6 給仕は微笑む

 中央通りと交差する神田明神通り沿いに、真新しいビルが建っている。

 床面積の広い六階建てで、中には専門書店やコスプレショップ、ショーケースをレンタルする店など、雑多な種類の二十を超える数の店舗が収まっている。

 それら店舗は、近在の雑居ビルに散らばっていた店であり、秋葉原駅周辺の再開発および区画整理の目的で、ビル内のテナントへと移転されたのである。


「こんなところに何があるんだ?」


 ビルの一階、入り口から入ってすぐ右手にあるエレベータの前で、朔哉さくや世羽せうに問いかけた。


「六階に巫女が経営するカフェ『アヴェスタ』がある。従業員は全て巫女の〈にえ〉だ」


 世羽は朔夜のほうを見ずに答えた。


「巫女は東京の中心地に居座っているが、そう易々と腰をあげられる立場ではないのでな。用向きがあるときは、まずここのアヴェスタに赴くのが通例なのさ。言ってみれば、巫女への連絡窓口だな」


 巫女というのが誰で、どんな役割を持っているのか、それを訊くよりも先に、朔夜には気になっていることがあった。

 それは悠人ゆうとのことだ。彼は〈はしら〉に力を分け与えられたと言った。その〈柱〉とは世羽のことなのだろうか? 加えて、彼と巫女やその〈贄〉との関係も気になる。

 だが、横目でチラリと伺った悠人の表情は厳しく、とても彼について世羽にあれこれ問いただせる空気ではなかった。


「私と悠人の関係が気になるか?」


 朔夜の躊躇いを見透かしたかのように、世羽が言った。


「言っておくが、悠人は私の〈贄〉ではない。生憎と、殉葬者じゅんそうしゃを必要とするほどか弱くはないのでな」

「じゅん、そう?」

「死の床に伏した王とともに墳墓へ埋葬される哀れな民草のことさ。望んで腹を切った臣民ならまだしも、なんやかんやと理由を捏ねて、奴隷や下級民を殺殉さつじゅんによって強制的に埋葬した例もある。〈贄〉というのはそういう意味だ」

「そういう意味って……」


 朔夜が聞き返そうとしたとき、エレベータが一階に到着した。中から降りてきたのはスーツ姿の男性が一人で、入れ替わりに朔夜たち三人が乗り込む。エレベータの中にはメイド姿のキャラクターを描いたポスターが貼られていた。


「柱の派閥は大きく分けて二つある」


 エレベータの扉が閉まると同時に、世羽が言った。


「解放派と、反解放派。巫女は反解放派の中心人物……いや、ただの御輿かな、あれは。ともかく、巫女を囲んで他に五人の柱が反解放派に属している」

「五人? 柱は二十三人いるんじゃ……」

「全ての柱がどちらかの派閥に属しているわけではない。派閥とは関係なく行動している者もいるんだよ。私のようにな」

「えっ……」


 世羽の言葉に、朔夜は思わず驚きの声を上げた。


「世羽は悠人さんの仲間じゃなかったのか?」

「私は誰の仲間にもならない。誰の味方もしない」

「それならどうして悠人さんは……」


 朔夜は悠人のほうを見た。彼は黙ったままエレベータの階層表示を見つめている。


「悠人の主柱しゅちゅう――悠人を〈贄〉にした〈柱〉とは縁があってな。その繋がりで、何かあるとすぐに私を頼ってくるのさ。困ったもんだ」


 冗談めかした世羽の言葉に、悠人は何も反応しなかった。彼の横顔を見ても、世羽が本当のことを言っているのか、判断できそうにない。


 話していると、エレベータが三階で停止した。だが、誰も乗り込む者はおらず、そのまま扉が閉まり、再び上昇を始めた。


「反解放派に属する五人の〈柱〉は、東京の中心地から動けない巫女を守護している。四の柱“悪辣雷傲あくらつらいごう”、十一の柱“紅蓮誅戮ぐれんちゅうりく”、十二の柱“糸魂戯弄しこんぎろう”、十五の柱“逆理虐心ぎゃくりぎゃくしん”、そして二十二の柱“無謀白夢むむはくむ”、その五人でな」

「ちょ、ちょっと待った」


 まるで呪文のような言葉の羅列に、朔夜は戸惑った。


「さっきから、その、なんなんだ。あくらつ……なんとかだったり、むむはくむ、とか。専門用語なのか? よく意味が……」

「名前だよ。私たちの。ケータイをよこせ」

「え、うん」


 言われるままに取り出した朔夜の携帯電話を、世羽は素早く奪い取り、慣れた手つきで操作し始めた。


「柱には名が三つある。文字通り真の名としての真名まな、別称にして蔑称としての異名いな、それと人間としての名だ。基本的には異名を使う。ほれ」


 世羽から返されたケータイには、さっき世羽が挙げた柱の名前――異名がメモされていた。


「あ、ありがとう。……でも、その真名っていうのが本当の名前なら、どうして別の名前を使ってるんだ?」

「……さてな」


 世羽は朔哉から視線をそらし、エレベータの扉のほうを向いた。


「貴様にはまだそれを訊く権利がない」

「権利?」

「私のほうから話したくなるようにしてみせろ、と言っているのさ」


 世羽はそう言って、流し目の視線を朔夜に送りながら微笑んだ。外見の年齢にはそぐわない、思わずドキリとしてしまうような笑顔だった。


 そうこうしている間に、エレベータは六階に到着した。三人で降りると、目の前に「アヴェスタはこちら」と書かれた案内板が置かれていた。


 メイド服のキャラクターが指差すほうを見ると、すぐそばに派手だがどこか安っぽい外観の入り口があった。どうやら、このフロアの大半がカフェ・アヴェスタの店舗であるらしい。


 世羽と悠人に続いて朔哉が入り口をくぐると、


「おかえりなさいませ、ご主人様♪」


 いきなりメイド服を着たウェイトレスに出迎えられた。

 それも、一人ではない。微妙に色彩や意匠の異なるメイド服を身に着けた女性たちが、にこやかな笑顔を浮かべている。


「なんでメイド……?」


 メイドたちの笑顔と、今の自分が置かれている深刻な状況とのギャップに、朔哉は軽い目眩を覚えた。


 朔哉は一目でアヴェスタをメイド喫茶だと認識したが、正確には、コンセプトカフェと呼ぶのが正しい。

 人気のアニメやゲーム作品とコラボし、その作品をイメージしたドリンクや軽食を提供するカフェである。店員の服装も、作品のキャラをイメージしたものとなる。

 現在は、大人気放映中の深夜アニメ『メイド・イン・ヘヴン』という、登場するキャラが全員メイド服を着た美少女であることを売りにした作品とコラボしている期間で、女性店員はみなメイド服を着用している。


 広い店内は、半分ほどの席が客で埋まっていた。パッと見、男性客と女性客の割合は半々といったところで、朔哉は少し意外に思った。


 世羽、悠人、朔哉の三人が愛想のいい店員に案内されたのは、店の奥のほうにある、四人がけの丸いテーブル席だった。


 そこに、女性の先客がいた。


 メイド服を着ていて、丸っこい文字で『しずる』と書かれたネームプレートを胸につけているところからして、おそらく店員だろうが、優雅にティータイムを楽しんでいるようにしか見えない。


 ふと、女性が顔を上げ、朔哉たちのほうを見た。


 女性は綺麗な顔をしていた。端整にバランスのとれた容姿で、美しいというより、綺麗のほうが似合っている。短めに切り揃えられた髪と、銀縁の細いフレームのメガネが、どこか神経質で、素っ気ない印象を与えた。


 その女性が、三人の顔を見回して、最後に世羽を見ながら、


「あら。誰かと思えば、貴女でしたか。“吸光漆黒きゅうこうしっこく”」

「おう。誰かと思えば、貴様だったが。


 ばちん、と大きな火花が散る音を、朔哉は聞いた。


「はんっ。随分といい身分だなぁ、堂々とサボりか、この怠慢メイドめ」

「これも業務の一部です。巫女様との面会の要請を送りつけてきた無礼者を待っていたのです。さらに言えば、貴女に怠業を指摘される謂われはありません」


 そう言って、女性は悠人のほう見た。


「何をしているのですか、時雨悠人さん? お早く、お席におかけください」


 言葉遣いは丁寧だ。席を指し示す仕草にも、敬意を感じられる。しかし、どこか相手のことを馬鹿にしている雰囲気を、あからさまに放っていた。

 慇懃無礼という言葉を、朔哉は思い浮かべた。


 女性に指し示されたとおり、悠人は女性の左手側の席に座った。次いで、世羽が女性の向かいの席に座る。朔哉は余った席に座った。向かいに悠人を見る席だが、悠人は朔哉のほうを見ようとはしなかった。


「お待たせしましたぁ♪ ご注文を、お伺いしまぁーす♪」


 全員が席に着くのを待っていたようなタイミングで、舌っ足らずなウエイトレスが注文を取りに来た。

 このような店でどんな飲食物が提供されるのか、皆目見当もつかない朔哉は、カフェと呼ばれているのだから紅茶くらいあるだろうと考え、メニューを見ずに「ミルクティーを」と頼んだ。

 すると、


「はぁい♪ 『ご主人様ぁ! そんなに濃厚な白い液体を注いじゃダメですぅ!』ですねぇ♪ かしこまりましたぁ♪」


 なんてセリフが返ってきて、朔哉は耳を疑った。


 慌ててメニューを見ると、確かに『ご主人様ぁ! そんなに濃厚な白い液体を注いじゃダメですぅ!(ミルクティー)』と書かれている。


 その後もウエイトレスは、世羽にショートケーキを、悠人にコーヒーをと注文されるたび――


『その生クリームで私を汚すつもりでしょ! エロ同人みたいに!』だの。

『砂糖の代わりに私の唾液を入れておきました。きっと甘いですよ(にこっ』だの。


 朔哉にとっては謎すぎるメニュー名を返していて、それを世羽も悠人も全然おかしいいことと感じていないみたいで、朔哉は自分一人だけ異世界に紛れ込んでしまったような気分になった。

 やがて運ばれてきたミルクティーに口を付けるのには、ちょっと勇気がいった。


「朔哉、一応紹介しておいてやるが、この怠慢メイドの名は、帯刀静流たてわき しずる。ここアヴェスタの責任者であり、巫女の〈贄〉の筆頭だ」


 世羽は『その生クリームで~』とかいうショートケーキを早くも食べ終え、二個目のケーキを注文してから言った。


「静流さん。貴女には、僕がここに来た理由がわかっているはずです。巫女と面会させてください」


 世羽の紹介が終わるのを待っていたかのように、悠人が言った。

 静流は、彼の視線を冷たく跳ね返すように、答える。


「申し訳ありませんが、お断りいたします」

「何故です」

「巫女様は、大変にお忙しい方です。岩戸いわとより一歩踏み出でることすらままならず、その使命は非常に重い。俗世の些事さじで、そのお心を乱すわけにはまいりません」

「些事? 解放派の柱がこれほど近くで生まれ直したんです。僕の主柱は未だ覚めず、東京外郭を守護する〈柱〉は現在、“糸魂戯弄”、“紅蓮誅戮”、“悪辣雷傲”の三者のみ。この状況を看過すれば、四年前のような深刻な事態を招きかねません。それでも些事ですか」


 悠人は冷静に訴えかける。どうやら、快い返事が返ってこないことを、最初から予想していたようだった。しかし――


「その深刻な事態と仰る四年前の事変は、悠人さん、貴方が収めたと記憶しておりますが? 敵の首魁たる“鉄血無情てっけつむじょう”を


 がたん、と椅子を大きく揺らして、悠人が立ち上がった。

 彼の冷静な表情は吹き飛んでいて、敵を見るような目で、静流を睨む。

 当の静流は、平然とした様子で、お茶請けのマカロンを囓った。


 緊迫した雰囲気に、朔哉は手に持ったティーカップを置くタイミングを失い、内心で狼狽えるしかできない。

 そのとき、


「もごもご……ふぉーひた、ひゃふや」


 間抜けな声がした。世羽が、チーズケーキを頬張りながら、何か言っていた。

 途端に、張り詰めた空気がえて緩み、気勢をがれたのか、悠人が声もなく椅子に座りなおした。


「んぐっ……ほぅ。で、どうした、朔哉」


 口の中の物を飲み込み、何事もなかったかのように、話を続ける。


「ど、どうしたって……」

「何も訊かんのか?」


 世羽の問いかけに、朔哉は答えにきゅうした。


 訊きたいこと、訊かなければいけないことは沢山ある……ような気がする。何にしろ、わからないことのほうが多いのだ。

 だが、何を誰に訊けばいいのか、わからない。朔哉の行動に反対の意を示している悠人には訊いたところで答えてもらえそうにないし、会ったばかりの静流にも訊きにくい。二人の間の険悪な空気も、朔哉の口を重くしていた。


「遠慮せずに訊けばいい。例えば……とか」


 妹の部分を強調した言い方に、朔哉は胸を突かれたような気がした。世羽は、飛びっきりのイタズラに成功した子供のような笑顔を浮かべていた。


 妹、美優、朔哉の一番大切なもの。朔哉は美優のためだけにここまで来た。本当なら、何を措いても美優のことを悠人や静流に問い詰めるべきだった。例え子供のようにあしらわれるだけだとしても。


 それなのに、朔哉が行動に移せずにいたのは、悠人や世羽や静流が放つ、まるで別の世界にいるのではと思わせるほどの圧力に、間違いなく気圧されていたからだ。


「訊けば、答えてくれるのか?」


 弱気を見透かされたことへの恥ずかしさから、朔哉は拗ねたように言った。


「無理だな。私は貴様の妹のことなど知らん。興味もない。あるとすれば、貴様の妹だった〈柱〉に対してだ」

「それなら、どうして俺をここまで連れてきたんだ」

「連れてきた覚えはない。貴様が勝手についてきたのだろう。自分の意志で」


 世羽は息継ぎをするように紅茶を一口飲み、続けた。


「ゲームセンターで貴様と悠人の馬鹿馬鹿しい喧嘩を止めたのはな、悠人のほうが正しかったからだ。いくら正しいことでも、ただ言うだけでは、人は変わらない。余計に意固地になるだけだ」

「正しくなんか!」

「正しいよ。もうどこにもいない妹の影を追い回すなど、意味がない。不毛だ。それは貴様だってわかっているはずだ」


 ――ああ、そうだ。分かってるよ。もう美優は戻ってこないって。

 朔哉の理性が答える。


 ――違う。妹は戻ってくる。絶対に取り戻せるんだ。

 朔哉の本能が答える。


 二人の朔哉は一つになれない。どこまで行っても平行線。自分が分裂してしまいそうな感覚。どちらの朔哉が本物なのか、わからなくなる。


「取り戻せるかもしれませんよ、?」


 左隣から声がした。静流が微笑んでいた。


「貴方の大切な妹さん、取り戻せるかもしれませんよ?」

「え……?」

「何を言い出すんです! 静流さん!」


 悠人が、慌てたような声で言った。

 しかし、静流は彼のほうを見ることすらせず、話を続ける。


「朔哉さん。私は今日、貴方にお目にかかりに行くつもりでした。巫女様より賜ったある品を、貴方にお届けするために」


 静流の言葉に驚いたのは朔哉だけではなかった。向かいに座っている悠人も目を見開いて絶句していた。


「俺、に?」

「ええ、そうです」


 青いメイド服を着たウエイトレスが、持ってきた黒い箱を、静流に渡した。

 それを、静流がうやうやしい仕草で、朔哉の前に差し出す。


「どうぞ。中をおあらためください」


 それは、指輪をしまっておくような箱だった。

 促され、朔哉は箱を開く。

 中に入っていたのは、小さな黄金色の球だった。


「それは〈金光きんこう奇石きせき〉と呼ばれる物です」


 ラムネに入っているビー玉くらいの大きさの球だ。手に取ると、意外に重い。

 球をマジマジと見る朔哉に、静流が言う。


「その石を砕くことで、


 悠人が立ち上がった。その勢いで、椅子が大きな音を立てて倒れた。


「何を考えているんですか!」


 怒声。込み上げた怒りを、そのまま声にして出したような。

 正面からぶつけられれば大人でも竦んでしまいそうな迫力に、しかし静流は涼しい顔で返す。


「巫女様の命です。私如きの意志の及ぶところではなく、ましてや、巫女様の意図をはかろうなどと恐れ多い所行はまかり成りません」

「正気の沙汰じゃない!」


 店中の客が、悠人のことを見ていた。


「朔哉君は僕らとは違う。ただの子供なんです。妹を失って深く傷ついている、ただの人間の子供なんですよ! それをどうして、こんな世界に巻き込もうと言うんですか。どんな得があると言うんですか!」


 必死の剣幕で詰め寄る悠人に、対する静流は彼を無視してティーカップを口に運んだ。貴方の話を聞く気はない、と態度で示していた。

 悠人は奥歯をギリリと鳴らし、今度は朔哉のほうを向いて、


「朔哉君、その石を静流さんに返すんだ。……いや、返してください。お願いだ」


 一転、懇願するように言う。


「相手が誰だろうと〈贄〉になんて、なっちゃいけない。力だけを求めて〈贄〉になれば、必ず後悔する。さっき世羽も言っていただろう? 〈贄〉とは殉葬者を意味する。王である〈柱〉と運命をともにする者……〈柱)と同じように、〈贄〉も死ねば生まれ直すんだ。〈柱〉が望む限り、その輪廻から永遠に逃れることは出来ない」

「永遠……?」

だ。何度も人生をやり直し、そのたびに大切な人を得て、そのたびに失う……生まれ直しは悲劇以外の何物でもない。人間としての幸せを捨て去るような道だけは選ばないでくれ、朔哉君……!」


 朔哉は石を見た。次に悠人の顔を見た。静流の顔を見た。


 ――俺は、どうすればいい?


 石を砕けば〈贄〉になれる。〈贄〉になれば、美優に会えるかもしれない。


 でも、美優に会えても、連れ戻せるという保証はない。むしろ、〈柱〉になってしまったという動かしがたい現実を突きつけられて、絶望する可能性のほうが高い。


 それに、巫女というのが何を考えているのかもわからない。何故自分のようなただの中学生を〈贄〉にしようとしているのか、それによって何を得するのか、はっきり言って信用できるとは思えない。


 じゃあ、このまま家に帰るか?

 美優のいない家に、壊れていくだけの家に。

 悠人さんは、人間としての幸せを捨てるなと言う。

 だけど、美優のいない俺の人生に、幸せなんてあるのか――


「世羽……」


 救いを求めるように、世羽を見る。

 世羽は何も言わなかった。ただ、その黒い瞳が、自分で決めろ、と告げていた。


 朔哉はもう一度、手の中の石を見た。

 金色に輝くツルツルした表面に、泣きそうな少年の顔が、歪んで映っていた。


「――静流さん、ご報告が」


 ピンク色のメイド服を着た背の高い店員が、静流に何事か耳打ちした。


「……そう。ありがとう」


 礼を言って店員を下がらせ、静流はフゥと息を吐いてから、言った。



 ウェイトレスが、今日の日替わりランチは五番です、と告げるような軽さだった。


「報告によると、すでにこのビルの三階にまで侵入しているようです」

「敵? 何を馬鹿な」


 まだ興奮が冷め切っていない悠人が言う。


「ここがどこだと思っているんです? 巫女に直属する〈贄〉の集うアヴェスタですよ? どんな敵が来ると――」

「貴方のせいではありませんか? 悠人さん?」


 静流が、悠人の言葉を遮る。


「やはり主柱を失った〈贄〉一人に南方の守護を任せるのは、荷が勝ちすぎたようですね。貴方の不甲斐なさが、敵のここまでの侵入を許したのでしょう」

「な、何を言って――」


 ひゅっ、という音がした。

 驚きのあまり、悠人が自分の声を呑んだ音だった。


「……わざとなのか?」


 震えた声で、悠人が言う。声だけでなく、全身をわなわなと震わせて。


「わざと、敵を侵入させたのか? 朔哉君の前に敵を置いて、彼が力を求めざるを得ない状況を……〈贄〉にならざるを得ない状況を、作るためだけに!」

「私は何もしていません」


 しれっとした態度で言う静流。そのセリフは、もっと早くに敵の侵入は察知していたから防ぐことも出来たけれど何もしていません、という意味にも聞こえた。


「それも、巫女の命令ですか」


 静流は答えない。


「本当に……どこまでもよく躾けられた犬だ、貴女は」


 それは、朔哉も初めて聞く、悠人の口から出た罵倒だった。


「敵は僕が一人で迎え撃ちます」


 それだけ言って、椅子と一緒に倒れていたビニール傘を拾い、悠人は店から出て行こうとした。


「ゆ、悠人さんっ」


 それを朔哉は呼び止めた。


 敵。敵。敵が来て、悠人が戦う。あの公園で、朔哉を躊躇いなく撃ち殺そうとした女のような相手と、戦う。それは、殺し合うという意味だ。

 ――悠人さんが、殺すかもしれない。悠人さんが、殺されるかもしれない。

 そう思ったら、呼び止めずにはいられなかった。


「朔哉君は、店に残りなさい。ここなら安全だから」

「で、でも」

「大丈夫。敵は倒すよ。だから、絶対にその石を砕いてはならない。いいね?」


 そう言って、悠人は微笑んだ。

 あれだけ刃向かい、噛みつき、言うことを聞かなかった朔哉に、微笑んだ。


「じゃ、行ってくるね」


 悠人は店から出て行った。

 その背中を見送る。それから、手の中にある石を、見た。

 これを砕いて〈贄〉になれば、悠人さんを助けられるのか?


「……くそっ」


 結局、朔哉は石を砕かなかった。

 その代わり、石をズボンのポケットに入れ、悠人のあとを追い、店を飛び出した。

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