4 世界のこと、妹のこと
どれくらい歩いたのか。
全身に残る痛みのせいか、それとも心に受けた衝撃のせいか、時間の感覚がはっきりしない。
道中、
辿り着いたのは、オートロックの玄関がある高級そうなマンションだった。高さは二十階ほどあるだろうか。
「しっかり、もう少しだからね」
勝手知ったるという様子の悠人に支えられたまま、エレベータに乗り込む。
朔哉は悠人の自宅に行ったことはないが、両親から、彼が大崎に住む伯父夫婦と一緒に暮らしているということを聞いた覚えがある。目黒と大崎は怪我人が徒歩で行き来できるほど近くはない。
朔哉が疑問に思うのを察したのか、悠人が言った。
「このマンションの十二階に、知人の家があってね。仕事で空けるからって、留守の間の管理を任されているんだ。たまに来て、掃除をしたりしてる」
悠人は朔哉のほうを見ず、ただエレベータの階層表示を見上げていた。
知人の家だという一室は、角部屋にあった。中に入ると、玄関も廊下も、一軒家の
リビングに連れて行かれ、ソファに座らされる。
悠人は、家庭用の救急箱と、お湯を張った洗面器を持ってきて、朔哉の足の治療を始めた。
「出血は多いけど、傷自体はそんなに大きくないね。消毒しておこう」
血が染み込んだ靴下を脱がし、傷口を確認して、悠人が言う。
次に、傷口を洗い流すため、洗面器に足を浸ける。ぬるま湯が傷に染みて、朔哉は顔を顰めたが、次第に温かさが伝わってきて、気分が落ち着くのを感じた。
悠人は手慣れた様子で、朔夜の足についた血と汚れを洗い流す。風呂で美優の体を洗ってやったり、傷の手当てをしたことなら何度もあるが、こうしてお世話してもらう立場になるなんて、朔夜にとっては初めての体験だった。
「まずは君の話を聞かせて欲しい」
視線を洗面器に落としたまま、悠人が言った。
「
「……はい」
朔哉は、話した。
話す、というより、吐き出す、といったほうが近いだろう。もう自分の頭の中だけに入れておくには大きすぎるし、重すぎる記憶だ。
気分は落ち着いているのに頭は混乱したままなのか、自分の中で整理しながら話すということができなかった。何度も言葉を噛み、自分でも聞き苦しいだろうと思ったが、悠人は黙って聞いていた。
話しながら、朔哉は思い出す。今日、何が起きたのか。何を見たのか。
そして、美優が連れ去れていく光景が、頭を過ぎった。
「……違う」
そうだ、違う。美優は連れ去られたんじゃない。自分の意志で家を出た。自分の意志で車に乗った。自分の意志で俺のそばからいなくなった。
いや、そうじゃない。あれは美優じゃない。あんな無表情、美優の顔じゃない。
じゃあ、誰だった? じゃあ、なんだった?
「朔哉君」
悠人が朔哉の顔を見上げながら言った。
彼は朔哉の手を握っていた。
「大丈夫」
優しい声。労りの気持ちが、手から伝わってくるような気がした。
また暴れだそうとした心が、ゆっくりと鎮まる。
朔哉は続きを話した。美優を乗せた車を見失い、公園で制服姿の女に銃口を押しつけられ、悠人に助けられるところまで。悠人の手から与えられる安心感のおかげか、さっきよりもずっとスムーズに話すことができた。
その間に、悠人は傷口の消毒を終えて、丁寧に包帯を巻いてくれた。
「応急処置だから、あとでちゃんと病院へ行くんだよ?」
悠人が救急箱と洗面器を片付けに行き、残された朔哉はなんとなく部屋の中を観察した。ようやく、それくらいの余裕がで出てきた。
とても清潔で、生活感の全くないリビング。家具や家電は一通り揃っているものの、悠人や他の誰かが日常的に暮らしているようには見えない。
モデルルームのような印象を受けるが、よくよく見てみると、ガラステーブルの表面に刻まれた細かな傷など、生活の痕跡を発見できる。
この家には確かに誰かが住んでいたのだ。でも、今はもういない。
人に捨てられた家――そんな印象を、朔哉は抱いた。
「朔哉君は、コーヒーより紅茶が好きだったよね?」
戻ってきた悠人は、湯気の立つカップを二つ、テーブルに置き、向かいのソファに座った。
琥珀色の紅茶は甘く、ほのかに蜂蜜の風味がした。
しばし黙って紅茶を味わう。
カップの中身が半分ほどにまで減った頃、朔哉は言った。
「教えてください」
悠人の目を見る。悠人も、朔哉の目を見た。
「美優に何があったのか、悠人さんは、知っているんですよね?」
答えが返ってくるまで、一分かかった。
「知っている。それを君に話すことも出来る。だけど、君にとっては、知らないほうがいいことかもしれない。知っても、後悔するだけかも――」
「教えてください」
悠人の言葉を
すると、悠人は朔夜が一度も見たことのない表情を見せた。朔夜の身に起きたことを悲しむ表情に、ほんの僅か、古いアルバムを読み返して過去を懐かしんでいるような、複雑な表情を。
だが、それは一瞬のことで、真剣な眼差しに戻った。
「……そうか。そうだろうね」
悠人は、覚悟を決めるように溜息をついた。
「それじゃあ、話そうか」
でも、本当は話したくない、話さないほうがいいことなんだ。
悠人の目が、そう語っていた。
「美優ちゃんは――」
意を決するように小さく深呼吸をして、悠人は、
「美優ちゃんは、〈
「この世には〈柱〉と呼ばれる存在がいる」
そして、朔夜の目をまっすぐに見つめたまま、話を続ける
「人でありながら、人ならざるもの。宇宙が生まれて間もない頃に出現し、宇宙を、人を、育んできたもの。己の主観によって、宇宙を観測し、宇宙を定義する、
「ちょ、ちょっと」
朔夜は口を挟もうとした。ちょっと待ってください、と言おうとした。
しかし、悠人は柔らかな仕草で手を上げ、
「質問はあとで」
微笑みながら言った。
自宅で悠人の個人授業を受けるとき、何度も見た仕草だった。
「神を数えるとき、人は柱という単位を使う。
微笑みは一瞬で掻き消え、悠人は真剣な表情で授業を続ける。
「かつて〈柱〉は人じゃなかった。人よりも
そこで言葉を切り、一呼吸を置いてから、悠人は言った。
「〈柱〉の数は二十三。そのうちの一人が、君の妹、篠突美優だ」
リビングに凪のような沈黙が訪れた。
これで授業は終わりなのか、悠人は黙ったまま朔夜の目を見ている。
朔夜はテーブルのカップに視線を落とし、喉の奥から絞り出すように、
「意味が、わかりません」
と言った。
「な、なんの話をしてるんですか? はしら? かみ? なんですか、それ」
意味がわかりません――朔夜はもう一度繰り返した。
何か信じられないような真実を告げられるとは思っていた。それほどに、公園で目にした光景は常識外のものだったし、美優の豹変を説明するのに今の自分が想像できるような原因があるとは思えなかった。
だが、悠人の口から飛び出した“お話”は、あまりにも突飛で、想像外のさらに外側のような内容に感じられた。
「悠人さんのことを疑うわけじゃないです。でも……だって、おかしいでしょう? 突然そんな話をされたって、俺には――」
「美優ちゃんは別人のようだったと、君は言ったね」
朔夜の言葉を遮り、悠人は言った。先程と同じように手を上げ、微笑んでこそいないが、視線で「質問はあとで」と語っていた。まだ、授業は終わっていないのか。
「人となった〈柱〉は宇宙の法則に縛られるようになった。一定の条件で超法則的な奇跡を起こすことができても、人と同じように病に
朔夜は質問することを諦め、悠人の話を真面目に聞いた。意味がわからないこと、理解できないこと、容易に信じられないこと、それは山ほどある。だが、聞かなくてはいけない。これは、美優の話だ。
「死んだ〈柱〉は、すぐに別人として生まれ直す。どこかの誰かの子供として。……ときに、どこかの誰かの
「生まれ、直す……?」
聞きなれない言葉に、朔夜は思わず悠人の言葉を繰り返した。
「そう。生まれ変わるのではない。生まれ直した〈柱〉は、ただの人として成長する。誰にもそれが〈柱〉だとはわからない。本人でさえ、自分が〈柱〉であることに気づかない。そして、ある日突然、思い出すんだ。本当の自分を。宇宙の始まりから続く〈柱〉としての記憶を」
家庭教師の悠人にとって、自分は決して良い生徒ではなかっただろうと、朔夜は思う。正直に言って、勉強は好きではない。好きではないという自覚が、余計に成績を落としていた。
朔夜がどうにか落ちぶれずにいられたのは、
「〈柱〉たちは、この現象のことを“覚める”と表現する。夢から覚める。ただひとであったという甘い夢から覚めるのだと。皮肉を込めて」
逆に、生徒としての朔夜にとって、悠人は非常に優秀な教師だった。彼のおかげで成績は目を
「夢から覚めても、人としての記憶が消えるわけじゃない。自分がどんな場所で生きてきたか、何をしたか、誰と出会ったか、誰を愛したか、全て覚えている。だけど、人としての記憶は、〈柱〉として生きてきた膨大な記憶の前ではあまりに小さい」
悠人が優れた教師だったから、彼の生徒である朔夜には、彼の教えてくれることがすぐに理解できる。理解できてしまう。
これから、悠人が何を言おうとしているのかも。
「〈柱〉として目覚めるというのは、別人になるということなんだ。神にも等しい〈柱〉の人格に、人として育まれた心が、塗り潰されてしまうということだ」
これは美優の話だ。美優の話のはずである。
「美優ちゃんはもう、君の妹じゃない。〈柱〉だ」
「意味がわかりません」
悠人の結論を拒むように発した声は、朔夜が思っていたよりも大きく響いた。
「冗談でしょう? マンガですよ、それ。馬鹿らしい。悠人さんのことは信じています。でも、今の話は、ちょっとないですね。うん」
朔夜は視線を落としたまま、早口で喋る。顔を上げられない。悠人の顔を見れば、きっと何も言えなくなる。
「美優は確かに別人みたいでした。でも、それは、その……勘違いです。俺の。きっと何か事情があって、別人みたいなふりをしてたんだ。そう、自分の誕生日に逆サプライズしちゃう、みたいな」
自分がどんな顔をしているのかわからない。笑っているのか、怒っているのか、それとも泣いているのか。
「だって、だって、美優は、昨日も今日も、普通で、いつもと、去年の誕生日と変わらなくて、それが、どうして。……美優は、美優ですよ。俺の妹です」
それなら、どうして声が震えているんだ?
「悠人さんの勘違いです。俺の話し方が駄目だったんですね。だって、悠人さんは今日は美優と会ってない。なのに、はしらになったとか、そんなこと、わからないでしょう?」
「わかるよ。僕も同じだったから」
さっきまでとは違う、とても優しい声で、悠人は言った。
「僕の姉も〈柱〉だった」
朔夜は弾かれるように顔を上げた。
「姉はとても優しい人だった。僕は姉のことが大好きでね、いつも姉の
悠人は、自分のカップを手に取り、優しく微笑みながら琥珀色の水面を見つめている。まるで、そこに映し出される暖かな思い出を眺めているかのように。
「だけど、幸せだった生活は、姉の目覚めによって終わった」
全てが夢だった。
姉が夢から覚めるのと同時に、悠人もまた、心地よい夢の世界から追い出された。
「僕が十才で、姉が十四才の頃だから……今から十年前か。なんの前触れもなく〈柱〉として目覚めた姉は、自らの手で両親を殺害した」
悠人は目を伏せながら言った。
「僕は見た。原型を留めていない両親の
悠人の独白に衝撃を受けながら、朔夜は、これなのか、と思った。
これが、この記憶が、悠人さんの“痛み”か。彼の笑顔に陰を生み出した原因か。
「君と同じだ。僕も姉に会いたいと思った。会って確かめたかった。両親を殺した理由を聞きたいと思ったんだ。それが叶ったのが四年前。姉と対立する立場の〈柱〉に出会い、真実を知らされた。僕はむしろ嬉しかったよ。両親を殺したのは優しかった姉じゃない、〈柱〉という別人だったんだ……って」
悠人は顔を上げた。もう過去を懐かしむ青年ではなく、生徒を導く教師の顔に戻っていた。
「美優ちゃんが〈柱〉だという根拠は、他にもある。僕は四年前に、姉のことを教えてくれた〈柱〉から力を分け与えられた。僕のような存在を〈
悠人は、僕のような存在、と言った。僕のような人間、ではなく。まるで、自分がすでに人間ではないかのように。
「公園で君に銃を突きつけた女性……彼女は、僕の姉に力を分け与えられた〈贄〉だ。僕は四年前に彼女と戦った。彼女の仲間を大勢殺した」
そういう世界なんだ、と悠人は言った。
「二十三人の〈柱〉は、大きく二つの派閥に分かれて争っている。もう数千年前から続く争いだ。美優ちゃんはおそらく僕の姉と同じ派閥に属する〈柱〉だったんだろう。だから姉の〈贄〉が迎えに来た」
悠人の話はまるで現実世界のことと思えない。
だが、公園で女に蹴飛ばされた脇腹に残る鈍痛は、これが現実の出来事だと訴えてくる。耳にこびりついた銃声の残響も、目に焼きついた、切断された腕から流れ出る血の赤さも、朔夜の現実逃避を許そうとはしない。
「朔夜君。美優ちゃんは〈柱〉だったんだ。今日、君の身に起こった全ての出来事が、それを証明している」
そう言い切って、悠人は黙った。彼は無言で朔夜に問いかける。これで僕の授業はおしまい、それじゃあ何か質問はあるかな?
だが、朔夜には何を質問すればいいのかわからなかった。悠人の言葉に含まれる真実というハンマーに、頭を何度も殴られたみたいに、何も考えられない。
「……俺は」
それでも、一つだけ確かな想いがあった。
「美優に会いたい」
様々な色の絵の具を混ぜ合わせたように、ぐちゃぐちゃに濁った頭の中で、ただ一つ、その想いの色だけが、他の色と混ざらずに残っていた。
「もう一度、美優に会って、確かめたい。そうじゃなきゃ、納得なんてできない!」
そうだ。それだけが全てだ。
悠人の話が現実か空想か、本当か嘘か、彼を信じるか否か、そんなことは考えるまでもない。美優に会えればそれで全てが解決する。解決するはずだ。
「……どうやって?」
だが、悠人から帰ってきた言葉は、あまりに冷淡だった。
「ど、どうって」
「どうやって、美優ちゃんに会うつもりなんだ? 具体的な方法は?」
改めて問われ、朔夜は口ごもってしまった。
美優の行き先に関する手掛かりは、何もない。美優を乗せた自動車のナンバーは覚えているが、それをどうすればいいのか、具体的には何もわからない。
強いて挙げるとすれば、警察に捜索願を出すことぐらいだろうが、悠人の話が真実であれば、警察に一体何ができるだろう。
「僕は君に協力しない」
「……えっ」
「僕は、君が美優ちゃんに会わないほうがいいと思っているから」
悠人の言葉に、朔夜は思わずソファから腰を上げた。自分でも驚くほどのショックを受けた。心のどこかで、悠人が手伝ってくれることを期待していたのかもしれない。
「さっき話しただろう? 僕の姉は〈柱〉に目覚めた直後、両親を殺したんだ。美優ちゃんも同じことをするかもしれない。兄である君すら、手にかけるかもしれないんだ」
今度こそ、朔夜は悠人の言葉に殴られたような思いがした。
美優が、両親を、俺を、殺す?
そんなこと想像できない。想像したくもない。それは、世界が滅びることよりもずっと恐ろしいことだ。
「……帰りなさい。朔夜君」
衝撃に硬直した朔夜に、悠人が優しく言った。
「ここから先は、君が立ち入るべき世界じゃない。君の世界へ帰りなさい。君にはまだ、ご両親や
そんなことはわかってる、だけど、俺は美優が――言い返そうとした言葉は、結局、朔夜の口から出ることはなかった。
悠人の言った「君を大切に思ってくれる人」という言葉の中に、悠人自身も含まれていることを、朔夜の中にかろうじて残っていた冷静さが確かに感じ取っていたから。
「今夜は泊まっていくといい。まだ家に帰るのは、辛いだろうからね」
立ち上がりながら言う悠人に答えず、朔哉はソファの上で膝を抱えた。
そのあと、悠人は夕食を作ってくれた。風呂に入るよう勧めてくれた。寝室が一つ空いているから使うといい、と言ってくれた。
だが、その全てを、朔哉は無視した。
膝頭に額をくっつけて、外界を遮断していた。
そうして、美優のことを考えようと思った。
でも、思い出せない。
美優の顔が、思い出せない。
大好きな妹の笑顔が、思い出せない。
必死に思い出そうとするたび、あの無表情だけが浮かんできて――
朔哉はいつしか、眠りへと落ちていった。
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