8 再会

 握った指の間から、強い光が漏れる。

 全てを黄金色に染める、金の光が。


 ゆっくりと手を開く。

 手の平の上で石の破片が輝いていた。朔哉さくやを歓迎するかのように。


 やがて、破片は自然とさらに細かく砕け、サラサラとした光の粒と化して宙を漂い、空気に溶けるように消えていった。


「これで……〈にえ〉になれたのか?」


 体には特に変化がない。

 急に体が軽くなるとか、遠くまで見渡せるようになる、ということもない。


「おめでとうございます。貴方は栄誉ある巫女様の〈贄〉となられたのです。同じく巫女様に仕える者として、歓迎いたします」


 静流しずるが花嫁を寿ことほぐような笑顔で言った。

 直後、近くでズンという重い音が響いた。


「あまり愉快でない事態だ。無理を押してでも先に片付けておくべきだったか?」


 エリゴスが四階まで跳び上がってきていた。

 彼は首を傾げながら、無造作に右の大砲を階下に向けて撃った。

 エリゴスを追って跳ぼうとしていた悠人ゆうとが、衝撃と粉塵に足を止められる。


「先刻の光……記憶にある。忌まわしい巫女が〈贄〉を生むときの光か。なれば篠突しのつき朔哉は巫女の人形と化したということ。まあ……それはいい」


 エリゴスは険しい表情で、朔哉のそばにいる世羽せうと静流に目をやった。


「根無しの“吸光漆黒きゅうこうしっこく”に、巫女の犬……ともに相手取るは、考えるまでもなく愚策。であらば他にすべもなし」


 自分に確認させるように、ブツブツと現状分析を口に出す。

 そして、唐突に言った。


「目標を殺し、逃げる」


 右腕の大砲が朔哉に向けられる。浮遊する球体が光を放つ。すでに貯め込まれていた質量が大砲に送られ、鉄の弾丸が形成される。


「え、え?」


 本当に、なんの脈絡もない攻撃の気配に、朔哉は心の底から焦った。


〈贄〉になったと言っても、何が変わったのか、わからない。

 特殊な能力――〈権能けんのう〉の使い方も、そもそも、自分にどんな〈権能〉が宿ったのかも、わからない。


 階下の悠人は足止めされて動けそうにない。

 後ろにいる世羽と静流が助けてくれそうな気配もない。


 自分に向けられた大砲の中、その暗がりが淡く光るのが見えた。撃ち出される。鉄の砲丸が。コンクリートの壁を柱を容易く砕く剛力の球が。


 階下に散らばる瓦礫のように、直撃を受けてコナゴナに砕ける自分の体のイメージが、脳裏をよぎった。


「う、うわあああっ!?」


 朔夜は悲鳴を上げ、目をつぶり、咄嗟に右手を前に向かって突き出した。

 ただの人間の腕一本で砲弾を受け止められるはずなどない……と、考える余裕すらない、ただの反射的な防御行動だった。


 轟音が響く。命を奪う鉄塊が放たれた音。


 しかし、


「………………?」


 残響がやんでも、何も起こらない。

 朔夜は恐る恐る目を開いた。


「……え?」


 目の前で、

 突き出した右手、その手の平で、砲弾が止まっている。まるで、朔夜の右手が砲弾を受け止めたかのように。


「なんだ、これ……」


 驚いたのは、自分の手が砲弾を止めたことだけではない。


 光っている。

 朔夜の右腕が青く光り輝いている。


 よく見ると、その光は幾筋もの青いラインが集まったもので、ラインは右腕から肩を通り、朔夜の心臓のあたりから伸びているのがわかった。服の上からでも、青い光の筋がはっきりと見て取れる。


 呆然としたまま、朔夜は右腕を下ろす。

 すると、さらに不思議な光景が目の前に現れた。


 砲弾が空中に浮いている。

 朔夜の右手の平に触れていた砲弾が、右手を離しても尚、空間に縫い付けられたみたいに、その場に浮いている。


 しばらくして、砲弾は重力の存在を思い出したかのように、重い音を立てて落下した。それと同時に、朔夜の右腕の青い光も消えた。


「それこそが、まさに〈神格しんかくの権能〉です」


 静流が、感極まったような声で言った。


「自らの肉体の一部を“神格化しんかくか”し、あらゆる奇跡を体現する力……巫女様と同じ、字義通りの万能力です」

「しんかくか……? ばんのう……?」


 朔夜は光の消えた右腕を眺めながら、静流の言葉を呆然と繰り返した。


「たった今、朔夜さんの腕に現れたのは〈覇紋はもん〉と呼ばれる、力の光脈です。その〈覇紋〉が浮かび上がった部位を神格化……すなわち、己の意志によって、願いによって、それを叶える神を降ろす。それが〈神格の権能〉なのです」


「要は、ということさ」


 熱に浮かされたような静流の説明を、世羽が補足した。


「神格化された部位は、貴様の意志に応える。願いを叶える。想像イメージを具現する。この右手で何かをする、何かをしたい、何かになれる……そういった想いが、そのまま現実のものになるんだよ。と想えばそうなるし、と想えば、そうなる」


 先程、砲弾が打ち出される直前、朔夜は右手を突き出した。特に何かを考えた行動ではなく、反射でそうした。

 だが、その行動にも意志は乗っていた。


 自分の身を守りたい、砲弾を防ぎたい、止めたい、止める……そういった意志や願いが、無意識に〈神格の権能〉を発現させ、朔哉の右手に、砲弾を防ぎ、砲弾を止める奇跡ちからが与えられたのだ。


 そして、そのとおりに砲弾は防がれ、砲弾は止められた。あらゆる物理法則を超えた、超法則的な奇跡として、朔哉の意志が具現されたのである。


「朔夜さん。貴方が強い意志を持ち、強く願いさえすれば、〈神格の権能〉は必ずそれを叶えます。そこに


 朔夜が振り向くと、静流は目を潤ませながら、神に祈るように両手の指を組んでいた。朔夜に〈神格の権能〉が宿ったことを本当に歓迎している。歓喜している。僅かに恐怖を感じるほどに。本気で。


「その力の及ぶところに限りはなく、巫女様を除く〈はしら〉たち――二十三人二十三種の有する〈権能〉すら、その身で再現することができる。〈神格の権能〉とは、まさしくの力なのです……!」


 感激に声を震わせる静流の横で、世羽が、


「始原にして頂点……言い得て妙だな」


 呆れたような顔で呟いた。


「神格の……権能」


 朔哉は自分の右手を見つめた。

 何も変わっていない。十数年連れ添った自分の体の一部だ。ついさっき青く輝いていたのが、もう幻だったようにさえ思える。

 だが、確かに神は降りていた。


 ――この力があれば。この力さえあれば。


「使いこなせなければ、意味はないが」


 エリゴスの太い声した。

 殺意みなぎるその声音に、朔夜は今の自分がどこにいるか思い出した。


「意志を強く持てよ、朔夜。〈神格の権能〉など関係ない。の強さを決めるのは、結局のところ意志の強さだ。それを忘れるな」

「あ、ああ」


 世羽の言葉に背中を押されるように、朔夜は四階フロアの淵から身を躍らせた。

 直後、朔夜のいた場所をエリゴスの大砲が凄まじい速度で横切った。一瞬でも判断が遅れていたら、朔哉の体は微塵に砕かれていただろう。


 階下への着地も、ほとんど衝撃はなかった。実感は湧かなかったが、やはり石を割る前とは明らかに違う。


「朔哉君!」

「大丈夫です! やれます!」


 悠人の声に、そちらは見ずに答える。

 ズン、と大砲の重さのせいか響きを伴ってエリゴスも階下へ降り、


「やれんよ」


 と、着地した次の瞬間には左腕の大砲を構えていた。

 行動に全く無駄がない。早く朔哉を仕留めなければ、観戦気分の世羽と静流が参戦してくるかもしれないと考えているのだろう。


「巫女と同じ〈権能〉に、巫女と同様の〈依代よりしろ〉か」


 エリゴスは確認するように呟く。その言葉に、体に浮かぶ〈覇紋〉もまた、エリゴスの大砲や悠人の手袋と同じ〈依代〉なのだと、朔夜は知った。


「さりとて、成すべき任に変わりなし」


 いつの間にか、エリゴスの大砲に変化が起きていた。右の肩の球体から右腕の大砲に繋がる管が外れ、代わりに左腕の大砲から伸びた管が接続されている。大砲一本に、二つの球体が繋がれている形だ。


 二つの球体が輝きを放ち、当たりに散らばる瓦礫を飲み込み始める。

 質量を蓄えるほど輝きは強くなり、二つの球体が一回り大きくなって見えた。


「これが防げるか?」


 気負いも脅しも含まぬ声で、エリゴスが言う。


「防げなかったら、死ぬだろうが……!」


 朔哉は額に汗を浮かべながら答える。


 二つの球体が繋がれ、威力が二倍――と、単純に考えるわけにはいかないだろう。それなら二発撃ったほうが話が早い。おそらく〈神格の権能〉を持ってしても容易には耐えられない攻撃が来ると考えて、間違いない。


 左の大砲から放たれるのは、レーザー。

 レーザーってのは光だ……と、朔哉は科学の授業を思い出して考える。

 光の性質を持つ以上、いくら殺傷能力の高いレーザーだろうと、様々な条件によって、反射したり、屈折したり、拡散したりするはず。


「それだったら、やりようはあるだろ!」


 朔哉は顔の前で腕を交差させた。


 意志を強く持つ、と言葉でいうのは簡単だが、実際に行うのは難しい。

 だから、朔夜はイメージした。レーザーが、光が、拡散するイメージ。そして、それが叶うことを願った。


 両腕に青い〈覇紋〉が走り、朔哉の視界が青い光に覆われる。


「その細腕で受けられるか! この破天光はてんこうを!!」


 そして、放たれた。

 クォォーン、という甲高い音を立て、朔哉の身長ほどもある、極太のレーザーが。


 それに驚く間もなく、


「――つぉッ!?」


 接触。両腕に熱い感触。鼻をつくプラスチックが焦げるような臭い。


 朔哉の両腕は、見事にレーザーを拡散させ、防いでいた。

 石に当たって砕ける流水のように、散ったレーザーの飛沫が、足元の瓦礫を焼く。


 意志は届いた。願いは叶った。朔哉の両腕にレーザー光を拡散させる奇跡が具現されていた。


 だが、しかし。


「いつ、まで……防げば……いいんだ!?」


 何秒経っても、レーザーの照射が、やまない。

 赤光の奔流に押され、朔哉の体がジリジリと後退させられる。


「それは貴様が命を落とすまでだ」


 そう言ったエリゴスの、左肩に浮かぶ二つの球は、まだ輝きを放っていた。

 さらに、付近の瓦礫を吸収し、質量をエネルギーへと変換し、レーザーの照射を続けている左の大砲へと、送り込んでいく。

 瓦礫の山が消えない限りエネルギーは充填され続け、レーザーの照射はやまない。


 これはマズすぎる……と、声も出せない状態で、朔哉は焦った。


 レーザーは防げている。でも、いつまでつ?

 戦いにも、力の扱いにも慣れていない自分が、いつまで神格化を維持できる?

 エリゴスが瓦礫を使い切るまで、保つのか?


 焦りが一筋の汗となって朔哉の首筋を伝う。

 まさに、そのときだった。


 ドォン、という爆発音がして、瓦礫の山の一部が吹き飛んだ。

 すると、視界が一気に灰色に染まり、そして何故か、両腕に感じるレーザーの圧力が、弱まる。


「これって……?」


 粉塵だ。

 爆発で巻き起こった粉塵が、レーザーの光を遮り、減衰させているのだ。


「なにっ!? しまった、奴を……!」


 今度こそ驚きに満ちたエリゴスの叫び。

 だが、それを最後まで聞かずに、朔哉は走り出した。

 全力で、レーザーを両腕で割りながら、エリゴスに向かって。


「うおぉぉぉああぁぁぁぁぁぁッ!」

「ぬぅ!? 貴様ッ!」


 接近を許し、エリゴスはレーザーの照射を停止する。

 このまま朔哉が砲口に近づけば、左の大砲を損なう恐れがあったからだ。


 しかし、その判断は、間違っていた。


「まだっ……まだだ!」


 朔哉は止まらない。

 交差した両腕から〈覇紋〉が消え、代わりに両足が青く輝く。

 イメージしたのは、とにかく速く走ること。速く走って、距離を詰めて、やることは一つだけ。

 瞬間的にして圧倒的な加速を得て、朔哉は、


「おっらぁッ!」

「ぐ、うぅぅッ!?」


 エリゴスの懐へと、全力の体当たりをぶちかました。


 それでもまだ、朔哉は止まらない。


「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」


 速度とは、力である。速ければ速いほど、生まれる力は大きくなる。

 その力で、エリゴスの巨躯を強引に押しながら朔哉は突っ走り、フロアに残されていた太い柱へと激突した。


「おごぉあ!?」


 加速によって生み出された途轍もない衝撃。

 それをエリゴスは、柱と朔哉に挟まれて全身に浴び、血を吐く。


 ぶつかった反動で、朔哉は弾かれるように後退し、両者の間に距離が生まれる。


 その隙に、エリゴスは右の大砲を振り上げる。

 攻撃のためではない。防御姿勢を取るためだ。


 エリゴスは見ていた。朔哉の両足から一瞬にして消えた〈覇紋〉が、凄まじい光の奔流となって、彼の右腕へと集約される光景を。


「これで……お前を……!」


 朔夜はただ一つのことしか考えていなかった。


 己の拳で、目の前の敵を倒すこと。


 意志は願いとなり、願いはイメージを生み、さながら青い光の塊となった右腕に、力となって具現する。


「ぶん殴る!!」


 神格化された拳を、朔哉は全力で振り抜く。


 盾となるはずだった大砲は、麩菓子のように容易く砕け、拳は全く威力を損なうことなく、エリゴスの胸部へと突き刺さった。


 一瞬、世界が揺れる。法則を超え、想像を絶した衝撃の余波で、ビル全体が波打つように揺れた。それを追うように、爆音が轟く。


 大砲を貫いた余力だけで背後の柱を砕くほどの一撃に、エリゴスは呻き声ひとつあげることすら叶わず、崩れた柱の瓦礫に埋もれるようにして倒れた。


 青い光が、瓦礫の山を慰めるように煌めき、やがて燐光となって散った。


「はっ! はぁー、はぁー、はぁー、はぁー……!」


〈覇紋〉の消えた右腕を押さえ、朔哉は荒く息を吐く。

 勝利の実感などなかった。ただただ、朔哉は恐れていた。

 エリゴスが、瓦礫を押しのけて、また立ち上がるのではないかと。


 しかし、その恐怖が実現することはなかった。

 儚い光を残して二本の大砲――破纏哮はてんこうが跡形もなく消え去る。


 エリゴスは完全に意識を失い、戦闘不能となっていた。


「お見事です」


 ぱちぱちぱち、と場違いな拍手が響く。

 振り返ると、静流が微笑んでいた。


「よく〈権能〉を使いこなされていましたね。とてもよい手並みです」

「え……あ、はぁ」


 褒められても、ちっとも嬉しくなどなかった。

 それよりも、初めて〈贄〉としての力を使ったからか、それとも命懸けの戦いを経験したためか、全身に疲労感が滞っていて、とにかく早く休みたいと朔哉は思った。


 静流は、倒れたエリゴスを覗き込み、彼のほうに右手の平を向けた。

 そして、その右手に、手の平から何かが発射されたように見えた次の瞬間、エリゴスの頭部が消し飛んでいた。


「……え」


 静流がエリゴスを殺したと理解するのに、数秒。

 静流が朔哉と同じ〈神格の権能〉を持っていると理解するのに、数秒。


「敵はできる限り殺しておくほうが賢明ですよ、朔哉さん」


 幼児にを教える保育士みたいな笑顔で、静流は言った。


「な……何も、殺す必要は」


 朔哉は吐き気を堪えるために口を押さえた。

 エリゴスの頭部があった場所には、肉片の浮かぶ赤い水溜まりが出来ていた。


 そこから顔を背け、目を逸らした先に、


「……朔哉君」


 悠人がいた。

 彼は静流のように微笑んではいなかった。


「あ、悠人さん……」


 朔哉は彼のほうへと近づく。エリゴスの死から逃げるように。


「さっきは、ありがとうございました」


 頭を下げる。悠人は何も言わない。


「最後、爆発を起こして援護してくれたの、悠人さんですよね? 助かりました。あれがなかったら、やられ――」


 ぱぁん。

 乾いた音が響いた。


「なんで〈贄〉になんか、なったんだ」


 頬がジンジンと熱くなってきて、朔哉は自分が頬を打たれたのだと、気づいた。

 打った悠人は、肩を震わせ、朔哉を睨みつけていた。


「君は、最も愚かな選択をした……!」

「愚かな、選択?」


 悠人を助けるために〈贄〉になったのが?

 頬の熱さが、頭にまで上ってきて、朔哉は大声で言い返した。


「じゃあ、どうしたらよかったんですか? 黙って見ていればよかったんですか?」

「そうだ。そうするべきだった」

「おっ、俺は悠人さんを助けたかったんです! それが、いけないこと――」

「子供の君に頼んだ覚えはない!」


 怒鳴り声を叩き返され、朔哉は俯いた。


 なんで、なんでこんなことを言われなきゃいけないんだ。

 別に褒められたかったわけじゃない。

 いい子だと頭を撫でて欲しかったわけじゃない。

 ただ、本当に、悠人を助けたかっただけだ。


 ――なんで、その気持ちをわかってくれないんだ。


「なんで、悠人さんは俺の気持ちをわかってくれないんですか」


 感情が器の縁から溢れ出るように、思ったことが口から出た。


「わかっているよ。君のつらさも、苦しみも。だけど――」

「わかってねぇよ!」


 叫び、悠人を睨みつける。朔哉の視界は滲んでいた。


 ――ああ、駄目だ。


「悠人さんは、俺の気持ちなんか全然わかってない!」


 ――こんなことが、言いたいわけじゃない。


 理性で思っても、本能が叫ぶ言葉は止まらない。


「アンタはいいよ! 恋人がいる! 一番大切な人がそばにいる! 幸せがすぐ隣にある! でも、俺にはもういないんだ! 妹が、美優が!」

「朔哉君……」

「黙れよ! アンタの言葉なんか聞きたくない! 幸せな人間の言葉なんか、誰が聞くか! 俺にはその幸せがもうないんだ! それを取り戻したかっただけなのに! どうして幸せなアンタが邪魔するんだ!」


 ――ああ、なんて汚い。これは嫉妬だ。


 悠人の幸せに、不幸な朔哉は嫉妬し、醜く喚く。


「アンタなんかに俺の気持ちが分かってたまるか……!」


 嫉妬が絡みつき、干涸らびたような朔哉の叫びが、フロアに響く。


 感情を吐き出したあとの虚脱から、朔哉はまた俯いて、ぜえぜえと息をした。


「さ、朔哉く――」


 悠人が、彼に手を差し伸べようとする。

 自分は何か決定的な勘違いをしていたんじゃないかと、恐れるような顔で。


「お話は済みましたか?」


 清く澄んだ声で静流が言い、悠人は手を止めた。


「朔哉さん。初めての戦いで、お疲れになったでしょう? 上に行って休まれてはいかがですか? しかるのち、妹さんのもとへ、ご案内します」


 朔哉は静流を見た。静流は機械みたいに微笑んでいた。


「静流さんは、美優がどこにいるか、知ってるんですか?」

「いいえ。私は存じておりません。しかし、我らが巫女様は千里を見通す目をお持ちです。その御力をお借りすれば、容易く知れましょう」

「じゃあ、お願いします」


 朔哉は軽く言った。


「なっ? 駄目だ、朔哉君!」


 悠人が、静流のほうへ行こうとした朔哉の腕を掴む。


「巫女が何を企んでいるか分からない! 巫女は――」

「放せよ」


 掴まれた腕に〈覇紋〉が走る。腕力が増幅され、悠人の手を振り払う。


「俺は、美優を取り戻す。これは、そのための力なんだから」


 驚いた顔の悠人に、言い放つ。


 ――そうさ。これは悠人さんを助けるための力なんかじゃないんだ。


 心の中で自分に嘘を吐いて、悠人にも自分にも背を向けて、歩き出す。


 と、数歩行ったところで、いきなり背中を押された。

 わっ、と声を上げ、前方につんのめり、朔哉は膝をついた。


 悠人だ。悠人が背後から朔哉を突き飛ばしたのだ。


「何すんだ! ゆう――」


 ぐぉおう、と、怒鳴り声を裂くように、何かが目の前を猛スピードで横切った。

 それは細長い柄の先に重りをつけた、つちだった。

 鎚は、数秒前まで朔哉が立っていた場所に、轟音を上げて突き刺さった。


「………………」


 突然の事態に、声が出ない。

 もし、悠人が押してくれなかったら、鎚は朔哉に直撃していただろう。


 その悠人は、朔哉にも鎚にも目をくれず、フロアの中央、瓦礫が小高い山を成した付近を、凝視していた。

 彼の視線の先を、朔哉も釣られたようにして見た。


 そこに、美優みゆがいた。


 瓦礫の山の上に、ポツンと一人、佇んでいる。

 白いワンピース。フワフワの長い髪の毛。

 愛らしい顔に、あの無表情を浮かべて、朔哉たちを見下ろしている。


 誰よりも早く、悠人が動いた。


 朔哉が「美優」と呟くよりも早く、稲妻のように駆けた。


 彼が見ているのは、美優の首。

 その細い首めがけ、刀の色に染められた傘を振り下ろす。

 最早、芸術的なレベルの、極められた頸断の一撃だった。


 それが、


「悠人、?」


 美優の囁きに、止められる。

 切っ先が、首の薄皮を一枚裂いただけで、止められる。

 傷口から、真っ赤な血が、白い首に線を描いてしたたる。


「ね、姉さん……?」


 硬直した悠人が、傘を振り切ろうとした体勢のまま呟いた。

 彼が動きを止めるのを待っていたかのように、美優の

 血液が宙を流れ、瞬く間に槍の形を成し、悠人の右胸を貫いた。


「――ぁっ」


 悠人の顔に、ようやく表情が浮かぶ。

 驚愕と、それに倍する恐怖が。


 美優の傷口からは、傷の深さからは考えられない量の血が溢れ出す。

 それが蠢いて二本目三本目の槍と化し、悠人を貫こうとした。


 その刹那、悠人と美優の間に割り込むようにして、真っ赤な爆炎の花が咲いた。


 猛烈な爆風が巻き起こり、爆炎が一瞬にして二人の体を包み込む。

 その一連の出来事を、ただ呆然と眺めていた朔哉の元にまで、爆風は届いた。


「悠人、さん……? 美優……?」


 何が起きたのか、わからない。


 炎の赤に照らされながら、ポカンと口を開ける彼の、すぐ隣に、とんっ、と軽い音を立てて、世羽が着地した。

 世羽は、肩に、血を流して気絶している悠人を担いでいた。


「何をほうけている。死ぬぞ」


 そう言って、悠人をどさっと乱暴に下ろす。彼は小さく呻いた。

 悠人の胸の傷から、ドクドクと血が溢れ出ている。

 それを見て、ようやく、朔哉の頭が動き始めた。


「ゆっ、悠人さん!」


 朔哉は咄嗟に悠人の傷口を押さえた。生温かい感触がした。


 この僅か数秒間に何が起きたか、理解が駆け足で追いかけてきた。

 悠人と美優の間で起きた爆発……あれは多分、世羽が起こしたものだ。

 おそらくは〈権能〉による爆発で、美優の攻撃を止め、同時に目を眩まし、その隙に悠人を救出したのだろう。


 そこまで考えて、今さらのようなことに、気づく。


「爆炎……そうだ、美優は!?」


 美優は無事なのか? あんな爆炎に包まれて?

 悠人の傷を押さえるのも忘れ、朔哉は立ち上がって、未だ濛々もうもうと立ち上る爆発によって生じた炎と煙の中心に目をやった。


「朔哉。貴様には、が自分の妹に見えるのか?」


 自身も爆心地のほうを見ながら、世羽が言う。


 一陣の風が、巻き起こった。


 風はビル内を掻き回すように起こり、炎を、煙を、粉塵を、一瞬で吹き消す。


 発生させたのは、一対のだった。

 広げれば両翼六、七メートルはあろうかという、暗い灰色をした、翼。

 それは、美優の背中から生えていた。


 美優は、爆風に瓦礫が吹き飛ばされて出来た空間の、高さ三メートルほどの空中に、浮いている。


 右手には、自分の身長よりも大きい、戦斧を。

 左手には、さっき悠人を貫いた物と同じ、槍を。

 見たこともない無表情で、朔哉を冷たく見下ろしていた。


「――美優」


 朔哉の全身から力が抜け、その場にへたり込む。


 思い知らされた。これ以上ない形で。


 美優はもう、美優じゃない。

 あんな大きな翼ものが生えて、当たり前のように平然と宙に浮いて。

 何より、あの凍り付いたような無表情が、朔哉に再度、現実を叩きつけた。


 愛する妹が、〈柱〉と呼ばれる神に、なってしまったことを。


 抱えきれない哀しみに、心が現実を拒んで、意識が遠のくのを感じた。


「よぉ。久しぶりじゃないか、“鉄血無情てっけつむじょう”」


 世羽が、美優に向かって気安そうに語りかける。

 その表情には笑みが浮かんでいたが、立ち姿に油断はない。


「”吸光漆黒”か」


 美優が答える。


「久方ぶりの挨拶にしては、随分と乱暴だったが?」

「こんにちは、お久しぶりね、となごやかに挨拶を交わすような仲でもあるまいよ。それにしても、貴様もえげつないことをするようになったな」

「なんのことだ?」

「悠人のことだよ。にあんなことを言われて、しかも殺されかけたとあっちゃあ、あの阿呆、もう立ち直れないかもしれんぞ?」

「戦場において、相対する敵の隙を突くのは定石だろう。たとえそれが、心の隙であっても……だ」

「なるほど。貴様らしい物言いだ。……で」


 世羽は一旦言葉を切り、


「貴様、?」


 射殺すような視線で、美優を睨みつけた。


「妙なことを訊くものだ。こうして〈レメゲトン〉を纏った私が、“鉄血無情”以外のなんだと――」

「黙れよ。猿真似野郎」


 世羽は、威嚇するような笑顔を浮かべて、美優の言葉を遮る。


「貴様が本物のなら、悠人に向かってあんなことを平気で言えるものかよ。それに、そこで無残にくたばっている自分の部下を見れば、誰が殺したかの誰何すいかくらいはするだろう。もっと演じる相手のことくらい調べておけ、この大根役者めが」


 それに対し、美優は、


「…………」


 無言で、ニィィィ、という不気味な笑顔を浮かべて。

 翼でビルの壁を吹き飛ばすと、出来た穴から飛び去っていった。


「引き際を心得ているのか、ただの焦りか……ふんっ」


 鼻を鳴らして美優を見送ってから、世羽は隣の朔哉に目をやった。


 朔哉はショックで己を失い、二人の会話も、美優の不気味な笑顔も、ほとんど認識できていなかった。


「おいこら。戻ってこい。本当に死ぬぞ」


 と言って、世羽は朔哉の頭をバシンと叩く。


「あイタ! ……え? な、なん?」


 我に帰り、朔哉はまず、美優の姿が消えていることに気づいた。

 同時に、その美優の異形が思い出され、また自失の波が訪れそうになり、


「しっかりしろ」


 今度は、ゴツンとゲンコツを落とされる。


「目が覚めたんなら体を動かせ。ほら、コイツを家まで運べよ」


 コイツ、と世羽が指さしたのは、気絶している悠人だった。


「じきにコイツも起きる。そうしたら肩を貸して、タクシー捕まえるでも電車に乗るでも、なんでもいいからとっとと家まで持ってけ」

「え、あ、うん」

「あと、上にいた人質の小娘は、面倒だが私が送っておいてやる」

「そ、そうか」

「ほらほら、わかったんならさっさと動く!」


 ぱんぱんぱん、と手を叩いて朔哉を急かす。

 すると、


「勝手なことをされては困りますね」


 美優の出現にも全く動く気配のなかった静流が口を開いた。


「あん? なんだ、まだいたのか」


 世羽の返事に、形のいい眉を歪ませ、静流は不快感を露わにした、


「朔哉さんは巫女様の〈贄〉となったのです。つまり、に」


 静流の言葉に朔哉はぎょっとした。

 そこまでのことなのか。〈贄〉になるというのは。

 覚悟を決めたつもりでいた自分が、いざ言葉で現実を知らされて動揺していることに、朔哉は情けなさを覚えた。


 その朔哉の心の動きを知ってか知らずか、世羽が静流に答える。


「それで?」

「ですから、貴方に朔哉さんを好きに使う権利はないということです」

「だから?」

「今すぐに、消えていただけませんか? 朔哉さんを置いて」

「……なるほどなぁ」


 事務的な口調で「消えろ」と言う静流に、世羽は腕を組んで頷いてから、


「断る」


 と、きっぱりと告げた。


「何故、私より弱い貴様に従わねばならんのだ? ん? それとも貴様、知らない間に私より強くなったか? んん?」


 言葉とともに、視界が狭まるような圧力が、世羽から放たれる。


「私に命令できるのは、私を殺せる者だけだぞ?」

「………………」


 息苦しいほどの殺意をぶつけられ、静流は押し黙る。

 だが、それは恐怖しているのではなく、本当にここで世羽を殺してしまおうか、と考えているが故の沈黙に、朔哉には思えた。


「……いいでしょう。しばらく、朔哉さんは貴女に


 冷静な判断が勝ったのか、静流が言った。


「ですが、朔哉さん。貴方が巫女様の〈贄〉となったことには変わりありません。常に巫女様の名を汚さぬ振る舞いを心がけてくださいますように。……それでは、失礼いたします」


 メイド服に相応しい所作でお辞儀をし、静流は去って行った。


「さあ、邪魔な犬は帰って行ったぞ。早いとこ動け」

「う、うん」


 再び命令されて、朔哉は動く。

 世羽の言ったとおり、しばらくすると悠人は目覚めた。彼に肩を貸し、歩き出す。


 命令されたとおりに行動するのは、すごく楽だった。


 何も、考えなくていいから。

 美優のことを、思い出さなくてすむから。


 朔哉は生まれて初めて、妹のことを忘れていたいと思った。

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