7 問われる意志
ビルの中は耳が痛いほどの静けさに満たされていた。
平日の昼間とは言え、客の姿が全く見当たらないのは異常だ。店内BGMすら息を潜め、店員の気配もない。無人無音のビル内で、壁に貼られたアニメや漫画のポスターが、やけに不気味に感じられた。
エスカレータを駆け下り、悠人に追いついたのは、ビルの四階だった。
「
呼びかけながら考える。
俺は何をやってるんだ? 状況を完全に理解できているわけでもないのに、敵って言葉に実感だって持てていないのに、悠人さんに反感さえ抱いていたはずなのに。
どうして、悠人さんを助けようとなんかしているんだろう。
「
三階へ降りていこうとしていた悠人が、驚いて振り向く。
「一体どうして、待っていろと言ったのに……まさか、石を砕いて!?」
「砕いてっ……ませんっ」
朔哉は走って乱れた息を整えてから言う。
「わかんないです、俺にもわかんないんですよ。ただ悠人さんが、殺すとか殺されるとか、そういう世界にいるなんて、おかしいって思って……だから」
自分でも本当かどうか分からない理由を言う。
その理由に、朔哉の中の何人かは賛同していて、別の何人かは反対していた。
「何か、ないですか。俺に出来ること。悠人さんのために、出来ること」
朔哉の言葉に、悠人の顔が一瞬だけ綻ぶ。
だが、次の一瞬には、厳しい表情へと変わった。
「戻りなさい。君のほうこそ、こんな世界にいるべきじゃない。君は人間だ。〈
「悠人さんだって人間ですよ!」
朔哉は思わず叫んでいた。
「お願いですから、そんな風に自分を人間じゃないみたいに言わないでください! お願いです……」
悠人の顔に動揺の色が浮かぶ。
「だけど、僕は〈
「それでも人間ですよ! だって、世羽が言ってたじゃないですか、〈柱〉にも人間と同じ心があるって。その〈柱〉に力を分け与えられた人間が〈贄〉でしょう? だったら人間ですよ! 人間以外の何かになんて、なるわけないんだ!」
それは理屈ではなかった。朔哉は自分の願いを叫んでいた。
悠人さんに、これ以上遠くに行って欲しくない!
「違うんだ……朔哉君、僕は、僕の手は、もう……」
悠人は弱々しく首を振りながら言う。
だが、その零れ落ちるような言葉を遮り、
「失笑を禁じえん類の戯言だ。なあ、時雨悠人よ」
聞き覚えのない男の声がした。
悠人は弾かれたように声のしたほうを見た。同時に、朔哉を庇うように背後へ回す。ビニール傘を握る指は、力を入れすぎて真っ白になっていた。
このビルには、一つの階につき、四つの店舗が収まっている。今いる四階には、エスカレータの側から見て、手前右にモデルガンの店、左にレンタルショーケース、奥の右側は古書店で、左側にはコスプレ衣装を売る店があった。
四つの店舗は、十字に延びる通路で区切られている。
その通路が交差する、フロアの中央に、
「我らの生きる世に道徳はなく、倫理もない。なんとなれば、それらを常として在る人が営む世と隔絶されるは、当然の帰結であろう」
黒いコートを
身長が二メートル近くはありそうな強靱な体躯。それに見合った厳めしい容貌。彫りが深く、眼光は鋭い。高い鼻や、短く刈り込んだ金髪から、朔哉は外国の軍人みたいだと単純に連想した。
その顔を、朔哉は知っている。昨日、美優を乗せて走り去った自動車を運転していた男だ。後部座席のドアを開き、美優を迎えた男だ。
「な、なんだよ……なんなんだ……!」
朔哉は驚愕していた。あまりに奇絶な展開に、恐怖すら覚えた。
美優に関係する男が敵として現れたから、ではない。
男が肩に担いでいる荷物がなんであるか、気づいたからだった。
「あ……
朔哉の幼馴染み、
制服姿で、弛緩したように手足をダランと垂らしている。
混乱の極地に、朔哉は立たされた。
――なんで、どうして紫陽花が、関係ないのに、〈柱〉なんかと関係ないのに、どうして動かない、人形みたいだ、どうして、まさか、まさかまさかまさか――
「大丈夫、彼女は生きている」
悠人が、男のほうを睨んだまま、朔哉の手を握り、言う。
それだけで、混乱が少し、収まった。
「当然だ。死体を持ち歩く趣味はない」
言って、男は紫陽花を床に下ろした。
紫陽花の顔は蒼白で、眠っているように瞼を閉じている。
「あの野郎……! 紫陽花に何を……!」
混乱の去った朔哉の心に、代わって怒りの炎が燻り始めた。
「我が名はエリゴス。
重々しい声で名乗った男の両腕が、くすんだ色の光に包まれる。
空気に染み込むような不可思議な輝きは、男の太い両腕をすっかり多い隠す。
やがて、光が消えると、その両腕は巨大な物体に覆われていた。
「そして、これぞ我が
巨体のエリゴス自身の背をも超えそうな、鈍い輝きを放つ鉄色の大砲が、エリゴスの両腕に装着……いや、両腕と融合していた。
二本の大砲は何枚もの鉄板を貼り合わせたような外見で、ところどころ黒い管が露出している。その管の先は、両肩の上部に出現した、宙に浮く球体と繋がっていた。
異形。あまりに無骨な、異形。
「なんだ、あれ……?」
「〈
悠人がエリゴスから目を離さずに言った。
「僕ら〈贄〉や〈柱〉は超法則的な能力を発揮するとき、必ず固有の〈依代〉を出現させる。その〈依代〉を介することで初めて、僕らは宇宙の法則を超える」
大砲が見た目どおりに鉄で出来ているのならば、その重量は想像を絶するだろう。それにもかかわらず、エリゴスは涼しい表情で立っている。
朔哉は戦慄とともに悟った。
――確かにここは、別の世界だ。
「エリゴス。貴方は、その少女が誰か、知っているのか?」
冷たくナイフのように尖った声で悠人が問う。朔夜を庇う彼の両手を、いつの間にか純白の手袋が包んでいた。公園で朔夜を助けたときに着けていたのと同じ手袋。おそらく、これが悠人の〈依代〉なのだろう。
「知っていなければ、持っては来ない」
「なっ、お前……!」
まるで紫陽花を物のように言うエリゴスに、朔夜は思わず反駁しそうになったが、意を察した悠人に左手で制された。
「では、貴方の目的はなんだ。年端もゆかない無関係の少女を戦いに巻き込むなど、
悠人はエリゴスのことをよく知っているようだ。顔見知り、などという穏やかな関係ではあるまい。エリゴスが公園で朔夜に銃を向けた女の仲間だとしたら、過去に悠人と戦ったことがあったとしても不思議ではない。
「よりにもよって貴様が、我が忠義の戦を語るか」
「そのように言う貴方だからこそ、わからないと言っているんだ」
エリゴスは、右の大砲を振り上げ、朔哉たちに先端を向けた。
「篠突朔哉を、殺すためだ」
驚きに、朔哉の肩がびくりと跳ねた。
悠人も驚いたのは同じだろうが、眉一つ動かさなかった。
「もっとも、その前に時雨悠人という障害を排さねばならぬようだが」
「……少女は、朔哉君が逃げ出さないための、人質か」
エリゴスは答えない。
「そうか。では、もういい」
瞬間。息苦しさを、朔哉は感じた。悠人の全身から、ゲームセンターで世羽が放っていたのと同種の圧力が、放たれている。
それは殺意だった。
「僕の大切な友人を巻き込んだこと、後悔してもらう」
「我が同胞を独善によって殺し続けた貴様が、それを言うか!」
エリゴスが激昂して叫び、両腕の大砲を悠人に向ける。
その直後。
朔哉の目には、悠人が掻き消えたように見えた。
それほどのスピードで、悠人は駆けた。
背を低くし、右側から回り込むようにしてエリゴスに肉薄する。
そして、地を這うような低さから、
「はぁッ!」
「流石に速い! だがなぁ!」
それを、エリゴスは右の大砲で受け止める。
悠人が振ったのは、ただのビニール傘だ。なんの変哲もない、そこらのコンビニで五百円くらいで買えそうなビニール傘だ。とても武器として扱るような物ではない。エリゴスの大砲と比べれば、鉄パイプに爪楊枝で挑むようなものだろう。
だが、そのビニール傘と大砲がぶつかった瞬間、まるで重い金属同士が凄まじい速度で衝突したような音が響いた。
「ふっ!」
悠人は素早く体を捻り、エリゴスの左脇に回り込んで、ビニール傘の刺突を放つ。
対し、エリゴスは左の大砲を振り下ろすことで、刺突ごと悠人の体を叩き潰そうとする。見てからでは間に合わない、完全に悠人の攻撃を予測した上での行動だ。
だが、動きを読んでいたのは悠人も同じ。刺突を出し切る前に、小刻みなステップで身を躱し、エリゴスの背後に回ろうとする。
無論、エリゴスは大砲を振り回して悠人の行動を許さない。
幾多の死線を潜ってきた戦士同士の、音速の読み合い。お互いに、次の手を読まれていることさえ予測して、致死の一撃を滑り込ませる隙を探す。
傍から見ている朔哉には、二人の動きを目で追うことすら難しかったが、一つ確かだと思えることがあった。
悠人の持っているビニール傘は、やはりただのビニール傘じゃない。エリゴスは明らかにビニール傘を警戒している。
奴の巨躯は傘で打ち据えられた程度では揺るぎもしないはずだ。それなのに、エリゴスの戦い方は、まるで刀を持つ敵と相対しているかのような動きに思える。
幾度かの交錯ののち、エリゴスは後方へ跳んで悠人から距離を取った。
「フンッ、四年ぶりに合わせる刃に
雄々しく叫び、エリゴスは右の大砲を振るい、近くにあったレンタルショーケースを粉々に吹き飛ばした。ガラス片と、破壊された商品の欠片が舞い散る。
すると、エリゴスの右肩の上に浮いていた球体が光り始め、舞っていた無数の破片を次々と吸い寄せて、吸収していく。
やがて、球体に繋がれていた黒い管も光り始める。光は管を通って右の大砲に注がれていく。何かが、球体から大砲へと、送り込まれる。
その大砲を、悠人へと向けて構え、
「
叫び。そして轟音。
腹を破るような凄まじい音がして、大砲から何かが射出された。
それは、咄嗟に横に跳んだ悠人を掠め、進路上にあるあらゆる物体を粉微塵に砕きながら飛翔し、激突した壁に無数の亀裂を走らせて止まった。
壁にめり込んだ物体は、黒い鉄球。
サッカーボールほどの鉄塊が、弾丸のような速度で撃ち出されたのだ。
「見事! なれば、次の一撃も
攻撃を回避されたというのに、どこか楽しげにエリゴスは言う。
すると今度は、左肩の上に浮いていた球体が輝き始め、先程右肩の球体がしたのと同じように、当たりに散らばった様々な品物の破片を貪欲に飲み込み始める。
左肩の球体からは、左腕の大砲へと、管を通して何かが送り込まれ、
「
悠人に向けられた先端から、眩いばかりの光の筋が放射された。
薄い赤色をした不気味な光の筋は、一瞬にして、柱を貫き、壁を貫き、プラスチックを焦がしたような独特の臭いを残して消えた。
光の筋が貫通した柱や壁は、チーズみたいに円形に刳り貫かれており、寸でのところで身は躱したものの、光に掠ってしまった悠人の服には、焦げ目が残されていた。
左の大砲から放たれたのは、レーザー。
射線上にある物体を無情に焼き消す、不気味な赤光。
「やはり! この程度では威嚇にもならんか。だが、二撃で敵わぬならば、十ではどうか? 百ではどうか? この場には、幸い弾丸は山ほどある」
笑みを浮かべて言うエリゴスに、ただ睨み返す悠人は、
「……しッ!」
短く息を吸い、弾かれたようにして、エリゴスに向け疾駆する。
「そうよな! 間合いを詰めるより他、あるまい!」
肉薄してくる悠人を、エリゴスは大砲を振って迎え撃つ。
再びの交錯。ビニール傘は右の大砲で受けられて、反撃の左の大砲を、ステップで後方へ躱しながら、悠人はポケットからハンカチを取り出した。
場違いな白いハンカチは放られ、ヒラヒラと舞い、エリゴスの胸に触れる。
その瞬間、
「ぐっ! おおッ!?」
エリゴスの巨躯が、強烈なバネに跳ね返されたかのように、吹き飛んだ。
ただの白いハンカチは何食わぬ顔をして床へ舞い降り、飛ばされたエリゴスは大砲を床に突き立て、慣性を殺し、体勢を立て直す。
だが、悠人はそれを許さない。
「白に染まれ!」
叫んで床に手をつく。白い手袋に包まれた手をつく。ただそれだけの動作に、何かをした、と朔夜が察した直後。
朔哉の立つ位置から見て奥半分のフロアの床が、一瞬にして、粉々に砕け散った。
「ぬぅっ! 貴様、これほどの……!?」
全ての物が、落ちる。砕けた床の上にあった全ての物が。
本の棚が、コスプレ衣装を纏ったマネキンが、そしてエリゴスもが。
轟音、破砕音、破裂音、エリゴスの叫び声、あらゆる音を引きずって、四階のフロアの半分が、三階へと落下した。
その破壊を招いた張本人である悠人は、一瞬だけ朔哉に視線を送り、エリゴスを追撃すべく、三階へと飛び降りた。
数拍遅れて、朔哉は走った。悠人の視線の示す意味に気づいたから。
「紫陽花!」
フロアの中央に残されていた少女に走り寄り、その体を抱き起こす。
体温を感じた。口元に耳を寄せると、確かに呼吸をしている。
意識がないだけで、ちゃんと生きている。
「よかった……」
ほっと息を吐く。そしてすぐ、悠人のことを思い出す。
紫陽花が寝転がされていた位置は、崩落したフロアの淵のすぐ近くだった。
丁寧に紫陽花を寝かせ、淵から階下の様子を伺う。
戦いは、まだ続いていた。
崩落に巻き込まれたエリゴスは、しかし無傷で、二本の大砲を振り回して悠人を押し返し、右の大砲から鉄塊を、左の大砲からレーザーを撃ち出し攻撃する。
一方、悠人は、距離を取られれば砲撃を躱してから接近し、二本の大砲をかいくぐっての一撃を狙う。
「圧倒的に不利、だな」
「せ、
いつの間にか、世羽が隣に立っていた。
「おーおー、走り回っとるな。体力が無尽蔵というわけでもあるまいに」
世羽の言う通り、悠人はエリゴスの隙を伺うように瓦礫の山を疾駆している。
だが、エリゴスの防御は固く、攻めあぐねているのが朔夜にもわかった。
「このままではジリ貧だな。まあ、それも当然。悠人にとっては相性が悪すぎるんだ。あの金髪男の〈
「けんのう?」
朔夜は世羽の横顔を見ながら、オウム返しに問うた。
「私たちの持つ特殊能力――異能のことさ。〈柱〉も、〈贄〉も、等しく固有の〈権能〉を持つ。まあ、単純化した記号に過ぎない概念だが……悠人の持つ異能は〈染色の権能〉と呼ばれるものだ」
階下でエリゴスの大砲が瓦礫を吹き飛ばし、巻き起こった粉塵に朔夜は思わず顔を両手で庇った。対して、世羽は身動ぎひとつせず、楽しげな表情で悠人たちの戦いを見下ろしている。
「人が作り出した物、ビニール傘でもハンカチでもいいが、それらには必ず人が与えた役割がある。その役割を色と捉え、それを染め変えることで全く異なる役割・性質を人工物に与える。それが悠人の〈権能〉だ。例え変哲のないビニール傘でも、刀の色を与えてやれば人を斬り、盾の色を与えてやれば敵の攻撃を防ぐ道具になる」
「それって……」
朔夜は昨日、公園で見た光景を思い出した。半狂乱の女が放った銃弾を、ただのビニール傘が防ぐ光景……あれは、悠人の〈権能〉が作り出した光景だった。ビニール傘を刀の色で染めて女の腕を斬り飛ばし、盾の色を与えて朔哉を守った。
「悠人さんが、いつもビニール傘を持ち歩いているのは……」
「常在戦場。いつでも戦えるようにするため。いつでも殺せるようにするためだ。見てみろ」
世羽に指し示され、朔夜は階下の戦場を見つめる。
エリゴスの大砲から放たれたレーザーを躱した悠人が、上着の内ポケットから取り出した何かを投擲した。
「ちぃっ!」
エリゴスは舌を打ちつつ、大砲を棒高跳びの棒のように使って身を翻す。
標的を失った何かは、そのまま高速で飛翔し、コンクリートの壁に深々と突き刺さった。そして、ようやく、朔夜はその何かの正体を知った。
「ボールペン……?」
三本セット百円くらいで売られていそうな安っぽいボールペンが、目にも止まらぬ速さで飛び、コンクリートに穴を
「今のは、さしずめ矢か銃弾の
人々の足元を支えるという役割を消されてしまっては、バラバラに崩れ落ちて瓦礫の山と化すだけ。
「何をどのような色で染めるのかわからんからな、敵にしてみれば厄介極まる〈権能〉だよ。人工物で溢れるこの東京で、これ以上に多様性を持つ力は他にない。もっとも、この状況では役に立たんがな」
「ど、どうして……?」
「金髪男が砲撃するときの様子を、よく見てみろ」
言われるままに、朔夜は観察する。
そして、先程から見ていた戦いの様子と合わせて、すぐに気づいた。
エリゴスは、大砲を撃つ際、直前に球体で周囲の物体を吸収している。
「あれはな、物体の質量を吸収しているんだ」
朔哉は変な相槌を打たずに黙って聞いた。
「球体が吸収した質量を大砲へと送り、同等の質量を持つ鉄の弾丸か、等価のエネルギーへと変換したレーザーとして、撃ち出しているのさ。言わば〈変換の権能〉だな。しかし、どのような物体でも吸収できる、というわけではないだろう」
確かに、どんな物体でも吸収できるなら、最初から大砲を撃ってきたはずだ。極端な話、このビルそのものだって、吸収できてしまう。
「朔哉。貴様は始めから観戦していたのだろう? 気づいたことはないのか?」
「気づいたこと……あ、いや、まさか」
最初に大砲で攻撃する直前、エリゴスは近くにあったレンタルショーケースを破壊していた。あのとき、ショーケースを破壊して、何が起きた?
ガラスの破片が飛び散った。中にあったプラモデルがバラバラになった。
そうした物体の欠片が球体に吸収されるのを、朔夜は確かに見ていて、それを思い出し、答えに至った。
「もしかして、壊れた物の欠片しか、吸収できない?」
「そのとおり。あの金髪男は、破壊された物体しか吸収できんのだろう」
階下の戦いをよく観察すると、球体に吸い込まれるのが瓦礫ばかりだとわかる。
「どんな〈権能〉にも力を発動させる条件や、弱点というのはあるものだ。しかし、金髪男の〈変換の権能〉の弱点は、悠人の〈染色の権能〉と対峙する場合に限り、弱点にはなり得ない」
世羽は饒舌に説明を続ける。彼女が浮かべている微笑みは、階下の戦いを眺めるのが楽しいのか、それとも説明をするのを楽しんでいるのか、朔夜にはわからない。
「悠人は人工物しか染色できん。人によって作られ、人によって役割という色を与えられた物しかな。元から役割を与えられていない自然物や、破壊されて役割を失った人工物は染色できんのさ。だが――」
エリゴスは、その壊れた物を吸収する。吸収して、己が力とする。
「この戦い、金髪男はただ物を壊しまくるだけでいい。そうすれば吸収できる質量が増え、いくらでも大砲が撃てる。逆に悠人は、物を壊されてしまうと、それだけ自分の武器に出来る人工物が減ることになる。金髪男が有利になればなるほど、悠人は不利になっていく……というわけだ」
そして、現在の戦況は、悠人にとって最悪と言えた。
なにしろ、戦場には、壊れた四階の床が瓦礫となって山を成しているのだ。
四階にあった人工物は落下して壊れ、三階にあった人工物は瓦礫の下敷きになってしまっている。そのせいで、悠人の武器は手元のビニール傘くらい残っていない。
だが、この状況を作ったのは悠人自身だ。
何故、そんなことをしたのか、朔哉は知っている。
「俺と紫陽花がいるからだ……!」
エリゴスを容易に二人を攻撃できない場所へと縫い付け、二人が逃げられる時間を得るために、悠人は敢えて自分に不利な状況を作った。
朔哉は紫陽花のほうへ振り返った。
横たわる紫陽花の瞼は閉じられ、意識が回復しそうな様子はない。
今の状況で朔哉にできることは一つだけだ。紫陽花を連れて、逃げること。背負ってでも担いででもいい。とにかく、二人でこの場所から離れれば、悠人は自由に戦えるようになる。勝機も生まれる。
「その娘を負ぶって逃げようと考えているのなら、やめておけ」
紫陽花を抱きかかえようとしゃがみ込んだ朔哉に、世羽が言う。
「金髪男には仲間がいるのだろう? 外に気配があるぞ」
朔哉は驚き、立ち上がって世羽のほうに振り向く。彼女はやはり、階下の戦場だけを見つめていた。
「気配を隠そうともしていない。それに気づいているからこそ、悠人は躍起になって金髪男を仕留めようとしているんだろう。どこまでも甘い奴だ」
「本当なのか、世羽……?」
震えた声の問いかけに、世羽は答えない。
外にいる仲間というのは、朔哉に銃口を向けた女か、それとも別の誰かか。どちらにしても、世羽の言っていることが本当なら、ビルの外に逃げることはできない。
だからと言って、上階のアヴェスタに逃げ込んだとしても、先程の
「どうすりゃいいんだ……?」
逃げ道が見つからない。
この状況を変える手段が思い当たらない。
世羽の隣に立って階下を見下ろすと、悠人はさらに追い詰められていた。顔には疲労の色が濃く出ていて、砲撃を避けきれなくなっているのか、体のアチコチに傷を負っていた。
それでも悠人は、エリゴスの砲撃が朔哉たちのいるほうに飛ばないよう考えて、自分の位置を取っている。自分の命が危ないのに、まだ、朔哉たちのことを想って戦っている。
朔哉は、痛む胸を両手でぎゅっと押さえた。
「このままじゃ、悠人さんが……!」
「石を砕けばいいのですよ、
知らぬ間に、隣に静流がいた。
朔哉の顔を覗き込むようにして、笑っていた。
「彼を助けたいのなら、巫女様より賜った〈
そう言って、笑う。
息を呑むほどに、美しい笑顔だった。
「巫女様の御力は偉大です。石を砕けば、貴方は他の〈贄〉など及びもつかない力を得られるのです。その力を持ってすれば、あのような卑小極まる輩など、ものの数秒で捻り潰すことが出来ましょう」
静流は優しい所作で、朔哉のポケットに収められていた〈金光の奇石〉を取り出し、彼の手に載せた。
朔哉は石を見る。石にも見られているように感じた。
「これを、砕けば……」
力が手に入る。悠人を助けられる。
朔哉は戦う悠人の姿を見る。次に、世羽の目を見た。
世羽の黒い瞳は、やはり、自分で決めろ、と言っていた。ただ、見届けてはやると。貴様がどんな道を選ぶのか見届けてやる、と言っていた。
もう一度、石を見る。映り込む少年の顔は、暗くて見えない。
「……俺は、
思っていることを、言葉にする。自分に言い聞かせるように。
「それは、美優が大切な存在だから。失いたくないから」
美優にもう会えないと考えるだけで、胸が苦しくなる。
突き刺されるみたいに、胸が痛むんだ。
それが、美優を大切だと思える証。
だったら、今まさに感じている痛みは、なんだ?
自分が不利な状況に陥ることにも構わず、傷だらけになって、それでも自分以外の何かのために戦う人の姿に、感じている痛みは、なんだ?
「そうだ。今だって、胸が痛い。それは、悠人さんも俺にとって大切な人だからじゃないか……!」
彼のようになりたいと思った。
彼のような大人になりたいと、憧れていた。
そう感じているのは、朔哉だけではない。
美優も、悠人のことが好きだった。大切に想っていた。
もし、美優を取り戻せたとき、そこに悠人がいなかったら?
美優は笑ってくれるだろうか。お兄ちゃんさえいればいいと。
そうだったらいいと思う。
でも、そうはならないと知っている。
「俺は……悠人さんを助ける」
石を持った手を握る。強く、強く。
「そのための力を、俺にくれ!」
願いに応えるように、拳の中で石の砕ける感触がした。
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