11 どうして、どうして、

 外はよく晴れている。


 教室の窓から、朔哉さくやはどこまでも青い空を見上げていた。

 少し早い時間だからか、教室内に同級生の姿はまばらだ。


 刀を受け取ったあと、巫女との面会を求めてアヴェスタへ行くという悠人ゆうとと一緒に家を出た。残った世羽せうも、今日は自分の学校へ行くと言っていた。


「二日連続でサボっては、また両親が無駄な心配をして、メンタルなんちゃらいう病院に連れて行かれるかもしれんからな」


 昨夜は、友人に頼んで、彼女の家に泊まっていることにしたらしい。


 秋の高い空から視線を落とし、机に立てかけてある刀に触れる。悠人の言っていたとおり、今のところ誰かに見咎められることはないが、少々手に余るというか、言葉を選ばずに言えば、邪魔だ。


 教室の後方にある生徒用のロッカーには収まらないし、手元から離しておくのも不安を感じる。かと言って常に握り締めているわけにもいかず、机の上に置けば単なる障害物にしかならないし、想像以上に扱いに困った。


 悠人がビニール傘やボールペンなど、身近にある物で戦っている理由がわかる。確かにコレを常時携帯するのは億劫だろう。


 黒塗りの鞘をさすりつつ、いっそのこと腰のベルトに差しておこうか、などと考えていると、


「ちょりそー!!」

「おぶっ!?」


 奇声が聞こえたかと思ったら、いきなり後頭部を強打された。

 驚いて振り向くと、


「ふっふっふー。隙ありだぞー、朔哉ちゃーん」


 手刀を構えた紫陽花あじさいが立っていた。


「なっ、何すんだこら!」

「そりゃあこっちのセリフだよぉ! なんで一昨日、家にいなかったわけぇ? パーティーはどうなったのよ、パーティーはぁ」


 条件反射的な抗議にそんなセリフを返され、朔哉は少し動揺した。


「アンタん家に行ったらドア壊れてて、中に誰もいないし。電話もメールも無視しやがってくれますし? おまけに昨日は無断欠席ときた! 心配したんだかんね!」

「あ、いや、わりぃ……実はその、美優が急に熱出してさ」


 今朝、悠人と話し合って決めた言い訳を、口にする。


「一昨日は病院に行ってて、昨日は一日中看病で忙しくってな……?」

「え? ちょっとなにそれ。美優ちゃん病気なの? 大丈夫?」

「あーいや、そんな大したことじゃないんだ。風邪をこじらせたってだけでさ」


 そっかぁ、と紫陽花は安堵したような表情を浮かべた。

 朔哉はそれを見て、なんだかんだで優しいヤツだよなぁ、と思う。

 そして、自分もまた、紫陽花の様子を見て安堵していることに気づく。いつもと変わらない紫陽花であることに、安堵していた。


「病気って言えばさぁ。私も昨日、ちょっと変だったのよね」

「へん?」

「フツーに学校から帰ってたんだけど、途中から記憶ないの。気がついたら家の前に座り込んでてさぁ」


 どうやら、自分が人質にされていた間のことは、覚えていないようだ。これも悠人の言っていた『世界の定義』によって改変されたことなのだろうか。


「ねぇねぇ、これってやっぱ、変な病気だと思う?」


 腕を組んで首を傾げる紫陽花に、当然、本当のことを教えるわけにはいかない。朔哉は、努めて普段と同じように応えた。


「ああ、そりゃ病気だな。間違いないよ。きっと脳の病気とかだって。お前、昔っから変だったもんな。主に人格が」

「ちょっと……? それってどーゆー意味かしらねぇ!?」


 うがー、と怒り出す紫陽花に、冗談だってー、と弁解する朔哉。

 いつもどおりの二人だ。おかしなところは、何もない。


 紫陽花が、背後から掴みかかってきて、ギブギブと、朔哉は彼女の腕を叩く。

 登校してきたクラスメイトたちが、また夫婦喧嘩かー、と囃し立てる。

 それに乗っかった紫陽花が、こんな旦那とは離婚よ離婚、と叫ぶ。


 そんな、いつもどおりの、馬鹿馬鹿しいじゃれ合い。


 紫陽花にヘッドロックをかまされながら、朔哉は思う。

 こんな日々がいつまでも続いてほしかったと、思う。


 自分はもう人間ではない。〈にえ〉なんだ。もう二度と、ただの人間としての日常は戻ってこないだろう。たとえ、美優みゆを取り戻せたとしてもだ。


 それでも、朔哉は、


「何へらへらしながら私の胸に顔を押しつけてんのよ! この変態!」

「そりゃてめぇが自分で押しつけてんだろうが! つか……首っ、死ぬ……!」


 この楽しい時間がいつまでも続いてほしいと願った。




     ◆   ◆   ◆




「お断りします」


 帯刀静流たてわき しずるはにべもなくそう言った。

 彼女の真向かいに座る悠人は、


「まあ、そうでしょうね」


 皮肉ではなく、つい思ったことをそのまま言ってしまい、動揺を誤魔化そうと砂糖もミルクも入っていない紅茶を一口啜った。


 朔哉と同時に家を出た悠人は、単身、秋葉原のカフェ・アヴェスタへと来ていた。


 昨日と同じく平日であるにもかかわらず、店内は昨日以上の客で賑わっている。人気アニメ『メイド・イン・ヘブン』とのコラボが今日で最終日らしく、多くの客が、名残惜しむように店内の様子を携帯電話のカメラに収めていた。


 悠人と静流は、賑わう店内の隅にある二人用の席で、小さなテーブルを挟んで向かい合っている。


 再度の巫女との面会要請と、篠突しのつき朔哉の保護および脅威対象への対策を求める悠人への返答が、先程の静流の言葉だった。


 巫女との面会は許可できない、篠突朔哉のへの関与はしない、という、あまりにも予想どおりの返答に、悠人は、やっぱり、と納得すると同時に、何故だ、という疑問を抱いた。


「静流さん。それは巫女の意志ですか」


 悠人はティーカップを置き、改めて紅茶に砂糖とミルクを入れながら言った。


「ええ。そのように受け取っていただいて構いません」


 静流の、表情一つ変えない返答に、悠人の中の疑問はますます大きくなった。


(巫女との面会を断るのはまだわかる。だけど、朔哉君を保護しようとしないのは何故だ? 敵は明らかに朔哉君のことを意識している。彼の身に危険が迫っているというのに、どうして巫女は何もしようとしない?)


 朔哉は巫女の〈贄〉になった。それは巫女の意志だったはずだ。


 昨日、エリゴスから朔哉を守ろうとしなかったのは、朔哉に自ら〈贄〉になることを選択させるためだったと理解できる。結果、朔哉はエリゴスを打ち倒すことに成功したが、それで彼の周囲から危険がなくなったわけではない。


 敵の動機がなんであれ、放置しておけば朔哉の命に関わるだろう。

 それにもかかわらず、巫女は何もしようとしない。


(巫女は朔哉君が死んでも構わないと思っているのだろうか。だったら、どうして朔哉君を〈贄〉にしたんだ? ……まさか、敵の目的は朔哉君ではない? 巫女はそれを知っていて、敵が朔哉君を殺すことはないと確信しているから、何もしようとしないのか?)


 それとも。


(敵に朔哉君を殺させるのが、巫女の目的なのか?)


 いや、それはない。それこそ意味不明じゃないか。

 悠人は不意に浮かんだ根拠のない妄想を振り払った。


 今朝、世羽が言っていたとおりだ。巫女の考えは想像するだけ無駄なのだろう。そもそも、悠人自身、巫女の人物像を正確に把握しているわけではないのだ。過去に巫女と対話した回数も、片手で数えられるほどしかない。


 巫女の思惑が読めないのなら、こちらは巫女の行動に会わせていくしかない。とりあえず、巫女に朔哉君を守る意志がないことはわかった。その上で、これからどうするかを考えなくてはいけない。


「ご用はお済みですか? でしたら、早々にお引き取りください」


 静流はそう言って、手に持っていた文庫本に目を落とした。言葉遣いはともかく、その態度は着ているメイド服には全くそぐわない。


 確かに、悠人の用は済んでいる。予想していたこととは言え、最初に要請を断られた時点で、アヴェスタにいる理由は消え失せた。


 しかし、慇懃無礼な静流の態度に黙って従うことに、悠人は抵抗を覚えた。その感情を的確に表現しようとすれば、やはり、癇に障る、というのが最も近いだろう。


 だから、悠人は顔を上げ、飛びきりの笑顔を浮かべて、言った。


「ショートケーキをください」

「……は?」


 文庫本から視線を上げた静流は、口を半開きにしていた。その、滅多に見ることができないであろう、驚きに間の抜けた表情を見ただけで、悠人は少し気分が晴れたような気がした。


「ショートケーキをいただけませんか。


 静流の反応に気をよくしていることを悟られないように、悠人は笑顔を貼り付けたまま、店員さん、を強調しながら言った。


 ここアヴェスタはカフェであり、悠人は客で、静流は店員だ。客である悠人の注文に、店員である静流は基本的には黙って従う義務がある。


 真顔になった静流は、数秒ほど悠人の顔を見つめ、


「かしこまりました。少々お待ちください。ご主人様」


 椅子から立ち上がって、アニメに出てくるメイド姿のキャラクターがそうするように、深々と頭を下げた。


「なるべく早くお願いしますね。紅茶が冷めてしまうので」

「……それでは、お紅茶のおかわりもお持ちいたします」


 悠人の追加注文にも、静流は完璧な営業スマイルでもって応えたが、ほんの一瞬だけ反応が遅れていた。それは、子供じみた悠人の反撃が、確かに有効であったことの証拠のように思えた。


 フリルのついたスカートを翻し、店の奥へと消えた静流の後ろ姿を見送りつつ、悠人は少しだけ反省した。


 こんなことをしたところで、静流のプライドに傷をつけることなどできないし、傷をつけられたとしても意味などない。静流との関係が余計に悪化するだけのことだ。これからのことを考えれば、無意味どころか損をしている。


 だけど、それでも、ほんのちょっぴり、気分がよくなった。


(僕もまだまだ子供だ。……いや、世羽の言う通り、ガキなんだろう)


 ショートケーキを注文してしまった以上、もう用が済んだからと席を立つわけにはいかなくなった。朔哉の学校が終わるまでにはまだ時間がある。今日で最後というコラボメニューを味わう余裕くらいはあるだろう。


 ケーキが運ばれてくるまでの間、悠人は店内の様子を眺めた。

 メイド一色の風景も、明日になればガラリと変わる。明日からはゲームセンターなどで人気の対戦格闘ゲームとのコラボが始まるらしい。悠人はそのゲームのことをあまり知らなかったが、前に朔哉がそのゲームについて話していたことを覚えていた。



「……つっ」


 不意に胸が痛み、悠人は右手でシャツの前を掴んだ。昨日の戦いで負った傷だ。連戦が予想される今の状況では、少々の痛みのために内力ないりきを消費して治すわけにもいかない。


 痛みとともに、昨日の出来事が思い出された。

 美優の……美優だった〈はしら〉の発した、あの言葉。


 ――悠人、また私を殺すのか?


(やっぱり子供だ、僕は。あの程度のことで動揺するなんて……)


 いくら予想していなかったこととは言え、刃を止めるだけでなく、直後の攻撃を棒立ちで受けてしまったのは、失態という以外の何ものでもない。

 あそこで傘を振り切れていたとしても、それで全てが終わっていたわけではないだろうが、そうであっても自分の未熟さを痛感させられる出来事だった。


 しかし、何故、とは思う。


 何故、“鉄血無情てっけつむじょう”なのか。


 美優として生まれ直した〈柱〉は“鉄血無情”ではない。それは確かだ。ならば、何故に“鉄血無情”を演じるのか。


(“鉄血無情”を名乗ることによるメリット……エリゴスたちを自分の手駒として使うため?)


 “鉄血無情”に忠誠を誓う七十二人の〈贄〉――いや、部下たち。

『鉄血七十二将』とも呼ばれる彼らの手強さを、四年前、実際に彼らと戦った悠人は実体験で以て理解している。

 彼らがどれほどに主柱である“鉄血無情”を慕っているかも、知っている。


 だからこそ、彼らを手駒にできるというメリットの存在を、悠人は否定する。


(数千年に亘って仕えてきた主を、彼らが間違えるはずはない。たとえ最初は気づかなかったとしても、少女を人質に〈贄〉ですらない少年を殺せ、なんて命令に従うわけがないし、その時点で偽物と感づくはずだ)


 だが、そのメリットを否定してしまえば、残る可能性は、悠人に心の隙を生み出すことくらいしかない。現に、悠人は美優の言葉によって動きを止めてしまい、致命的な傷を負うことになってしまったのだ。


(だけど、だ。僕の戦闘能力をぐことくらいしかできない。そんなことのために“鉄血無情”の振りなんて、面倒なことをするのかな?)


 悠人は〈贄〉であり、美優は〈柱〉だ。両者の力の差は決して小さくはない。

 仮に、お互い万全の状態で、正面から戦い始めたとしたら、悠人の勝ち筋は限りなく細い。迂遠な策を弄する必要などないはずだ。


(……いや、待て。違う。それよりも前に、おかしいことがある)


 思索の最中、重大な見落としに気づきかけた、そのときだった。


「お待たせいたしました、ご主人様♪」


 悠人が顔を上げると、メイド服を着た少女が、にこやかに微笑んでいた。静流ではない。店員として雇えば法令に抵触するのではないかと思うほどに幼い少女だ。


 彼女は、ショートケーキと銀製のティーセットをテーブルに置き、中身の冷めてしまったカップを回収すると、スカートの端を摘まみ上げながら優雅におじきをしてから、別のテーブルへと向かった。


 悠人はフォークを手に取り、すぐにケーキの上の小さな苺に突き刺した。

 先程は咄嗟にショートケーキを注文してしまったが、実を言うと、悠人はあまり苺が好きではない。味ではなく、無数の種が集まった見た目が苦手なのだ。


 生クリームのついた苺を口に放り込み、悠人は再び思考を走らせる。


(どうして気づかなかったんだ。あのとき、美優ちゃんがあんなことを言った、その意味に)


 ――悠人、また私を殺すのか?


(あの言葉は、僕と“鉄血無情”の――僕と姉さんの関係を知っていなければ出てこない言葉だ。美優ちゃんだった〈柱〉は、四年前の戦いのことを知っている……!)


 悠人が“鉄血無情”を討ったという事実だけであれば、知られていたとしても不思議ではない。現に静流はそのことを知っていた。


 だが、美優の発した「あの言葉」は、悠人と“鉄血無情”の関係を――姉であるがゆえに生じた“鉄血無情”の隙を悠人が突いたということを、それを悠人が未だに激しく悔いているということを知らなければ発想できないものだ。


(どうやって知った? 権能か? いや、それは鉄の権能を再現するのに使っているはずだ。だとすれば……)


 見ていたのか。

 四年前の、あの戦いを。

 すぐそばで。


(だけど、もしそうなら“鉄血無情”に手を貸さなかったのは何故だ? 敵は解放派の〈柱〉……“鉄血無情”と同じ派閥に属しているはず。エリゴスたちが従っていることから考えても、それは――)


 考えながら、無意識にショートケーキを口に運ぼうとしていた手が、止まる。


「くそっ」


 そして、悠人は小さく悪態を吐いた。

 自分の未熟さに対して、唾を吐きたい気持ちになった。


(僕はバカだ。最初からわかっていたはずなのに。エリゴスたちが女の子を人質に取るような戦いをするはずがない。たとえそれが、主柱である“鉄血無情”の命令だったとしてもだ)


 エリゴスたち、鉄血七十二将は悠人のことを憎んでいるだろう。それは、四年前に悠人が、彼らに対して考え得る限りの卑怯卑劣を行ったからだ。

 姉の仇を討つという名目――いや、言い訳を支えに、不意打ち闇討ち騙し討ち、あらゆる外道をひた走り、彼らの仲間をことごとく殺し尽くしたからだ。


 だが、どんな汚い手段をも躊躇わない悠人に、彼らが同じことをやり返そうとすることはなかった。彼らはいつも、悠人の卑劣を真っ向から叩き潰そうと挑んできた。それは、主柱である“鉄血無情”も同じだった。


 その結果、悠人に敗北した彼らを愚かだと笑う者もいるかもしれない。けれど、悠人はそれを否定する。四年前にしたことが、今、確かに自分の心に重くのしかかっていることを実感しているからだ。


 彼らはわかっていたのだろう。悠人の卑劣を仕返せば、自分たちも悠人と同じ外道に落ちてしまうということを。そして、一度落ちた外道から這い上がることがどれほど困難で、どれほどの苦痛を己に強いるのかを。


(彼らに戦う力を与えているのは誇りだ。それを自ら汚すような戦い方をするはずがない。織畑おりはたさんを人質に取るというやり方は、エリゴスの意志じゃなかったはずだ)


 があったのだ。

 エリゴスに卑劣な戦法を強いるほどのが。


(“鉄血無情”の命令ではありえない。他の〈柱〉の要請とも思えない。卑劣に走らせるほどの強制力……まさか、脅迫でもされてたのか? でも、エリゴスを追い詰めるほどの脅迫材料って、なんだ?)


 彼の、彼らの最も弱い部分。握られてしまえば抵抗できない物。彼らにとって一番大切な、何か。


 それは紛れもなく“鉄血無情”だ。彼らは忠誠を誓った主柱のためならば、己の命をも厭わない。再度の生まれ直しの輪廻に戻ることを、躊躇わない。


 ――コツン。


 金属が陶器を叩いたような音に、悠人は思考を中断した。


 見ると、フォークがケーキの載っていた皿を叩いている。いつの間にか、皿の上からケーキが消えていた。どうやら思考に没頭するあまり、無意識でケーキを食べきってしまったようだ。


(いけないな……。一つところに集中しすぎると、すぐ周りが見えなくなる)


 自覚のある悪い性向に溜め息を吐きつつ、悠人はフォークを置いて、ティーカップに手を伸ばそうとした。


 次の瞬間、悠人の脳裏を途轍もない閃きが走った。

 雷光の如き直感の光の中に、意識のない紫陽花を肩に担ぐエリゴスの姿が、確かに見えた。


(エリゴスは織畑さんを人質にした。朔哉君が逃げられないように、彼の選択肢を奪うために。同じことを、エリゴスもされていたとしたら?)


 彼にとって最も大切な存在――“鉄血無情”を人質にされていたのだとしたら?


 それなら、エリゴスが卑劣に手を染めたのも納得がいく。“鉄血無情”の身柄を盾に要求されれば、彼の選択肢は一気に少なくなるはずだ。


「……そんな馬鹿な」


 一瞬でそこまで考えて、悠人はすぐに首を振った。自分の思いつきの馬鹿馬鹿しさに、思わず笑みが零れるほどだった。


(何を考えているんだ、僕は。“鉄血無情”は〈柱〉だぞ? 一体誰がどうやって人質になんかできるんだ。大体、“鉄血無情”は四年前に死んで、まだ覚めてすらいない。覚める前の〈柱〉を捕捉する手段なんて、あるわけがない)


 止めていた手を動かし、ティーカップを口に運ぶ。微かな湯気の向こうに、目を疑うほど大きなパフェをトレイに載せているメイドが見えた。


(あるわけがない……はずだ。でも――)


 馬鹿馬鹿しいはずの思いつきは、しかし悠人の頭から離れようとしない。


(それに、もしエリゴスを動かしたのが脅迫だとしたら、敵は解放派の〈柱〉とは限らないということになる。派閥に属していない〈柱〉か、もしくは――)


 敵は四年前の戦いを知っている。悠人と“鉄血無情”の戦いを見ている。

 だが、解放派の〈柱〉だとしたら、“鉄血無情”に手を貸さないのはおかしい。


 東京には反解放派の防衛網が張り巡らされている。解放派の〈柱〉が侵入したのであれば、それに捉えられていたはずだ。逆に言えば、捉えられないようでは東京に反解放派が集う意味がない。


 敵は四年前に東京にいたのだ。東京にいても不自然でない〈柱〉だ。


(敵は反解放派の……巫女側の〈柱〉なのか?)


 不意に現れた思いつきという名の雲は、瞬く間に大きくなって、悠人の頭の中を覆い尽くした。

 それは、すぐにでも土砂降りの雨を降らせそうな、真っ黒な疑惑の雲だった。


(……会おう)


 悠人は、まだ熱い紅茶を一気に飲み干し、席を立った。


(巫女を守護する〈柱〉たちに会いに行こう)


 四の柱“悪辣雷傲あくらつらいごう”。

 十一の柱“紅蓮誅戮ぐれんちゅうりく”。

 十二の柱“糸魂戯弄しこんぎろう”。


 まだ覚めていない“逆理虐心ぎゃくりぎゃくしん”と“無謀白夢むむはくむ”を除くその三人が、現在、東京に座して巫女を守護する〈柱〉たちだ。


 彼らの居場所、正確には彼らへの連絡窓口になっている〈贄〉の居場所は記憶している。会える可能性は低いが、何か妙な動きがあればわかるはずだ。


 何もなければそれでいい。何もないのが一番いい。だが、このまま黙って大粒の雨に打たれたくはない。


 新しく買い直したビニール傘を手に、悠人はアヴェスタをあとにした。

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