5 白黒の少女
夢を見た。妹の夢だ。
目を覚ますと、隣に
夢から覚めたとき、
「おはよう、朔哉君」
彼はダイニングテーブルの横に立って、片手に携帯電話を持っていた。
「僕はこのあと出掛けるから、君も家に帰りなさい。学校は、今日一日くらい休んでも問題ないだろう」
冷たい言葉。突き放すような態度。わざとらしいほどに。
いや、おそらく、わざとなのだろう。それが悠人の優しさなのだということは、朔夜にもわかった。
わかったが、しかし、
「…………」
朔哉は無言のまま、ソファの上で膝を抱えた。
今は悠人の優しさを受け入れられない。それは、美優がそばにいない現実を受け入れるのと同じだと思った。
「朝食を用意するよ。昨日から何も食べていないんだろう?」
悠人は朔夜の返事を待たず、携帯電話をテーブルの上に置き、キッチンに消えた。
しばらくすると、キッチンから包丁の音が聞こえてきた。まな板を叩く軽やかなリズムに、朔夜は顔を上げ、ゆっくりとソファから立ち上がった。そして、息を殺すようにしながら、ダイニングテーブルに置かれた悠人の携帯電話を手に取った。
申し訳ないという気持ちはなかった。
あるのは、ほとんど蜘蛛の糸に縋り付く罪人のような、切迫した焦燥感だけ。
朔夜は迷いのない手つきで、携帯電話のメールアプリを開く。つい数分前、誰かにメールを送った記録があった。同じ人物と数件のやり取りがある。朔夜は、その中で最新の送信メールを開いた。
to:御霊谷世羽
件名:no title
今日中に巫女に会おうと思う。
ここまで近い場所での生まれ直し、きっと気づいている。
できれば、一緒に来てほしい。
秋葉原で待つ。
あった。見つけた。思ったとおりだ。
悠人には仲間がいる。連絡を取り合っている。
昨日の話の中で、悠人は「二十三人の〈
派閥というからには、一人じゃない。どれくらいの規模かはわからないけれど、必ず仲間がいると思った。そして、昨日の出来事について、何かしら連絡をしているのではないかと、朔夜は考えていた。
悠人の話が本当なら、〈柱〉として目覚めた美優は、悠人の派閥と敵対する勢力に迎え入れられたということになる。だとすれば、悠人はこの先、敵として美優と対峙する可能性があるはずだ。
だから、悠人を追う。
悠人の後についていけば、いつか必ず美優と再会するチャンスが生まれる。
具体的な方法なんて何もない。美優の居場所も、会ってどうすればいいのかも、〈柱〉という存在のことも、何もわからない。だからって、何もせずに受け入れることもできない。
送信メールの内容からして、宛先にある『御霊谷世羽』という人物は悠人の仲間なのだろう。そして、今日、秋葉原で会う約束をしている。本文にある『巫女』というのも悠人の仲間か。
朔夜はもう一度メール本文を読み返した。それから、携帯電話をダイニングテーブルに置き直し、ソファの上でまた膝を抱えた。
――諦めてたまるか。
――絶対に諦めない。美優は必ず取り戻す。取り戻せるはずなんだ。
しばらくして、キッチンから二人分の朝食を手に戻ってきた悠人は、携帯電話の位置が変わっていることに気づくことはなかった。
◆ ◆ ◆
朔哉は、悠人を追って秋葉原へ向かう前に、一旦、自宅へ帰った。
結局、悠人とは一言も口を利かなかった。朝食にも手をつけなかった。
悠人の靴を借り、家までのタクシー代も渡されたが、徒歩で帰った。マンションから家までは意外と近く、足を庇いながらでも、三十分とかからなかった。
壊された扉を押し開き、家に入る。
一瞬、いつもみたいに笑顔で出迎えてくれる、美優の幻覚が見えた。
キッチンには、作りかけのご馳走がそのまま残されていた。リビングには、前もって用意しておいたお菓子の山と、家中のボードゲームが集めて置かれていた。
本当なら、昨夜は一年で一番楽しい夜になるはずだった。
美優と、朔哉と、紫陽花と、悠人と、四人で誕生日を祝い、ご馳走を囲んで談笑し、ケーキには十二本の
でも、それらは全て、朔哉の妄想になってしまった。
そんな楽しい夜は、もう二度と来ないかもしれない。
悪い想像を振り払うように、朔哉は二階の自室へと向かった。
自室へ足を踏み入れて、まず目に入ってきたのは、机の引き出しだった。一番上の、鍵つきの引き出し。美優の誕生プレゼントがしまわれている引き出し。
目立つわけでもないのに、朔哉は何故か引き出しを見た。
その瞬間に、脳裏に美優の顔が浮かんだ。
昨日は思い出せなかった、美優の顔が。
笑っていたり、照れていたり、ちょっと困っていたりする、美優の表情。
それらは、プレゼントを渡すときにどんな顔をするだろうかと、朔哉が想像していた顔だった。
「美優……」
途端に、胸を刺し貫かれるような、猛烈な寂しさが込み上げてきた。
足元がふらつき、机を両手について、体を支える。
「うぅっ……ああっ……うああああ…………!」
口から溢れ出た声は、涙は出ていないのに、明らかな泣き声だった。
朔哉は今さらのように、思い知る。
俺には、美優が必要だ。
俺だけじゃない、この家には、美優が必要なんだ。
両親が出張から帰ってきたら、俺はなんと言えばいい? 美優は生きているけど、別人になってしまったから、死んだと思ってくれ? それとも、単なる行方不明だということにするか?
どちらにせよ、もう元の家族には戻れないだろう。
美優がいなくては、家族の形が成り立たないんだ。
悠人は、美優が〈柱〉だったのだと言った。
〈柱〉になったのではなく、最初から〈柱〉として生まれてきたのだと。
そのとおりだった。美優は“柱”だったのだ。
篠突家の心を支える、とてもとても大事な“柱”だった。
それが失われてしまえば、家族はただ、崩れて壊れるだけ。
――そんな不幸は、嫌だ。
朔哉は前を向いた。拳を硬く握り、奥歯を強く噛みしめる。
美優を取り戻そう。絶対に。他の何を犠牲にしたとしても、どんな敵と戦うことになろうとも。
自分のために。美優のために。そして、家族のために。
朔哉は机の上に置かれていた財布と携帯電話を掴み、部屋をあとにした。
◆ ◆ ◆
秋葉原は平日でも多くの人で賑わっていた。
電気街口から中央通りに出て、さてどうしようかと、朔哉は思った。
悠人のメールには「秋葉原で待つ」としか書かれていなかった。秋葉原と一言に言っても、その一言が示す範囲は広く、人は多い。広い歩道を行く大勢の人々の中から悠人を探し出すのは、ほとんど無理なんじゃないかと思えた。
だからと言って、途方に暮れているわけにもいかない。
朔哉は歩き出した。
足の傷が痛み、包帯の上に履いた靴下に血が滲む感触がしたが構わずに、正午を回りスーツ姿のサラリーマンが増えた秋葉原の街で、悠人の姿を探す。
大型家電量販店の全階層を見て回った。アニメショップに入った。パソコンショップに足を運んだ。普段なら絶対に入らない裏通りの怪しげな店にも入った。混雑しているラーメン屋で人を探していると言ったら、冷やかしかと怒鳴られた。
しかし、悠人はどこにも見当たらない。おまけに足の痛みが酷くなってきて、立っていることさえ辛くなってきた。
次第に、悲観が頭を支配してくる。
「少し……休もう」
朔哉は、フラついた足取りでガードレールに腰を下ろした。
腹が、ぐぎぃーと、怪獣の声みたいな音を出した。こんなときでも腹は減るのか。考えてみれば、昨日の昼から何も食べていなかった。
空腹を無視し、携帯電話を見る。午後一時過ぎだった。
足が痛い。疲れからか、昨日、蹴飛ばされた脇腹の鈍痛がぶり返してきた。眺めていても、人波に悠人の姿は見つからない。
――全部このままだったら、どうしよう?
秋葉原で悠人に会えなかったら、あのマンションにまた行ってみるしかない。でも、朔哉が来るかもしれないとわかっていて、悠人が戻ってくるだろうか。
それに、会えたとしても、美優のことは諦めろと言われるだけだ。
悠人は家庭教師を辞めるかもしれない。いや、きっと辞めざるを得ないだろう。美優が行方不明ということになれば、朔哉の両親にそんな余裕は無くなる。両親も美優を探し回るかもしれない。警察に行っても見つかるわけがないから、情報提供のチラシを駅前で配って、新聞とかに載る大事になって――
「……ぅく」
涙が出そうになって、朔哉は両手で目を押さえた。
じっと涙の波が引くのを待ち、手を放す。目がチカチカした。
顔を上げると、歩道を行く人たちの中に、手を繋いで歩く男女が目に入った。
身なりのいい男と、中学生くらいの女の子だ。
兄と妹か、と朔哉は思った。
年齢が離れて見えるから親子かもしれないのに、そう思った。
そして、ガードレールを握り締める。指の関節が真っ白になるくらい、強く。
――なんでお前らは、兄妹で一緒にいられるんだよ。俺とお前らと、一体何が違うんだ。こんなのは、不公平だ。
怒り。激しい怒り。掴んだガードレールをへし折ってしまえそうなほどの、怒り。
だが、その炎はすぐに収まった。まだどうにか生きていた冷静さが、体の隅々まで燃え広がる前に鎮火してくれた。
「……くそ」
ガードレールをゴツンと叩いて、その場から離れる。
目的地も決めずに歩きながら、携帯電話を取り出し、メモ欄を見た。悠人がメールを送った相手の『御霊谷世羽』という名前がメモされている。
悠人が見つからないのなら、この相手を探そうか、という考えが一瞬浮かぶが、そんなことは不可能だとすぐに思い至る。男か女かもわからないし、それどころか、この『御霊谷世羽』という名前をどう読むかすらわからないのだ。
人名だとすれば、『御霊谷』が姓で、『世羽』が名前だと思うが、どちらも読み方がわからない。名のほうの『世羽』は素直に読むなら『せう』だろうか。もしかしたら『よはね』とか、信じられないような読み方かもしれない。
そんな風に、ほとんど現実逃避のようなことを考えながら歩く。機械的に目だけは動かして、悠人の姿を探しながら。
そうしていると、大きな立て看板が目に入り、朔哉は足を止めた。
ゲームセンターの店先に出されていた看板だった。ゲームのタイトルと「最新バージョン稼働中!!」という文字が大きく書かれている。
そのゲームは、今年の初めくらいに紫陽花に誘われて始め、一時期夢中になっていたゲームだった。
「これ、美優もやりたがってたっけ……」
美優は多分、ゲームよりも朔夜と紫陽花の二人と遊びたかったのだろう。このゲームの話題で二人が盛り上がっていることが多かったから……。
そんなことを思い出していたら、無意識に店内に入っていた。
懐かしい喧噪が体を包む。ゲームセンターにはしばらく行っていなかった。
看板のゲームの筐体は、店内の少し奥まったところにあった。
ほとんど何も考えないまま、朔哉は筐体の前に座り、硬貨を投入していた。
このゲームは、オンラインでの多人数同時対戦を売りにした、3D対戦格闘ゲームである。格闘と言っても、素手のキャラは一人しかいないし、そのキャラも魔法のような力を使った遠距離戦を得意にしている。
オンラインで遠くにいるプレイヤーとチームを組み、東京の渋谷など、実在する街をモデルにした広大なフィールドで、最大十人対十人で行われる対人戦は、非常に派手で緊張感があり、なにより遠くの仲間との連帯感を感じられる。
朔哉は慣れた手つきでメニュー画面から『対CPUバトル』のモードを選んだ。
以前によく使っていた、黒いドレスを身に纏った少女のキャラを選び、横浜・中華街ステージで、淡々とCPUの敵キャラを倒していく。
画面が暗転するたび、虚ろな目をした少年の顔が映った。
しばらくして、画面に突然「乱入者出現!」の文字が現れる。オンラインからではなく、反対側にあるもう一台の筐体で遊ぶプレイヤーが、勝負をしかけてきたのだ。
今まで戦っていたCPUの敵キャラが逃げていき、代わりに乱入者のキャラが姿を現す。右目に眼帯、左手に包帯を巻いた、ちょっと痛々しい感じの青年キャラだ。
だが、相手は強かった。
「な、なんだコイツ……このっ、負けるかっ!」
必死になって応戦するも、結果は、朔哉の完敗だった。
全く手も足も出なかった。キャラの相性とかそういう問題でもない。相手の恐ろしいほどの強さに、朔哉は感動すら覚えた。
画面に戦闘のリザルトが表示される。相手は、プレイヤーのデータが記録されるICカードを使ってプレイしているようだった。そこから画面に表示された相手の対戦成績とランキングを見て、朔哉は納得し、感心した。
「対人レート2307、全国ランキング七位? 道理で強いわけだ……ん?」
対戦成績のインパクトに、つい見逃しそうになった、相手プレイヤーの名前。
アルファベット三文字で『SEU』とあった。
「えす、いー、ゆー……?」
SEU。
せう。
悠人の携帯電話で見た『御霊谷世羽』の文字列が脳裏をよぎった。
朔哉は慌てて立ち上がり、筐体の反対側に回る。
そこに、
「あ……」
女の子が一人、いた。
年は美優とそう変わらないように見える。小学生くらいだ。
小柄で、朔哉には丁度良かった椅子に、足をブラブラさせて腰掛けている。
「……あ?」
朔哉に気づいた女の子が、朔哉の目を見た。
その瞳は、黒。
肩に背中に流れ落ちる艶やかな長い髪も、黒。この時期には少し寒そうに見える薄手のノースリーブワンピースも、膝頭まで覆うソックスも、黒。
だが、肌は白い。
滑らかで優雅な曲線を描く首筋も、掴んだだけで折れてしまいそうな華奢な手足も、白。少女には少し不似合いな無骨で重そうなブーツも、白。
その少女は、黒と白の二色だけで、完成されていた。
それでは物足りなかろうと、芸術家が一筆入れたかのように、唇だけが、赤い。
「なんだ? 何か用か?」
ガラス製の鈴を弾いたような、涼やかな少女の声に、我に帰る。水墨画のような無駄のない美しさを放つ少女に、見惚れてしまっていた。
「え、あの……君の、名前は?」
朔哉は動揺し、つい一番気になっていることから訊いてしまう。
当たり前のように、少女は綺麗な眉を不快に歪めた。
「はあぁ? 身の程知らずにも私をナンパするつもりか?」
見た目の美しさと裏腹に、少女の言葉遣いは驚くほど横柄だった。
「ご、ごめん! 違うんだ! ただ、さっきまで対戦してて……」
「ああ、なんだ。リィラの〈
喧嘩なら買ってやるぞ、というような挑戦的な表情で、少女が言う。
「ち、違うって。えっと……君がすごく強いから、名前を聞きたいなーなんて」
「阿呆か貴様は。それをナンパというんだろうが」
そのとおりだった。反論のしようもない。
しかし、他にどう訊けばいいのか。名字だけでも、と縋ればいいのか? いや、それも結局、見知らぬ少女にいきなり名前を訊いているという状況は変わらない。
朔哉が悩んでいると、少女は「はー」と溜息を一つ吐き、椅子から飛び降りて、朔哉の前に立った。少女の身長は、美優より少し低いくらいだった。
「貴様、名前は?」
「……へ?」
「他人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗れと言うだろうが」
数秒ほどかけてようやく、名前を教えてくれようとしているのだと、気づいた。
「お、俺は朔哉。篠突朔哉だ」
「サクヤ……ふぅん、いい名だな」
少女は一瞬だけ、可憐な笑顔を浮かべた。
どこか、咲きかけの花の蕾を愛でるような、慈愛を感じさせる笑顔だった。
「名乗りは礼儀だ。礼儀には礼儀で返す。私の名は、みくりやせう、という」
「みくりや、せう」
「ケータイを貸せ」
呆けたように繰り返す朔夜から、引ったくるようにして携帯電話を奪い、
「こう書くんだ。間違えずに覚えておけよ」
突きつけられた画面には『
朔哉は、やっぱり、と思うと同時に、まさか、と思った。
まさか、こんな女の子が、悠人さんの仲間なのか?
「それで、貴様は何がしたい? よもや、本当にナンパ目的ではあるまい?」
少女の喋り方は、やはり横柄である。尊大と言ってもいい。
だが、見た目は女の子だ。美優とそう変わらない年頃の、おそらく小学生だろう。平気で銃を持ち出すような戦いに関わっているとは思えない。いや、関わるべきではない。
「……御霊谷、さん」
「妙な呼び方をするな。世羽で構わん」
「世羽は、時雨悠人って人のことを、知っているか?」
朔哉の中の半分は、知っていてくれ、と願っていた。
朔哉の中のもう半分は、知らないでくれ、と祈っていた。
「なに? 時雨悠人?」
世羽は訝しげな表情を浮かべる。
だが、すぐに得心がいったように、
「そういうことか。奇縁もここまでくれば、まさに運命の悪戯とでも言うべきか……いや、ただの悪意か」
呆れを滲ませた笑みを浮かべ、溜め息まじりに呟いた。
「知ってるのか?」
朔哉は再度問う。
「さてな。本人に訊いたほうが早いんじゃあないのか?」
世羽は朔哉の肩越しに、彼の後ろのほうを見ていた。
朔哉は、その視線を追い、振り向いく。
「悠人さん……!」
そこに、厳しい表情を浮かべた時雨悠人が、立っていた。
「朔哉君。僕のケータイを見たんだね?」
悠人は朔哉に詰め寄ると、腕を掴み、
「家に帰るんだ」
その、聞き分けのない子供を躾けようとするようなやり方に、朔哉は、
「嫌です」
それこそ子供のように、刃向かった。
「俺は帰りません。帰る場所なんかない」
「ある。美優ちゃんがいなくなっても、君にはご両親がいる」
「だから、なんなんです? 両親がいたって、美優がいなくちゃ、駄目なんですよ。俺も、俺の家族も、美優がいなくちゃ!」
「朔哉君……」
「美優に会わせてください。一度だけでいいんです。会えば諦められるかもしれないし、ひょっとしたら、元に戻す方法があるかもしれないでしょう?」
「方法はない。美優ちゃんは変わったんじゃない。戻ったんだ。本来の〈柱〉という存在に」
「だったら、俺を〈贄〉ってのにしてくださいよ! 力をください! そうすれば、一人で美優に会いに行きますから! 一人で美優を取り戻――」
「そんなことは僕が許さないッ!」
ゲームセンター内の喧噪が一瞬掻き消されるほどの、激昂。
初めて聞く悠人の大声に、朔哉は思わず身を竦めた。
「君が力を得る必要なんてない。美優ちゃんのことは諦めて家に帰るんだ。そして、美優ちゃんの分も、ご両親に孝行してあげるのが、君の役目だ」
一転して穏やかな口調で言う。朔哉を宥めるように。
朔哉は、怒りで視界が真っ赤に染まるのを見た。
こんな勝手なセリフがあるか。俺の選択肢を全部奪って、否定して。諦めろ、諦めろって追い詰めて。そのくせ、声だけは温かくって。
その激しい怒りの奔流に、朔哉は身を委ねてしまおうとして、
「二人とも黙れ」
しかし、静かに発せられた世羽の声に、遮られる。
世羽は目を細めて二人を見ていた。睨んでいるわけではない。どころか、微笑んでいるようにさえ見えた。
けれど、息が詰まるような圧力を感じ、朔哉は口を噤んだ。
「世羽。これは君には関係のないこ――」
「私は黙れと言った」
悠人もまた、世羽から発する尋常でない気に、押し黙った。
自分の命を、世羽に握られているように感じた。
言うとおりに黙らなければ、その瞬間、世羽に食われる――そう思えた。
ゲームセンター内の喧噪が、今度こそ、命惜しさに黙りこくった。
「ギャンギャン喚くなよ、ガキども。私が縄張りにしているこのゲームセンターを、獣臭い犬小屋にでもするつもりか」
世羽は二人の間に立ち、悠人の腕を掴んで、朔哉の腕を放させた。
「悠人。貴様、まだラクシュミのことを引きずっているようだな」
「……ッ!」
悠人は息を呑み、世羽からも朔哉からも、目を逸らした。
その態度は、事情を知らない朔哉にも、世羽の言葉を肯定する態度に見えた。
それに世羽は、ふんっ、と鼻を鳴らし、言う。
「呪われているなぁ、貴様も。その呪いを解こうとも思わんほどによ」
悠人は目を逸らしたまま、答えない。
「まあいいか。それも好き好きだろう。……朔哉。さっきの質問に答えてやるよ。見てのとおり、私は時雨悠人を知っている」
今度は朔哉のほうを見て、世羽が言う。
「今しがたの吠え合いで、大体の事情もわかったよ。悠人が送りつけてきたメールに書かれていた、新たに覚めた〈柱〉の兄貴というのが、なるほど貴様か。それで、すでに失われている妹に会うため、ここまで来たと」
「失われてなんかない……!」
反射的に否定した。野良犬が唸るような声だった。
「ふむ? 覇気だけはあるようだなぁ? そんなに妹が恋しいか。妹と引き離そうとする運命に、抗いたいか」
はははは、と愉快で堪らないという様子で、笑う。
すると、世羽から発せられていた圧力が消え去り、逃げ隠れていたゲームセンターの喧噪が、戻ってきた。
「いいだろ。まだ覚めていないはずの“
そう言って、世羽はゲームの筐体から自分のICカードを引き抜き、
「私は、ちと小腹が空いた。喫茶で菓子でも食うか。お前らも来い」
朔哉と悠人に手招きをしながら、ゲームセンターから出て行こうとした。
「ま、待ってくれ世羽! 一体どういうつもりで……!」
焦った様子で、悠人は世羽を引き留めようとした。
「どういう? 何を慌てる。貴様も行く予定だったんだろうが、アヴェスタに」
「それはそうだけど、朔哉君は――」
「関係ない、か? いいや、あるね。朔哉は唯一、
「だけど、それは……!」
反論できないのか、悠人が言いよどむ。
「甘いんだよ、貴様は。優しさのつもりか? 朔哉に世界の本当を教えたのも自分だろうに。何も教えずに放り捨てればよかったものをよ」
二人の会話に朔夜は強い違和感を抱いた。それは、世羽と最初に言葉を交わした時から生じていたもので、いよいよ無視できないほどに大きくなってきた。
朔哉は世羽に訊ねた。
「世羽……君は、なんなんだ?」
白黒の少女が朔哉に向き直る。
喧噪が、また息を殺して隠れた。
「私は〈柱〉だよ」
その答えに、朔哉は一歩、後ずさった。
「三の柱。
人間としての、名。
ただの人間の、ただの女の子だったときの、名。
今、朔哉の前で喋っているのは、御霊谷世羽ではない。十数年、必死に生きた女の子の人格と記憶を塗り潰し、その体を奪った、〈柱〉と呼ばれる、神。
「おいおい。なんだ、その目は。まるで、人間を獲って食う化け物を見るような目で、私を見ているじゃあないか」
朔哉の内心を見透かしたように、からかうような口調で、世羽が言う。
いいや、違う。世羽じゃない。ここにいるのは〈柱〉だ。
朔哉から美優を奪い、かつて悠人の両親を殺した、神だ。
「お前も、家族を殺したのか」
「……子供のような気だな。いや、事実、子供か」
世羽は、憐れむような視線を朔夜に送り、深い溜息を吐いた。
「悠人は貴様になんと説明した? そりゃ、中には生まれ直すたびに家族を殺すを常にしている〈柱〉もいる。だが、私はそんなことはせん。面倒くさいからな。第一、そうでなければ、御霊谷世羽という人間名で名乗ったりはしないだろうが」
「なら……家族は、生きてるのか?」
「生きてるよ。一緒に暮らしてもいる。まあ、一人娘がいきなり人が変わったってんで、ここの医者に連れて行かれそうにはなったがな」
ここ、と言いながら、こめかみのあたりを指す。
「それももう二年前の話だよ。今じゃ両親も、最初っからこの性格だったみたいに、受け入れているよ。〈柱〉なんてもんだとは、夢にも思っていないだろうがさ」
話が長くなったからか、世羽は手近の筐体の椅子に座りながら、言う。
「朔哉。何故、人間には心があると思う?」
「……心?」
「そうだ。感情と言ってもいい。喜んだり、怒ったり、悲しんだり、楽しんだり、他者を敬ったり、恐れたり、愛したり、憎んだり、獣にはない複雑極まる心が、人間にはある。その複雑さ故に、人間同士の触れ合いの中で容易く傷つき、ときには壊れてしまう。何故、そんな厄介な物を、人間は持っているのか」
朔夜は世羽の黒い瞳を見つめた。白い肌に際立って見える唯一の漆黒は、彼女の中に宇宙と等しい〈柱〉の記憶が確かにあることの証のように、深く、広い。
「人間を創り出したのが〈柱〉だからさ。それが己の意志だったか、それとも〈運命〉に導かれたのか、二十四の〈柱〉は人間を定義し、観測し、存在させた。自分たちが持つ心と同じものを、人間に与えてな」
「〈柱〉にも、心が……」
「そう。貴様が持っているのと同じ心だ。だから、私たちは貴様と同じように傷つき、貴様と同じように誰かを憎み、貴様と同じように誰かを愛する。そういう心を持った存在が、望みもしない生まれ直しを幾度も繰り返すうちに何を思うか……それを、貴様も考えてみるといい」
「望みもしない? 〈柱〉は、自分の意志で生まれ直しているんじゃ、ないのか?」
その質問には答えず、世羽は立ち上がった。
「知りたければ、ついて来い」
そう言って、ゲームセンターの出入り口から、外へ出て行く。
無言のまま、チラリと朔哉のほうを見てから、悠人が続く。
朔哉も、後を追った。
自動ドアの溝をまたぐ瞬間、確かに一線を越えたような気がした。
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