなかった。ついさっきまで部活動に勤しむ生徒たちの声が遠くに聞こえていたが、今は少し静かすぎるくらいだ。


 下駄箱を開けると、ポケットの携帯電話が震えだした。


「……はい、もしもし?」

『あ、朔哉君? まだ学校かな?』


 電話をかけてきたのは悠人だった。声の後ろが騒がしい。どこか人の多いところからかけているみたいだ。


「はい、そうです。もう下校時間なんで、そろそろ出ないと」

『ごめんね。待たせてしまって。今ちょうど目黒駅にいるんだけど、これから迎えに行くよ。正門の前で待っていてくれるかな?』


 朔哉は上履きを靴に履き替えながら話す。


「悠人さんは〈柱〉に会えたんですか?」

『会えなかった』


 あっさりとした即答だった。


『元から本人に会えるとは思ってなかったしね。でも、確かめたいことは確かめられたからね』

「それってなんです?」

『合流してから話すよ。他にも気づいたことがあるからさ』

「じゃあ、正門の前で待てばいいんですね?」


 確認しながら、靴を履き終えて、立ち上がる。

 鞄を肩にかけ、刀を手に持つ。


 廊下のほうで、とん、と小さな音がした。

 無視してもいいような微かな音に、なんの気なしに目を向ける。


「お兄ちゃん」


 そこに、美優が立っていた。


 白いワンピースを着ている。

 夕日に照らされて、肌がオレンジ色に輝いている。

 ふわりと広がる長い髪が、まるで天使の翼のように見える。

 “鉄血無情てっけつむじょう”と名乗ったときとは違う、朔哉のよく知る妹の笑顔を浮かべていた。


 朔哉が呆然としていたのは、ほんの数秒。

 美優はタッときびすを返し、うしろの階段を駆け上っていった。


「…………美優?」


 目にした情景の意味を、必死に理解しようとする。

 美優がいた。手を伸ばせば触れられる距離に、美優がいた。

 取り戻したくって堪らなかった笑顔を、浮かべていた。


「――美優!」


 朔哉は駆けだした。

 鞄も、携帯電話も放り出して、美優の後を追った。

 今朝、一人で戦ってはいけないと悠人に言われたことも、忘れて。


『朔哉君!? 美優ちゃんが来たのか!? 追ってはいけない! 朔哉君!』


 落とした携帯電話から響く悠人の叫び声も、朔哉の足には追いつけなかった。


 朔哉は階段を数段飛ばしで二階へと上がった。

 廊下を見渡すが、誰もいない。


「どこだ!? 美優!」


 呼びかけ、耳を澄ます。声はしない。足音もしない。

 くそっ、と悪態を吐き、二階の廊下を走る。


 この中学校の校舎は、大きくL字型に曲がっている。その曲がり角に達し、けれど速度は緩めずに曲がろうとしたら、


「おわっつ!? さ、朔哉!?」


 危うく、歩いてきた女子生徒にぶつかりそうになった。


「紫陽花!?」

「ちょ、どうしたの? そんな急いで。つーかなんで靴履いてんの?」


 制服姿の紫陽花は、驚きに少し心配を混ぜた表情を浮かべている。朔哉の様子が余程の異常に見えたのだろう。

 無理もない。今の朔哉には、部活に所属していない紫陽花が、何故こんな時間まで学校に残っているのか、そんな当たり前の疑問を抱く余裕すらないのだから。


「美優が……美優がいたんだ……美優が……」

「美優ちゃん? 学校に来ちゃったの? なんで?」


 事情を訊こうとする紫陽花を振り切り、朔哉はまた走り出した。


「えっ? 無視かよ? 待って! 私も探すの手伝うって!」


 うしろから紫陽花が追いかけてくる。それを気にかけることもなく、朔哉は全力で走った。瞬く間に紫陽花との距離が開く。


 二階を駆け抜け、三階を見て回り、四階へと上がる。

 廊下の奥に、美優の後ろ姿を見つけた。


「美優! 待ってくれ!」


 兄の叫び声が届かないのか、美優は教室へと入っていく。

 そこは、朔哉のクラスだった。追いかけて、朔哉も教室へ飛び込む。


 血のように赤い夕日に染められて、教室中が真っ赤に染まっていた。

 今日一日、楽しいことばかりあった、教室。

 その真ん中辺りに、美優は立っていた。

 黒板のほうを見つめて、朔哉に背を向けて、佇んでいる。


「……美優」


 小さな背中に、声をかける。

 美優が振り返る。兄のほうへと、顔を向ける。


「お兄ちゃんっ!」


 あの無表情ではない。朔哉の大好きだった笑顔が、そこにあった。

 朔哉は、一歩一歩、美優に近づいていく。その手で、愛する妹を抱き締めるため。


 だが、頭の奥のほうでは、警報音が大音量で鳴っていた。

 これはおかしい、絶対に罠だ、と理性が大声で叫んでいる。

 けれど、頭の中にいる他の誰も、彼の警告を聞いていなかった。


 だって、美優がいるのだ。目の前にいるのだ。

 これより大事なことなんて、あるわけないじゃないか。


「美優……」


 兄が妹の前に立つ。妹が兄を見つめる。


「ごめんなさい、お兄ちゃん。心配かけて」


 すまなさそうに、美優は小さな頭を下げた。

 それから、パッと顔を上げ、輝くような笑顔を見せて、


「でも、これからは、ずっと一緒だよ!」


 手を伸ばす。兄に向かって手を伸ばす。

 兄も、それに応えて、妹に手を伸ばして、小さな手を握ろうとして――


「駄目だ! 朔哉君!」


 窓を割って教室に飛び込んできた悠人が、体当たりするようにぶつかってきた。朔哉と悠人は、机を弾き飛ばしながら、もつれるようにして壁に激突する。


 衝撃。そして痛み。

 朔哉が目を開くと、悠人が真剣な顔で彼を見ていた。


「悠人……さん……?」

「しっかりしろ! あれは美優ちゃんじゃない!」


 朔哉は、彼の肩越しに、美優を見た。


 美優は、大半の机が吹き飛んだ教室の中央で、巨大な戦斧せんぶを手にしていた。

 その戦斧で、一瞬前まで朔哉が立っていた場所の床を、叩き割っていた。


 顔に浮かんでいるのは、あの無表情。


「ああ……」


 朔哉は、自分が、恐れていたほどショックを受けていないことを自覚した。

 妹を諦めきれず、もしかしたらという期待に逃げてばかりの朔哉がいる一方で、確かに存在していた理性が、緩衝材を用意してくれていたのか。


「さあ立って。今は逃げることだけを考えるんだ」

「逃げる?」

「言ったろう? あの美優ちゃんには、僕ら二人がかりでも勝てない」


 悠人に支えられて立ち上がる。

 壁に激突した際の痛みは、もうない。


 朔哉はもう一度、美優を見た。

 無表情。戦斧を肩に担ぎ、いつでも振り下ろせるように構え直している。


 妹の、痛ましい姿。それを目に焼き付けて、


「わかりました。逃げましょう」


 覚悟を決めて、言う。

 すまない、今はまだ助けてやれない、と心の中で妹に謝りながら。

 次は必ず助けてみせるから、と心の中で妹に誓いながら。


「朔哉君、刀を」


 言われて、今さらのように、自分が刀だけは持っていることに気づいた。


「抜きたくはないだろうけど、美優ちゃんの攻撃を凌ぐくらいには使えるはずだ」


 朔哉の心情をおもんぱかりつつ、悠人が言った。彼はすでに〈依代よりしろ〉である白い手袋を出現させ、臨戦態勢を取っている。


 遅れて、朔哉も慎重に刀を鞘から抜き放つ。乱れ刃文はもんの刀身が、夕日を反射して輝いた。図書館で見た本の見よう見まねで、正眼に構える。


 研ぎ澄まされた切っ先の向こうに、表情を失った妹の姿が見えた。


「美優」


 呼びかける。答えはない。今はそれでいい、と思う。


 夕日が沈みかけ、教室を染める赤が、次第に黒へと変化していく。


 戦いの緊張感。美優から放たれる圧迫感。

 朔哉の頬から汗が伝う。刀の柄を握る手も、大量の汗で湿っていた。


 悠人がビニール傘を構え、呟く。


「行くよ」


 彼の全身に力がみなぎるのがわかり、そして、


「えいっ」


 間の抜けた声がした。

 声のしたほうを見る。


 悠人のすぐ後ろに、紫陽花がいた。


 彼女は、悠人の背中に密着するように立っている。

 何かを握っている拳を、彼の腰の辺りに押しつけている。

 その拳が、悠人の体から離れ、何かが、ずるりと引き抜かれる。


 ナイフだった。


 赤い液体で染まり、銀色の刃がほとんど見えなくなっている、ナイフ。


「あっ」


 掠れたような悠人の声。彼は驚愕に目を見開いている。

 それを見上げて、紫陽花はニィと笑い。


「えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ、えいっ」


 間抜けな声を出す。何度も何度も。

 ナイフを悠人の体に突き刺す。何度も何度も。

 ぐじゅりぐじゅり、と湿っぽい音がする。何度も何度も。


「うぐっ……あ……」


 やがて、うめき声を上げて、悠人が倒れた。

 その姿を満足そうに見下ろすと、紫陽花は美優の隣へと歩み寄った。


 そして、真っ赤に染まった右手で、美優の頬を、優しく撫でる。

 純白の頬を妬んで、血の赤で塗り潰そうとしているみたいに。


「なん、だよ?」


 朔哉はようやく、声を絞り出せた。

 だけど、そのあとに続く言葉が、出ない。

 何が起きたのか、理解できないから、出ない。


 どうして紫陽花がここにいる? どうして紫陽花が悠人さんを刺す? どうして紫陽花が美優の横にいる? どうして美優は無表情を浮かべている?


 何もわからない。わからない。わからない。


「あははっ」


 そんな彼を、紫陽花は笑う。


「あはははははははははは、あははははははははははははははははは!」


 楽しそうに、笑う。

 朔哉の知らない顔で、笑う。

 甲高い笑い声に、脳が揺さぶられる。


 朔哉の中で、疑問が集約していく。何がわからないのか、わかっていく。


 そして、言った。


「……紫陽花?」


 目の前にいるのが本当に織畑おりはた紫陽花なのか。自分の幼馴染みなのか。


 それを確認するための言葉に。


 目の前の女は、歪みきった笑顔を浮かべて答えた。


「誰それ?」

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