2 きっと明日は

 綺麗な桃色の石があしらわれたペンダント。

 それが、朔哉さくやの選んだ美優みゆへのプレゼントだった。涙滴るいてき型の桃色の石はローズクォーツといって、十月の誕生石でもある。


 アクセサリーショップのあとに何件か店を回り、悠人ゆうとはシロクマのぬいぐるみを選んだ。去年、朔哉が大きなクマのぬいぐるみをプレゼントしてから、美優はクマのグッズ集めにっているので、新たな仲間として部屋に飾られるのだろう。


 紫陽花あじさいも、最後に立ち寄った地下にある怪しげな店で、何か買っていた。秘密だと言うが、怪しげではあっても骨董品などを扱う真っ当な店だったので、多分、変な置物か何かだろうと朔哉は予想した。


 それぞれのプレゼントを手に目黒駅に着いたときには、日がすっかり暮れていた。


「大分暗いな。二人とも、家まで送るよ」

 悠人の提案に、朔哉も紫陽花も素直に頷いた。


 目黒駅前からバスに乗り、五分ほどの場所にある停留所で降りる。そこから紫陽花の家は目と鼻の先だ。マンションの玄関まで、三人で歩いて行く。


「はいっ、ここが我が家です! ありがとね、二人とも。悠人さんは、明日の美優ちゃんの誕生日パーティー、来るんですよね?」

「もちろん、そのつもりだよ」

「そっか。じゃあ、また明日ですね。朔哉も!」

 ああまたな、と朔哉が言うよりも早く、紫陽花は踵を返して玄関に消えた。


 ここから朔哉の自宅までは、徒歩で数分の距離だ。


 家に着くまでの短い間、朔哉は悠人に幾つかの質問をした。主に高校受験についてのことだ。悠人は歩く速度を落とし、丁寧に答えてくれた。

 家が見えてきて、話が途切れたとき、悠人が言った。


「そう言えば、君と織畑さんは、付き合っていたりするのかな?」

「え……いや、そんなことはないです。ただの幼馴染みで……」

 質問の意図が分からず、朔哉は戸惑った。


「今さら、恋愛対象としては見れない?」

「はあ……意識したことは、ありません」

「近すぎるんだね。なんとなく、分かるよ。僕も……前に紹介した菜子なことは、幼馴染みなんだ」


 菜子。悠人さんの恋人。朔哉の悩みの種。


「いつも、僕の一番近くにいて、僕を支えてくれていた。でも、昔の僕はそれに全く気づいていなくて……感謝するどころか、深く傷つけてしまった。それなのに、そんな僕に愛想を尽かすこともなく、今も一緒にいてくれる」

「大切な人、なんですね」

「うん。つい最近、大切だと気づけた人だ。……だからね、もしかしたら、朔哉君もまだ気づいていないだけなんじゃないか、って思ってね」

「俺は……よく分かりません」


 朔哉は素直に答えた。そして懸命に考えながら、続ける。


「大切だとは、思います。紫陽花のこと。幼馴染みとして……ってか、友達として。でも、それと恋愛感情の差ってゆうか、違いが俺には……その」

「うん。いいんだ。答えなくてもいい。きっかけを与えてあげられればって思っただけなんだ。お節介だったね、ごめんよ」

 優しく微笑みながら、悠人は言った。


 悠人の笑顔を見て、またこの顔だ、と朔哉は思った。夜道の暗さとは関係なく、けれど、どこか陰を背負っているような笑顔。重い病をわずらった人が、家族に心配をかけまいと、痛みを堪えながら無理に浮かべるような、笑顔。


 悠人の優しさの源は、彼が抱える“痛み”だ。“痛み”をよく知る人ほど、他人に優しく出来るという。他人に同じ“痛み”を与えてしまわないように、と。


 話しているうちに、いつの間にか、二人は朔哉の家の前まで来ていた。


「さて、ここまで来たことだし、一応、ご両親に挨拶していってもいいかな?」

「そりゃもう、当然です。ここで悠人さんを帰したら、俺が怒られますよ」


 呼び鈴を鳴らしてから、玄関の扉を開き、連れだって中へ入る。

 すると――


「お兄ちゃん! おかえりなさい!」


 軽やかなリズムの足音を立て、廊下の奥から、一人の少女が駆けてきた。その途端、朔哉の心も、軽やかに跳ねた。


 篠突しのつき美優。朔哉の妹である。


 小学六年生にしては小柄な体格で、指の一本一本まで職人が丹精込めてデザインしたかのように、繊細で、無駄なく、綺麗に整っている。作り物のような美しさだが、活発で表情豊かなために「お人形さんみたい」と言われたことはない。


 顔の作りは、父と母の、互いに最も優れた部分を遺伝することで完成しているように、朔哉には見える。パッチリした二重まぶたは母から、耳や鼻の形の良さは父からの遺伝だろう。喜怒哀楽の表現豊かな口元は、母方の祖母の若い頃に似ているらしい。


 遺伝子の神秘を垣間見せるような美しさは、凡庸な容姿の自分とは似ても似つかないと朔哉は思うのだが、何故だか子供のころから「兄妹きょうだいそっくりね」とよく言われる。

 今、その朔哉に似ているらしい顔は、飛びっきりの笑顔を浮かべていた。


「お兄ちゃん、これ見て! お母さんが新しいお洋服買ってくれたの! ね、すっごい素敵でしょ? くるくるー」

 言いながら、朔哉の前で一回転。ご機嫌の様子だった。


 白のセーター、白のキュロットスカート、そして白いベレー帽と、愛用のクマのスリッパ以外、白で統一されたファッションだった。雪の妖精というのがいるとすればこんな感じだろうかと、朔哉は思った。


「おお、いいな。似合ってる。可愛いぞ、美優」

「だよね? 私も気に入っちゃった! あと、他にもお母さんがね……?」


 コテンと可憐な仕草で首を傾げる美優。どうやら、ようやく朔哉の後ろにもう一人いることに気づいたらしい。


「こんばんは、美優ちゃん」

「ゆっ、悠人さん? あうえあ……こ、ここ、こんばんは……」

 耳まで赤くして、美優は俯いてしまった。

「可愛らしいお洋服だね。とてもよく似合ってるよ」

「あ、は、はい。あり、ありがとうごじゃ……ございます。えと、その……ゆ、悠人さんの服も、す、素敵だと思いますっ」

 しどろもどろに、何度も噛みながら、美優が言う。


 美優がこんな風になってしまうのは、非常に珍しいことだった。いつもはもっとハキハキと喋るし、つっかえることも少なく、ちょっとした身振り手振りがつく。


「あ、あの……悠人さんも、ご一緒だったんですね。その、お兄ちゃんと……」

「うん、参考書を買いに行ったんだ。この近くの書店にはなくてさ」

「そ、そーなんですか」


 美優の視線は、悠人の顔と、自分の足元と、玄関に置かれた大きな鏡との間を、忙しく行ったり来たりしている。鏡をチラチラ見ているのは、今の自分の姿を確認するためだ。服はおかしくないか、髪が跳ねたりしていないか。


 美優の髪は、茶色がかかった黒髪で、羽毛のようにフワフワしている。宙に浮いて見えるくらいだ。クセはないが、一本一本が細く繊細なため、寝癖が大変なことになってしまう。毎朝、それを櫛で整えてやるのが、朔哉の大事な仕事の一つだった。


 美優は、落ち着かない様子で、その髪を撫でる。朔哉が「切らないのか」と訊いたら、「お兄ちゃんに直してもらうのが好きだから切らない」と答えた長く綺麗な髪を、落ち着け落ち着けと、自分に言い聞かせるように、撫でる。


「……美優。お前、大丈夫か?」

「ふえっ? な、なにが? 私は大丈夫だよ?」

 円らな瞳を泳がせながら、美優が言う。


 ――大丈夫じゃないだろ。知ってるよ、俺は。お前が大丈夫じゃなくなっちゃう理由を。ほっぺたが赤い理由を。そんなに緊張している理由を。知っているんだよ。


 朔哉は不意に胸が苦しくなった。

 でも、それを顔に出そうとはしなかった。


 朔哉は悠人のことを信用しているし、信頼もしている。今では勉強のことだけでなく、学校の人間関係や、私生活のことでも相談することがある。帰ってくるアドバイスはいつも的確で、そのたび、悠人への信用が大きくなる。


 しかし、一つだけ、相談したくても出来ないことがあった。

 それにも、悠人は的確なアドバイスをくれるだろうか?


「美優は、悠人さんのことが好きなんです」


 そう言ったら、なんと答えてくれるだろうか?


「でも、美優は悠人さんに恋人がいることを知らないんです。俺はどうすればいいですか? そのことを、妹にどう伝えればいいですか」


 ――どうか教えてください、悠人さん。


 朔哉は口にすることは出来ない問いを、胸に抱え続ける。



     ◆   ◆   ◆



 悠人が朔哉の家庭教師として選ばれた最大の理由は、朔哉の両親が彼のことをいたく気に入ったという、その一点だった。


 だから、美優のあとに玄関まで出てきた両親が、遠慮する悠人を強引に引き留め、篠突家の夕食の席に着かせたのは、ごく自然の流れと言えた。こういう展開になったのは、今日が初めてというわけでもない。


 珍しく母親が腕を振るったという今晩の夕食は、えらく豪華だった。


 両親は、明日から揃って三日ほど出張することになっている。今夜は美優の誕生日の前祝いというつもりらしい。もちろん、明日は明日でパーティーを開く予定なので、「誕生日おめでとう」などとフライングな発言をすることはない。


 それでも二人がウズウズしているというか、許されるのならば仕事など放棄して明日のパーティーに参加したいと考えていることが、朔哉には分かった。


 朔哉と美優に寂しい思いをさせることを、両親が「すまない」などと一言でも謝ったことは、今までない。代わりに、酔っ払って帰ってきた母親が、もっと一緒にいたいよと、美優を抱き締めながら泣いたことが、一度だけあった。


 そして、子供たちが両親からの愛情を自覚するには、その一度で十分だった。



     ◆   ◆   ◆



 五人での夕食の時間は、とても穏やかに流れた。

 さっきまでは急に現れた悠人を前に緊張していた美優も、いつものペースを取り戻してよく喋った。


 夕食を済ませ、リビングの時計が八時を回った頃、悠人が立ち上がった。

「そろそろ、僕はおいとましようと思います。お料理、とても美味しかったです。ごちそうさまでした」


 当然のように、両親は悠人を引き留めようとする。終いには、泊まっていけ、などと言い出し、美優が目をまん丸くして慌て始めたので、朔哉は悠人の援護に回った。


 どうにか両親を諦めさせ、朔哉は見送りに玄関先まで出た。


「ほんと、すみません。うちの両親、しつこくって」

「そうかな。僕は嬉しいよ。気に入ってもらえているみたいでさ」

 悠人は微笑みを浮かべながら言う。

 どこか寂しさが漂っているように見えたのは、朔哉の気のせいではないだろう。


「明日のパーティーは、六時からだったよね」

「はい、学校終わって、準備とか考えると、それくらいになります」

「紫陽花さんも来るなら四人か……そうだ、それなら、僕の家からみんなで遊べるようなゲームを持って行ってもいくよ」

「いいんですか? 助かります。うち、二人で遊べるゲームしかないんで……」

 軽く明日の段取りを確認し、

「それじゃ、また明日」

「はい。今日はありがとうございました」

 手を振って見送る。悠人の背が見えなくなってから、朔哉は家の中に戻った。


 そのあとは、家族とリビングでテレビを見ながら過ごした。

 十時を回り、美優のあとに入浴を済ませてから、両親に「おやすみ」と言って、二階の自分の部屋へ行く。隣は美優の部屋だ。


 明日の学校の準備をしてから、朔哉は机に向かってノートを開いた。金曜日に出た宿題は土曜日のうちに終わらせているが、悠人に「一日最低一時間は机に向かう時間を作ること」と言われていて、朔哉はそれを律儀に守っている。


 しかし、今日は勉強に集中できなかった。


「はぁ……やっぱ無理か。暗記系は諦めよう」


 放り込んだ単語が、どこにも引っかからずに頭を通り抜けていくのを感じ、別のノートと参考書を開いて、単純な計算問題を解くことにした。


 ノートを数字と記号で埋め尽くしながら、朔哉は考えていた。


 勉強に集中できない理由は分かっている。明日のことを考えてしまうからだ。明日のパーティーが、楽しみで仕方ないからだ。


 悠人に恋人がいる、という悩みの種は、それに比べればずっと小さい。現状、どうすることも出来ない。美優に自分で気づいてもらう以外に、解決法もない。無論、可能な限り痛みを和らげてやれる手段は、考える必要がある。


 夕食のとき、美優が悠人に話しかけるたび、言葉の端々はしばしに悠人への好意が滲んでいるように、朔哉には思えた。そして、その都度、胸に痛みを感じた。


 美優の初恋が叶わないことを、朔哉は知っている。いずれ美優が辛い想いをすることを、知っている。それなのに、何も出来ない。美優を守ってやれない。その罪悪感、無力感が、朔哉の心に突き刺さるのだろう。


 しかし、本当にそうなのだろうか、という疑問もある。


 朔哉の理性は、きっと妹の初恋を歓迎している。それは、妹の成長を意味するからだ。たとえ、それが叶わなず傷つくことになっても、痛みを知ることは、妹にとって必ずしも悪いことではない――理性では、そう考えている。


 でも、本心では違うのではないか?

 本当は、妹を独占したいと思っているのではないか?

 成長などさせたくない、いつまでも自分のそばに置いておきたいと、独善的な欲望を抱いているのではないか?


 だから、悠人に妹を盗られるような気がして、妹を傷つけていいのも兄である自分だけだと思い込んで、嫉妬の炎を燃やし、それが心を焼くのだ。


 もし、そうだとしたら、俺は、なんて情けない兄貴なんだ――


「……あ」


 計算問題を間違えたことに気づき、朔哉は考えごとを中断した。

 もしやと思い、今までに解いた問題を確認すると、間違いばかりが見つかって、驚いた。


「やっぱ今日は駄目だぁ……」

 溜息をつき、椅子の背もたれをきしませ、天井を見上げる。


 この調子じゃあ、漢字の書き取りくらいしか出来ないぞ……と、そう思ったとき、

「お兄ちゃん? 起きてる?」

 部屋の扉を開き、パジャマ姿の美優が、顔を覗かせた。


「……あ、お勉強中、だったかな」

「いいよ、別に。どうした?」


 ノートと参考書を閉じながら朔哉が言うと、美優はトトトッと小さな動きで部屋に入ってきて、朔哉のベッドへ、ぽすんと軽い音を立てて腰を下ろした。


 美優は大きなクマのぬいぐるみを抱えていた。手足がダランと伸びた独特なデザインのクマで、去年、朔哉が誕生日プレゼントとして送った物だ。今では美優の抱き枕として活躍している。


 そのクマで、顔を半分隠しながら、美優はくすぐったそうに笑う。


「どうしたよ? なんか楽しそうだな?」

「えへへ、えっとね、あのね……んふふ」

「なんだよ、笑ってるだけじゃ分からないぞー」

 言いながら、朔哉も釣られて笑っていた。


 椅子のキャスターを転がし、美優の正面に移動する。

 すると、美優は朔哉を上目遣いに見て、モジモジしながら、言った。


「あのね……お兄ちゃんに、お願いがあるんだぁ」


「お願い?」


 オウム返しに訊きながら、朔哉は「ははーん」と思った。多分、明日のパーティーのことを訊きたいのだろう。プレゼントが何か、探りに来たのかもしれない。


 美優のために買ったペンダントは、机の一番上の引き出しにしまってある。簡単な作りだが鍵がついていて、自室に鍵のない朔哉にとって唯一と言っていい、完全にプライベートな空間だ。


「先に言っとくが、プレゼントが何かは、教えられないからなー」

 意地悪そうに言うと、美優はふにっと首を傾げた。

「あれ、違うのか? あー、それじゃ、ケーキか? ちゃんと予約してあるし、他の料理も、食材は準備してあるぞ?」

「むー、違うよぅ。なんで食べ物のことばっかりなの? 私、そんなに食いしん坊な子じゃないもん」


 口を尖らせた膨れっ面も愛らしい。

 朔哉は、柔らかそうな美優の頬を突ついてみたくなった。


「じゃあ、なんだ? お願いって?」


 朔哉が今度こそ真剣に訊くと、美優は再びモジモジモードに戻ってしまった。

 クマの体に赤い顔を隠し、自分の手の代わりにクマの両手を擦り合わせているから、まるで、美優ではなくクマがモジモジしているように見えた。


「あのね、今夜……こっちで寝ても、いい?」

「え?」

「お兄ちゃんと、一緒に寝たいなって……駄目?」


 驚きで二の句が継げなかったのを、朔哉が困っていると思ったのか、クマの陰から心配そうな顔を覗かせて、美優が言った。


 朔哉はそれに、慌てて答える。真っ直ぐ、素直に。


「いや……いや、駄目なんかじゃない。いいよ。一緒に寝るか」


 一瞬、顔をぱあっと輝かせたと思うと、美優はまたすぐクマの後ろに隠れてしまった。そして、そのまま、ぎゅっとクマを抱き締め、よっぽど嬉しいのか、足をバタバタさせる。全身で、喜びを表現していた。


 兄妹二人で一緒に寝ることは、別に珍しいことではない。両親がいない夜は必ず、そうでない夜も、二人で手を繋いで寝ることは多かった。

 だが、美優が成長するに従い、その機会は減っていった。特に最近、悠人が家に来るようになってからは、全くなかった。


「お兄ちゃんのベッドに、ぼすーん!」


 一頻り喜びを表した美優は、クマを抱いたまま、飛び込むように朔哉のベッドで横になった。枕に顔を埋めるようにして、足をパタパタさせる。


「お兄ちゃんは、まだお勉強する?」


 枕元のスタンドを点けて、美優が言う。朔哉をジッと見つめながら。

 お勉強しててもいいよ。私、いい子だもん。でも、本当は、早くお兄ちゃんと一緒に寝たいなぁ――

 そんな甘えと期待を、兄にだけ伝わるように、瞳に浮かべていた。


「……俺も、もう寝る。今日は出掛けてて疲れたしなぁ」


 部屋の明かりを消し、朔哉もベッドに入った。そして、今朝押し入れから出したばかりの毛布を、二人で被る。クマを挟んだ川の字だが、一人用のベッドでは、三本の線がほとんど密着した川になってしまう。


「すごい久しぶりだよね。一緒に寝るの」

「そうだな。狭くないか?」

「平気だよ。くっついてるほうが、あったかくて、私は好き」


 不思議と、二人はヒソヒソ声で会話していた。誰かに聞かれる心配もないのに、二人だけの秘密を共有する恋人同士のように。


「お兄ちゃんの体、なんだかいい匂いがするね」

「シャンプーの匂いだろ。美優だって同じの使ってるじゃないか」

「そうだけど、お兄ちゃんのほうがいい匂いな気がするの」


 クマを挟んで向かい合う美優の髪を、撫でる。サラサラとした手触り。風呂上がりに、ちゃんと乾燥させたようだ。


「私、やっぱりドライヤー苦手。あの、ぼふぉぉーんって音が、なんかヤなの」

「我慢しろよ。髪、ゴワゴワになっちゃうだろ」

「お兄ちゃんがタオルで拭いてくれればいいのに。昔みたいに」


 小さい頃は、美優の髪を拭いてやるのは朔哉の仕事だった。風呂にも一緒に入っていたから、頭を洗ってやるのだって朔哉の仕事だったのだ。


「こんなに髪が多くなっちゃ、時間が掛かりすぎるよ。その間に風邪引くぞ?」

「そしたら、お兄ちゃんに看病してもらうもーん」

 言って、美優はクスクスと笑った。朔哉も一緒になって笑う。


 静かな夜だった。部屋の中には、二人の話し声以外の音が、一切しない。

 兄と妹が、二人きり。夜が続く限り、いつまでも、二人だけの世界。


 やがて妹が、兄の手を握った。兄も、それに応え、小さい手を包むように握った。クマのお腹の上で、二人の手が繋がれる。


「お兄ちゃんの手、あったかいね……」

「美優の手だって、あったかいよ」


 朔哉は、まぶたを閉じた美優のことを、ずっと見つめていた。

 妹の微かな寝息に眠りへと導かれるまで、ずっと。

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