3 そして今日から
教室から見上げた空は、灰色に
「……いたっ」
「ぼーっとしてんね、朔哉ちゃん」
考えごとをしていたら、軽く頭を叩かれた。
「もうとっくに授業終わってんよ。早く移動しなきゃ」
見ると、丸めたノートを持った
「なんだ、紫陽花か」
「
「わけわかんねーよ」
紫陽花のボケを適当に流しつつ、朔哉は教室の時計を確認した。授業が終わったことに気づかなかった自分に、少し驚いた。
「どうせ、
「悪いか?」
開き直りではなく、朔哉は素で返答していた。「どうせ」と言うのなら、どうせ紫陽花だって朔哉がどう答えるかわかった上で聞いているのだ。
「ま、それも仕方ないか。アタシだって楽しみしてるもん、今日のこと」
悪戯な猫のような笑顔を浮かべて、紫陽花が言う。
「腕によりをかけてぇ……ご馳走、用意してくれてるんでしょ?」
「変にプレッシャーかけんな。お前のほうこそ、昨日買ったプレゼント、なんか変なもんじゃあないだろうな?」
「安心なさいな。今年のプレゼントは特別中の特別なんだから!」
紫陽花はウインクをしながら言った。
その実にわざとらしい仕草に一抹の不安を覚えながらも、朔哉はそれ以上詮索はしなかった。紫陽花は人を本気で驚かすことを平気でやらかすが、それが悪い方向へ転ぶことはないと、これまでの経験で知っているからだ。
朔哉と紫陽花の付き合いは、小学校三年生にまで
紫陽花は転校生で、母子家庭であることに加え、母親がテレビに出演することもある有名なデザイナーであるという理由もあってか、クラスで浮いた存在だった。
朔哉もまた、妹最優先の生活を送っていたために、同級生たちとの付き合いを
似たような立ち位置にあったからか、授業で二人組をつくるときなどに余り者同士で組まされることも多く、話してみれば妙に気が合い、気がつけば友達と呼べる間柄になっていた。
(――まるで、それが運命であったかのように)
「にしてもさあ……」
紫陽花が腕を組みながら神妙な顔をした。
「受験生だってのに、授業そっちのけで妹のことばっかり考えちゃうーなんて調子じゃあ、もしも美優ちゃんがいなくなったりしたら、大変ね」
「はあ? 何言ってんだ?」
朔哉は心底から紫陽花の言っていることが理解できず、彼女の目を見つめ返した。
「美優がいなくなる? なんで?」
「なんでって、そりゃ……その」
どうやら深く考えて発した言葉ではないらしい。紫陽花は考え込むように天井を見上げた。
「えーっと……あ、ほら! 美優ちゃんが結婚したりとかさ! そうしたら、朔哉とベッタリ一緒ってわけにもいかなくなるっしょ!」
「お前なぁ……」
明らかに思いつきの回答に、朔哉は溜め息を吐いた。
「昨日も言っただろ。美優はまだ十二才だ。結婚なんて、どんだけ先の話をしてんだよ」
「そんなのわかんないでしょ! ほーりつじょーは十六才でも結婚できるんだし、四年なんてあっという間じゃん! どうすんの!? なんかこう、髪を真っ赤に染めて、全身にピアス着けてるような男を『この人と結婚します!』って連れてきたら!」
「はいはい。そりゃ大変だな」
ムキになって言い
「何さ、余裕ぶっちゃって。知らないからね。変な男に美優ちゃん
「お前は俺と美優の関係をなんだと思ってんだよ。大体、未成年で結婚なんて話になったら、俺よりも先に両親が反対するだろうが」
「じゃあ、駆け落ちだね!」
「飛躍しすぎだろ……」
いつものじゃれ合いをしながら、教室を出る。
なんとも牧歌的な、いつもと変わらない、日常の光景。
昨日も、一昨日も、そうであったように、明日も、明後日も、永遠に続くと錯覚してしまいそうなほどの……。
◆ ◆ ◆
午後のHRが終わると同時に、朔哉は教室から飛び出した。
彼の事情を知るクラスメイトと担任教師は、朔哉の背中を苦笑しながら見送った。
朔哉は、駅前の洋菓子店で予約していたケーキを受け取り、万が一にもケーキが崩れてしまわないよう、
不安はなかった。
大方の準備は済ませてあるし、あとは昨日のうちに仕込んでおいたビーフシチューを仕上げるだけだ。冬を感じる冷たい風も、きっとビーフシチューをより美味しくしてくれるだろう。
自宅に着くと、すぐさまキッチンへと向かう。学校で宿題を出されてはいるが、それは明日の朝に全力で早起きして片付ける覚悟だ。
炒めた肉と野菜を鍋に投入し、いよいよ煮込みの作業に入ろうとしたところで、
「たっだいまー!」
本日の主賓である美優が、元気な声とともに帰宅した。
「おかえり、美優」
玄関まで出迎えると、美優は慌てた様子で靴を脱いでいた。柔らかそうな頬が僅かに上気しているのは、朔哉と同じように急いで帰ってきたからだろう。
「お兄ちゃん! お料理、私も手伝うね!」
自分の誕生日パーティーなのに、と驚くことはなかった。去年も、一昨年も、美優は朔哉を手伝って、誕生日パーティーの準備をした。お兄ちゃんと一緒に準備をするのが楽しいと、そう言って。
「そりゃ助かるけど、先に宿題を終わらせてからな」
「うん! ちょっぱやで終わらせちゃうね!」
「ちょっ……? どこでそんな言葉覚えた? 紫陽花か?」
「いいから! 待ってて!」
朔哉の質問に答えず、美優は大きな足音を立てながら階段を駆け上がっていった。その姿に朔哉は思わず吹き出してしまったが、多分、ついさっきの自分も同じような行動をしていたはずだ。
ちょっとした共有と共感に幸福感を抱きつつ、玄関のドアの施錠を確認してから、朔哉はキッチンへと戻った。
「よしっ、やるか」
最後の仕上げでしくじるわけにはいかない。朔哉は真剣な表情でシチュー鍋と向き合った。
具材の様子を確かめつつ、思い出したように現れる
そろそろ美優が下りてくるかなと、天井を見上げたときだった。
インターフォンが鳴った。
「……ん? 悠人さん、かな?」
朔哉はコンロの火を止め、玄関へと向かった。
玄関には一人の女がいた。
中途半端な長さの茶髪に、右目の泣きボクロが目立つ。朔哉と同じくらいの背丈で、目黒駅から少し歩いた場所にある高校の制服を着ている。
勿論、悠人ではないし、紫陽花でもない。つい先程、美優が放り出すように靴を脱いでいた場所に立っている人物は、朔哉の知らない女だった。
「……ちっ」
舌打ち。苛立たしげに靴を慣らしながら、朔哉を睨みつけてくる。
あまりに唐突で、突然で、朔哉は当たり前の疑問に気づくのが遅れた。この女は誰なのか、という以前に、何故、玄関の外ではなく内側にいるのか。
ドアには鍵をかけていたはずだ。美優が帰ってきたとき、朔哉は確かに鍵をかけた。自分一人ならともかく、美優がいる今、施錠を忘れるなんてことはありえない。
女の背後に、破壊された玄関ドアが見えた。
凄まじい力で
明らかな異変を前に、朔哉の全身が緊張で
「お前――」
誰だ? と言おうとしたとき、誰かが朔哉のすぐ脇を通った。
美優だった。
いつの間に二階から下りてきたのか、部屋着に着替えた美優が、しっかりとした足取りで、玄関に立つ女に近づいていく。
「美優!? おい、待て!」
この女は危ない。よくわからないが、危ない。
そう思って、咄嗟に美優の腕を掴んだ。すると、美優は、
「………………」
無言で、朔哉の顔を見上げた。
その顔に、その瞳に、感情はなかった。
「み、ゆ……? なんだ、その顔……」
朔哉の知っている美優は、よく笑って、よく泣いて、コロコロと表情を
朔哉の知っている美優の顔に“無表情”はない。
ならば、今、朔哉を無表情で見上げるこの少女は、誰だ?
「触るな」
そう言って、力の抜けた朔哉の手を、美優は腕に止まったハエを払うかのような粗雑さで振り払った。
それから、女のほうへと向き直る。
女は美優に一礼し、壊れたドアを押し開けた。
玄関の先の道路には黒塗りの乗用車が止められていた。背の高い金髪の男が運転席から降りてきて、
美優は玄関を出て、その乗用車へと近づいていく。
そこでようやく、朔哉は我に帰った。
何一つ理解できることはなかった。少女が何者なのかも、美優の変化も、何も。
だから、全てを勝手に解釈した。
――美優が連れて行かれようとしている。この女と、あの男は仲間で、美優を連れ去ろうとしている。俺のそばから。俺の大切な妹を。
「美優!」
朔哉は無我夢中で妹に駆け寄ろうとした。
だが、制服を着た女が目にも止まらぬ早さで動き、壁に押さえつけられてしまう。
「ぐっ……この! なんなんだ……! お前ら!」
「うるさいな。黙っててよ」
朔哉を
兄が拘束されているのに目もくれず、美優は乗用車に乗り込んだ。
乗用車のドアが閉まる音がした。
エンジンがかかる音もした。
「う、ぐっ……ううううああああああああ!!」
朔哉は獣のように叫びながら、めちゃくちゃに暴れた。腕を、足を、がむしゃらに振り回した。
「……つっ」
すると、自由の利いていた足が、偶然にも女の向こう
玄関から飛び出すと、乗用車は発進したあとだった。
すぐに追いかける。全力で、靴も履かずに、走って。
乗用車は走り出したばかりで、加速しきっていない。まだ追いつけるかもしれない。
「美優っ……美優っ……待ってろ、今……!」
走りながら手を伸ばす。
後部座席に美優の後ろ姿が見えた。
あと
だが、無情にも乗用車との距離が開き始める。
距離は開く。どんどん遠くなる。美優の姿が小さくなる。
待ってくれ、もう少し、もう少しで――
「――っうわ!?」
朔哉は前のめりに転倒した。
勢いがついていたために全身を強く打ち、両足の靴下には、小石でも踏みつけたのか、真っ赤な血が滲んでいた。
遠のいていくエンジン音を聞き、朔哉は痛みに呻きながら立ち上がる。
だが、長く延びた道の先に、乗用車の姿はなかった。
一瞬、目の前が暗くなるが、すぐに考え直す。まだ見失っていない。どこか脇道に入ったんだ。どこの? 簡単だ。すぐに分かる。人に聞けばいい。追いかけている間にナンバーも覚えた。すぐ見つかる。
すぐ見つかる、すぐ見つかる――自分を落ち着かせるように、慰めるように、必死で頭の中で繰り返す。
そして、再び走り出そうとした、その瞬間。
「……がっ!?」
横合いから凄まじい衝撃が襲ってきて、朔哉は吹き飛ばされた。
悲鳴も上げられぬまま飛ばされた先は、小さな児童公園だった。道路に面した茂みを突き破り、朔哉の体は投げ捨てられた空き缶のように地面を転がった。
「げ、は……が……あ、あぁ……」
口から自分の物とは思えない声が出た。何が起きたのか、自分がどっちを向いているのかも分からない。胃の中の物が逆流してきそうな感覚に、どうにかまだ生きていることだけは分かった。
視界に公園の入口が見えた。そこに、さっきの制服を着た女がいた。
女は、感情の籠もらない声で、言う。
「可哀相にね」
女は、こっちに向かって歩きながら、言う。
「同情するわ」
女は、朔哉のすぐ横に立って、彼を見下ろしながら、言う。
「でも、私には関係ない」
朔哉はなんとか起き上がろうとしたが、できない。脇腹が酷く痛み、胃と腸を思いっきり握り締められているかのような嘔吐感に、呻き声ばかりが口から漏れた。
「痛い? これでも加減して蹴ったのよ。本当は、お前の胴体を真っ二つにしてやろうかと思ったんだけど」
淡々とした口調で喋りながら、女は朔哉の頭の近くにしゃがみ込み、右手に持った黒い物体を、朔哉のこめかみに押しつけた。
金属質の、冷たい感触がした。
「私に関係あるのは、お前を殺すなと命令されていること。でも、私はお前を殺したいと思っているということ。だって、全部お前のせいだもの」
ぎちち……と、黒い物体が音を立てた。金属同士が擦れ合う音。
映画なんかで聞く音と随分違うな、と朔哉は場違いに思い、呟いた。
「拳、銃……?」
押し当てられたのは銃口。
聞こえたのは、撃鉄を起こす音。
「そうよ。ニセモノだと思う? ……すぐに分かるわ」
そう言って、女は
ドサリ――と、銃声にしては妙な音がした。
それもそのはずで、朔哉は目の前の光景に、思わず笑ってしまいそうになった。
女は、銃を落としたのだ。
引き金を引こうとして手を滑らせたのか、地面に銃が横たわっている。
なんて間の抜けた話だろうと、朔哉はぼんやりした意識で思った。
だって、銃を握った右手ごと落とすなんて、ひどい間抜けじゃないか――
「あ、ああっ、ああぁぁっ!?」
女の絶叫が響き渡った。
手首から先を失った右腕を押さえて、半狂乱に叫びまくっている。
「ひぃっ、ひぃっ……! く、そ……くそったれがぁ!」
女は汚い言葉を叫びながら、後ずさるようにして朔哉から離れた。
その表情は、驚愕よりも、恐怖と言ったほうが近い。
「また……また、お前か! 時雨悠人!」
気を失いかけていた朔哉の意識が、一気に覚醒した。
「朔哉君。僕の声が聞こえるかい?」
彼は、朔哉のすぐそばにいた。
朔哉の傍らに膝をつき、あの陰のある笑顔を浮かべて、そこにいた。
「ゆう、と……さん……どうして……?」
「ごめんよ。僕がもっと早く来ていれば、こんなことにはならなかった」
悠人は両手に白い手袋を
そして、右手にビニール傘を持ち、左手に紙袋を二つ提げていた。
大きい紙袋には、昨日言っていたパーティーゲームが。小さい紙袋には、美優へのプレゼントが入っているのだろう。
そのことに気づいた途端、朔哉は泣きそうになった。
「わっ、私を無視するんじゃない! そんな権利がお前にあるものか!」
女が叫び、次の瞬間、耳を
「……ならば君には、僕の友人を痛めつける権利があるとでも言うのか?」
朔哉が知るのとは全く異なる、恐ろしく冷たい声で悠人が言った。
彼は広げたビニール傘を、それがまるで強固な盾だと信じているかのように、自分と朔哉を守るようにして掲げていた。
その薄っぺらいビニールの膜には、ひしゃげた銃弾が一つ、くっついている。
さらに銃声がした。今度は続けて三発。
だが、銃弾は悠人と朔哉までは届かない。
何の変哲もない、そこらのコンビニで売られていそうなビニール傘が、銃弾をことごとく防いでいる。
女の顔が、悔しげに歪んだ。
「さて、どうする?」
傘を閉じた悠人が、冷淡な声と表情で、言う。
「僕は逃走をお勧めしたい。この戦いに意味はないから。……それとも、無理に右腕を再生し、ただでさえ少ない〈
女が
朔哉が倒れている場所との距離を考えれば、聞こえるはずはない。だけど、聞こえたような気がした。それくらい女は悔しそうな顔をしていて、追い詰められていた。
「……ちぃっ!」
女は舌打ち一つと、自分の右腕を残し、公園から逃げ去った。
去り際に、悠人のことを、憎悪に満ちた目で睨みつけて。
そうして、辺りは静かになった。
銃声の残響もない、平日の、夕暮れ間近の、平和な公園に戻った。
「朔哉君、起きられるかい?」
いつもの優しく温かい声で、悠人が言う。
彼の手を借り、上半身を起こす。体中に、軋むような痛みを感じた。
だが、そんなことはどうでもいい。
「悠人さん。美優が、美優が、連れて行かれたんです」
朔哉の頭の中には、美優のことしかなかった。
「アイツら、いきなり家に来て、車で、美優を。追ってください。俺のことなんていいから、早く。お願いです。早く、美優を、美優を……」
目の前で繰り広げられた常識外の光景、その意味を考えようとも思わず。
美優を、美優をと、うわごとのように、悠人に縋るように、繰り返す。
「落ち着いて。君は怪我をしている。治療が先だ」
「いいんです。俺のことなんて。それより美優を。早く美優を」
「……大丈夫だよ」
悠人は朔哉に肩を貸し、立ち上がらせる。
「大丈夫。朔哉君は何も心配しなくていい。大丈夫だから」
ダイジョウブダカラ。
――何を言っているんだ、悠人さんは。美優がいないのに、大丈夫じゃない。
――でも、悠人さんが言うなら、大丈夫なのかもしれない。
朔哉は酷く混乱していた。考えようと思っても、頭痛がするだけだった。
「まずは落ち着いて話せる場所へ行こう。何も心配はいらないよ」
そう言って、歩き出す。
走っている間に怪我をした両足が痛んだが、悠人が上手く体を支えてくれて、なんとか歩くことが出来た。
安心感。誰かに支えてもらうだけで、こんなに楽になれるのか。
このまま全て、悠人に預けてしまいたいと、朔哉は思った。
自分の体重も、全身の痛みも、美優がそばにいない寂しさも、全てを。
朔哉の心と体は、一人で立つこともできないくらい、傷ついていた。
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