13 戯れる者

 教室中に、笑い声が響く。

 狂ったように、響く。


 笑う女の髪には、紫色のリボンがまとわりついていた。髪の中を縫うようにして巻かれ、後頭部から猫の尻尾みたいにちょこんと飛び出している。


朔哉さくや……君…………」


 倒れ伏した悠人ゆうとが、身をよじった。


「悠人さん!」


 我に帰った朔哉が、彼に走り寄る。

 背中に刻まれた無数の傷口から、大量の血が溢れ出している。朔哉が抱き起こそうとしたら、悠人は咳き込み、血を吐いた。


「あっれれー? まだ生きてるのぉー?」


 おどけたように、紫陽花あじさいの姿をした女が言った。


「なぁんつってー。実は殺さないよーに刺しただけでしたあ!」


 きゃははははっ、と楽しげな笑い声を上げる。

 癇に障る声だった。朔哉の知る紫陽花の笑い方ではない。


「なんでだ……? なんで、紫陽花、こんなことを!」

「やだなぁ。そーゆーのやめてよ、朔哉」


 ぞくり――朔哉の背筋に悪寒が走った。

 朔哉、と呼ぶ発音に、知らない顔で知らない笑い方をしていた知らない女が、一瞬にして慣れ親しんだ幼馴染みに化けたように感じた。


「わかってんでしょ、ねぇ? 拒んでんの? 認めたくないの?」

「何が。俺は何も。何も」

「わからない? ……嘘だね」


 女は哄笑した。笑うと、朔哉の知る幼馴染みではなくなる。


「お前……紫陽花じゃ、ない?」


 ぴたり、と笑いが止む。

 だが、いっそう愉快そうな笑顔を浮かべた。


「くふ。いいね、その顔。現実っていうメチャクチャ苦い水を、ちびちび飲んでいく。飲んでいくしかない状況に、苦しんでいる顔」


 女は、うっとりしたような表情で、舌舐めずりをした。


「でも、もうちょっと、絶望に近いほうがいいよねぇ?」


 ナイフを朔哉に向けながら、女は言った。


「アタシは〈はしら〉だよ」


 その言葉。

 ここ数日で何度も聞かされた〈柱〉という言葉。

 朔哉はそれを、物心つく前から一緒にいるのが当たり前だった少女の口から聞かされることに、強烈な違和感を覚えた。


織畑おりはた紫陽花ってゆー小娘に生まれ直した〈柱〉が、このアタシなんだなぁ」


 女が言い、髪に巻かれたリボンが揺れる。


「四年。四年もかかった。覚めてから、このシチュエーションを組み立てるためにね。まあ、ホントはもうちょい楽しむつもりだったんだけど」

「よ、ねん?」

「そそ。そこの死に損ないが、自分の姉貴や“無謀白夢むむはくむ”をブッ殺す少し前だよ。アタシが覚めたのはさ」


 女が指差した悠人は、意識こそ保っているものの、苦しげに喘いでいた。

 朔哉は彼を支えながら、女の言っていることを理解していく。


 四年。覚めてから、四年。

 それはつまり、紫陽花が、ということだ。


「……嘘だッ!」


 喉が裂けそうなほどの大声で、朔哉は叫んだ。

 叫ぶことで、現実を掻き消せると思い込んでいるかのように。


「紫陽花は俺の幼馴染みだ! ずっと一緒にいて、〈柱〉なんかになったことに気づけないわけがない!」


「ずっと一緒、とかキメェこと言うなよ。可哀相になんにもわかってないんだねぇ。私の中にはさ、覚める前の織畑紫陽花の記憶がちゃーんと残ってんの。記憶ってのは人格なの。それがあれば、アタシは織畑紫陽花になれるってこと。おわかり?」


「紫陽花に、なれる?」


 じゃあ、コイツは、この〈柱〉は。


「ずっと……紫陽花の振りをしていたって、言うのかよ?」


「振り、じゃあないんだな、これが。アタシは紫陽花なの。紫陽花の感情も心も何もかも、全部アタシの中にある。それなら、アタシは紫陽花でしょ? ましてさぁ、四年前って言ったらまだガキだよ? ちょっと人が変わったなーとか思われたって、成長っていう最強の言い訳が使えるんだから、楽勝じゃんよぉー」


 大袈裟な身振り手振りを加えながら、女は言う。


「まあ? 人間と一緒に暮らすなんてキモい真似、もう二度とゴメンだけど?」


 女の笑い声が、朔哉の脳裏を素通りしていく。

 けれど、言葉だけは素通りせずにへばりつき、その意味を朔哉に思い知らせる。


 紫陽花は〈柱〉だった。

 四年前から〈柱〉だった。


 ――じゃあ、俺の中にある紫陽花との思い出って、なんだ?


 この四年間に限ったって、抱えきれないくらいの、たくさんの思い出がある。

 小学校の卒業旅行や、並んで写真を撮った中学の入学式。

 今年の正月には、寒い早朝から福袋を買うのに付き合わされた。夏休みには、美優みゆを交えた三人でプールにも行った。


 それに、今日だって思い出を作った。

 この今いる教室で、じゃれ合って、おまえら夫婦かよーって言われて、それも満更じゃないとか思って、楽しくて、面白くて、これから先、この思い出を支えにして生きていこうって思えるくらいの、大事な思い出。


 それが全てニセモノだと言うのか。

 人間との暮らしを「キモい」なんて言う女に与えられた、ニセモノだと。


「なんだよ、それ……」


 衝撃が強すぎて、絶望が深すぎて。

 怒りとか、悲しみとか、そんな単純な感情さえも、湧いてこなかった。


「それ、なら……君を」


 悠人が体を起こしながら言った。量は減ったが、まだ出血は続いている。


「君を、なんと呼べばいい……君は……なんだ?」


 女が答える。


「アタシは“糸魂戯弄しこんぎろう”。呼びたきゃ呼べよ。好きにさ」


 素直な名乗りを受けて、悠人が嘆息した。


「やっぱり、と言うべきかな……」

「しこん……って、まさか」

「そうだ。反解放派の、巫女側の柱だよ……」


 絶句した朔哉に対し、悠人は驚いた様子を見せなかった。このことを予想していたということだろう。


「な、なんで……巫女の仲間が?」

「元々、反解放派の結束は強くない……。彼らは打算で巫女についているから」

「わかってんじゃん。巫女の仲間、なーんて言われたら、正直吐き気がするわ。だからさ、他にやりたいこと出来たんで、縁切ることにしたんだよねぇ」

「他に、やりたいこと……?」


 そう、と答え、女――“糸魂戯弄”は美優のほうを見て、


「ねー、美優ちゃーん♪」


 美優は、答えるように戦斧せんぶを振り、近くにあった机を粉砕した。

 その様子は、美優が“糸魂戯弄”の支配下にあるように見えた。


「お前、美優に何をしたんだ!」

「べっつにぃー。ちょっと操り人形にしただけー」

「人形……だとっ!?」


 ケラケラと楽しそうに言う“糸魂戯弄”に、朔哉の中の怒りが爆発しそうになる。


「操り、人形……どうやって……?」


 悠人が、息を切らしながら、言った。

 彼は横目で朔哉を見る。その目に、朔哉は彼の意図を察した。

 “糸魂戯弄”は話したがっている。今のうちに、引き出せるだけの情報を引き出そうと考えているのか。


 この状況でも尚、冷静さを手放さない悠人の姿に、朔哉もまた、自身の激情を抑えようと拳を握り締めた。


「さぁね。出来ちゃったから、そうしただけ」


 美優の髪をいじりながら、言う。


「今まで誰もやろうとしなかったことを、やってみたの。四年前にね」

「四年前? まさか……」

「そうだよ。アンタが殺した“鉄血無情てっけつむじょう”の主観を、生まれ直しちゃう前にアタシの糸で捕まえて、美優ちゃんの中に閉じ込めたの」

「……なんてことを」


 意味を理解したらしい悠人が、絶句する。


「ま、アタシもこんなに上手く行くなんて思わなかったけどねえ。そりゃあ、アタシの権能けんのうは縛って操るのは得意中の得意だけど、それでも〈柱〉の主観まで縛れちゃうなんてねー」


 誇るようでもなく、昨日あった面白い出来事を語るような口調で、言う。

 それを、悠人は汚い物を見るような目で見た。


「どうしてと、考えるだけ、無駄だった……。想像できるはずもない、こんな常軌を逸した言行を……!」

「何が……どういうことなんです? コイツは、美優に何をしたんですか?」


 理解の追いつかない朔哉に、悠人が告げる。


「美優ちゃんを、……。美優ちゃんを本当の意味での“器”として利用して、拘束した“鉄血無情”の主観――言わば、〈柱〉の魂を、美優ちゃんの中に閉じ込めた……」


「捕まえただけじゃ、なんも出来ないんだよね。すぐに生まれ直しちゃおうとするしさ。だから、美優ちゃんの体ン中に放り込んで、ぐるっぐるに縛り上げて、ついでにアタシの好きに操れるようにしちゃったのよねぇ。いやー、大変だったわぁ」


 そんなことを、紫陽花の姿をした女が言う。

 まるで、いい仕事したなぁ、みたいな話し方で。

 美優を、〈柱〉を閉じ込めて力を利用するための道具にしたと、言う。


「なんで……美優なんだ?」


 朔哉の問いに、“糸魂戯弄”はすぐに答えた。


「幸せそうだったから」

「……幸せ? 美優が?」


「そう。幸せそうだった。四年前だから八歳だっけ? すっごい幸せそうだったじゃん。両親がいて、お兄ちゃんがいて、へらへら笑って、近所のみんなにも好かれてた。幸せオーラを二十四時間放っててさぁ、キラキラしてたよ。だから――」


 ぞっとするような笑顔を浮かべて、


「その幸せを、ぶっ壊してやろうと思ったんだよ」


「そんな、ことのために……?」

「おーい! そんなことってなんだよぅ!」


 ぷんすかぷんすか、と“糸魂戯弄”が言う。

 紫陽花が冗談でそうするみたいに、わざとらしく言う。


「美優ちゃんの幸せを壊せば、アンタの幸せも壊れるでしょ? 朔哉ちゃーん?」

「俺の、幸せ?」

「可愛い妹がいるってだけで、クラスで浮いてても平気な顔してさ、美優ちゃんといるときのアンタ、どうだ俺は幸せなんだぞっ、って威張ってるみたいだった」


 ――だから、ぶっ壊してやろうと思った――


「あと、そっちの死に損ない、アンタの幸せも壊せたね」

「僕の……?」


「どんな気分だったぁ? 美優ちゃんの首ちょん切ろうとしたとき、また私を殺すのかとか言われてさぁ? あんときのアンタの表情! 堪んなかったよ! 最高だった! 絶望に溢れてて! とびっきり不幸で!」


「君は……そうか、そのために自分を人質に……」

「そ。ナイスアイディアでしょ」


 ふふん、と自慢げに胸を反らす。


「いいもの見れたよ? 妹が〈柱〉になったって現実に打ちのめされる朔哉の顔! また姉を殺しかけた自分に気づいた悠人の顔! ついでに、自分の主を守れず、その主を縛る敵に従わなきゃいけない忠臣(笑)かっこわらいの顔もよかったなぁ!」


 わざわざ「かっこ笑い」と言ってつけた忠臣とは、エリゴスのことか。

 昨日の戦いを、“糸魂戯弄”は特等席で見ていたのだ。

 その場に溢れる不幸を、ただ観賞するためだけに。


「な、にが……何がいいものだ!」


 陶酔するように語る姿に我慢ならず、ついに朔哉は叫ぶ。


「お前は悠人さんのことまで幸せだって言うのか!? 四年前のことを知ってんだろ! なんで幸せだなんて思うんだよ! それを壊そうだなんて――」

「だってアタシにはアタシを愛してくれる姉なんかいないもん!」


 凄まじい剣幕で叫びをぶつけられ、朔哉は言葉に詰まった。


「人間とか〈柱〉とか関係なく愛してくれる姉なんかいないもん! 何千年も一心に仕えてくれる部下だっていないもん! 仕えたいって思える主君もいないもん! 愛し合える妹だっていない! アタシが持ってないものを持ってるヤツは、みんなアタシより幸せなんだ! だから壊すんだッ!」


 さっきまでの笑顔が一転、この世の全てを憎むような表情で言う。

 だが、言い終えた次の瞬間には笑顔に戻って、


「じゃあ、そろそろ壊れてよ」


 血まみれの右手で、美優の肩を押す。

 美優が前に進み出る。戦斧を朔哉へと向ける。


「愛する妹に殺されるお兄ちゃんの顔……アタシに見せてよ」


 戦慄が、震えとなって朔哉の全身を撫でた。


「戦えって言うのか。俺に。美優と」


 そだよー、と“糸魂戯弄”が軽い口調で肯定する。

 無表情の美優が、さらに一歩、前に出る。


「出来るわけ……ないだろ! 妹と戦うことなんか!」

「ははははっ! いいね! その表情いいよ! もっと不幸になってみよっか!」


 朔哉は救いを求めるように悠人を見た。


「逃げろ、朔哉君……!」


 喘ぐように言う悠人は、まだ戦える状態じゃない。それどころか、立ち上がって逃げるだけでも困難に見える。意識を保つだけでもやっとなのだろう。

 もし、言うとおりに逃げれば、残る悠人が何をされるか、想像するまでもない。


「あららぁ、逃げちゃ駄目だよぉ。そうだ、そんな朔哉ちゃんに、いい情報をあげようか。逃げたくなくなる情報」


 そう言って、“糸魂戯弄”は美優を背後から抱き締めた。

 実の妹を愛でるかのように、その頬を撫でながら、言う。


「美優ちゃんねぇ、まだ美優ちゃんのままで、この中にいるんだよ?」

「……なに?」


 意味がわからず、聞き返す。


「だからぁ、アタシと織畑紫陽花は同じ存在でしょ? 最初からそう生まれた。でも、美優ちゃんは普通に生まれ直したわけじゃないから、今、体の中で“鉄血無情”と同居している状態にあるの」


 込み上げる笑いを堪えるように、言う。


「美優ちゃんには意識があるんだよぉ? 人格が“鉄血無情”と一つにならずに独立しているから、今こうしている間も、ちゃんと見て、聞いて、感じているの」


 それは、つまり。


「美優ちゃんは、大好きなお兄ちゃんを殺す感触を味わえるんだぁあ!」


 美優の頬に、雫が伝う。

 瞳から溢れ出した涙が、血の跡を洗うように流れ落ちる。


「お兄ちゃん――」


 あの無表情のまま、愛する兄のことを、呼んだ。


「み、ゆ………」


 妹に差し出しかけた手を、朔哉は強く握り締めた。手の平に爪が食い込み、血が滲むほどに、強く。


「くそっ……くそがぁっ! 妹を! 俺の妹を! お前はッ!」


 朔哉は吼えた。紫陽花に、紫陽花の姿をしているだけの女に。


「あはははは! いいよ、逃げなよ朔哉ちゃん! そしたら代わりに悠人さんを殺すからさあ! 美優ちゃんでね! それとも、朔哉ちゃんが殺す? その刀でっ! 大事な大事な妹を!」


 選びようのない二択を突きつけて、女は笑う。


「くそっ! くそぉっ! お前は、お前はぁッ!」


 叫ぶ朔哉の目から涙が溢れた。激情が溢れた。

 心が張り裂けて、そこから迸る鮮血が、叫びとなって教室中に飛び散った。


「そう! それが見たかったんだ! 極上の不幸を味わっている、その顔が!」


 朔哉の心の血を返り血として浴び、“糸魂戯弄”は陶酔に浸る。

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