1 こともなし

 日曜日の目黒駅前は混雑していた。

 昼前という時間帯もあって、これから都心へ繰り出そうという人たちが流れるように駅舎へと入っていく。


「少し早かったかな……」


 篠突朔哉しのつき さくやは人波を眺めながら、腕時計に視線を落とした。

 今日は十月にしては肌寒い。日は出ているものの、時折吹く風は冷たい空気をはらんでいた。パーカーを羽織はおってきてよかったと、朔哉は思った。


 しばらくして、人の流れの中に見知った顔を見つけた。彼女のほうも朔哉に気づいたようで、右手を上げながら近づいてきた。


「おー、早いねー」


 朔哉の待ち人は織畑紫陽花おりはた あじさい

 小学生の頃から付き合いのある、気心の知れた幼馴染みだ。


「なんか今日、人多くない? バスも混んでてさー、酔うかと思った」


 リボン付きカチューシャで押さえられた短めの黒髪、黒目がちの瞳は丸っこく、本人のサバけた性格を象徴するように、一つ一つのパーツの輪郭りんかくがくっきりしている。うんざりした表情でも、可愛さが滲み出ていた。


「昼時だし、こんなもんだろ。それよりお前――」

 朔哉は改めて紫陽花のちを眺めた。

「その格好、寒くないのか?」


 フリルに飾られたブラウスに、チェック柄のミニスカート、肩から小さなポシェットを下げている。普段着に比べてかなりめかしこんでいる印象を朔哉は受けたが、防寒性能は極めて低そうに見える。


「寒いよ。でも我慢してんの。これから戦場に出るって時に、暑いからって兵士が防弾チョッキを脱いだりしないでしょ? それと同じ」

「なんだそれ。お前は何と戦うつもりなんだよ」

「そりゃあ、あたしと同じ女子どもとよ。……うー、でもやっぱ寒い! 朔哉、そのパーカー貸して」

「やだよ。自業自得だろ」

「ええー、男だったら言われなくても貸すもんでしょー」


 頬を膨らませ、自分の肩を抱きながら言う紫陽花に、多分こいつは本気で寒がっているわけではない、と経験から判断し、朔哉は腕時計を見た。


「あ、ねえ、今何時? 朔哉の家庭教師の人も一緒に行くんでしょ? まだなのかな。その人、名前なんだっけ。し、し……しぐれ煮さんだっけ?」

時雨しぐれだ。時雨悠人ゆうとさん」

 思いついたことを端から口にするような紫陽花の喋り方にも、朔哉は慣れている。

「今ちょうど五分前だし、そろそろ来るよ」


 中学三年生になり、数ヵ月後に高校受験を控える朔哉は、夏休みの少し前から家庭教師に勉強を教わっている。

 仕事で忙しい両親に代わって妹の世話をしている朔哉は塾に通えないため、両親が知人の伝手で家庭教師を見つけてきた。それが、時雨悠人という、都内の大学に通う青年だった。


「きっちしりしてる人だから、もし遅れるとしても、ちゃんと連絡してくると思う」

「ふーん。信用してんのね」

「まあな」


 恥もてらいもなく朔哉は答え、駅前広場を見渡した。

 すると、ちょうどバスから降りてくる人の波の中に悠人の姿を見つけ、朔哉は呼びかけながら手を振った。


「悠人さん! こっちです!」


 気づいた悠人は、にこりと微笑み、同じように手を振り返すと、急ぎ足で朔哉たちのほうへ向かってきた。


「やあ。待たせちゃったかな?」


 ほがらかな笑顔を浮かべる青年は、朔哉より頭半分くらい背が高かった。スマートな体格で、線が細い。二十歳という年齢にしては顔が幼く見える。

 どこか女性的でもあるが、彼と妹と三人でプールへ遊びに行ったことのある朔哉は、気取らないファッションの下に、サッカー選手のように無駄なく鍛えられた肉体が隠されていることを知っていた。


「いえ。まだ時間前ですよ。俺らが早く来すぎたんです。それで、こっちの――」

「はじめましてー。あたし、織畑紫陽花です。朔哉の幼馴染みしてまーす」

 紫陽花は自分から前に出て挨拶した。初対面だというのに気後きおくれしていない。

「こちらこそ、はじめまして。時雨悠人です」

 ふざけたような紫陽花の挨拶にも、悠人はちゃんと頭を下げて返した。


 悠人さんはいつだって丁寧だ、と朔哉は思う。両親にはもちろん、まだ小学生の妹にだって、丁寧だ。

 その丁寧さが、なんとなく距離を置かれているようにも見えて、少し寂しく感じることもあるのだけれど。


「えっとぉ、あたしも悠人さんって呼んでいいですかぁ?」

 わざとらしく語尾を伸ばして言う紫陽花に、

「もちろん。好きに呼んでくれていいよ」

 少年のような笑顔とともに返す悠人。朔哉が初めてこの笑顔を見せられたときは、大学生っていうのは嘘なんじゃないか、と思った。五つも年上の男が浮かべる笑顔には見えない。


 それからしばらく、紫陽花と悠人が会話し、朔哉は横で聞いているだけ、という状態が続いた。初対面の二人が打ち解けられるか心配していた朔哉にとっては、願ってもない展開のはずだが、どこか釈然としなかった。

 二人の会話は、紫陽花が一方的に自分のことを喋り、合間に悠人が相槌を打ったり、露骨にアピールされたファッションを褒める、というものだったが――


「あ、ところで、悠人さんに質問があるんですけどぉ」

 普段を知る朔哉からすると、鳥肌が立ちそうなくらい猫を被った言葉遣いで、紫陽花が言う。

「なんで傘なんて持ってるんですぅ? 天気予報、雨降るとか言ってました?」

「ん? ああ、これのことだね」

 紫陽花が指差したビニール傘を、悠人は軽く持ち上げた。


 秋の天高い空は、果てまで青一色だ。完全無欠の晴れ模様。今朝の天気予報のお姉さんも、ベンチ入りの傘に代打で登場する機会はないと断言していた。

 朔哉は、以前に自分がしたのと同じ質問に、悠人がどう答えるのかを訊いていた。


「この傘はね、お守りなんだ」

「お守り?」

「うん。どうしてだか、傘を持っていない日に限って雨に降られることが昔から多くてね。いっそ晴れの日でも持ち歩こうって決めたんだ。雨が降らないならそれに越したことはないからね」

「じゃあ、いつも持ち歩いてるんですか? 三百六十五日ずっと?」

「そう。ちょっと荷物にはなるけどね」


 なるほどー、と言う紫陽花は、朔哉の目にはあまり納得していないように見えた。多分、大したことのない理由だったから、拍子抜けしているんだろう。前に全く同じ答えを返された朔哉と、同じリアクションだった。

 そこらのコンビニで五百円くらいで売られていそうな、なんの変哲もないビニール傘だ。大切な人の形見、なんてエピソードがあるわけもない。


 少し会話が途切れたところで、

「そろそろ動こうか。あまり遅いと混みそうだ」

 悠人が時計を見ながら言った。

「確か、行き先は渋谷になったんだよね?」

「そうです。すみません、急に変わっちゃって……」

「別に構わないよ。それじゃ、行こうか」

「はい」

「はーい」

 朔哉と紫陽花が返事をし、三人は目黒駅に向かって歩き出した。


 今日、元々の約束では三人で品川に行く予定だった。

 しかし、直前に参加が決まった紫陽花の意見で、渋谷に変更になったのである。

 目黒駅から山手線に乗り込めば、内回りなら品川、外回りなら渋谷、どちらの駅にも十分とかからずに到着する。


「つーかさ、むしろなんで品川なの、って話よ」

 ジトっとした目つきで朔哉を見ながら、紫陽花が言う。

「誕生日プレゼント買うんでしょ? 渋谷か原宿まで出たほうが便利じゃん。店も多いしさ」

「いや、だって俺、渋谷とかよく知らないし……」

「だっさー」

「うっせ!」

 露骨に煽ってくる紫陽花に、朔哉が噛みつく。喧嘩とは違う、幼馴染みらしい、いつものじゃれ合いだった。


「そう言えば、朔哉君。何を贈るか、もう決めたのかい?」

 二人を取りなしながら、悠人が言った。

「いえ、実を言うと、まだ」

「迷ってる?」

「はい……」

「いいんじゃないかな。朔哉君が迷っているのは、それだけ美優ちゃんのことを大切に想っている証拠だと思うよ。精一杯、迷えばいい。時間が許す限り、ね」

「は、はあ……」


 真っ直ぐな悠人の言葉に、朔哉は気恥ずかしくなり、頬を掻いた。同時に、そんな反応をする自分に、今さらか、と少し呆れもしたが。


 明日は、十月二十日。

 朔哉の妹である篠突美優しのつき みゆの、十二回目の誕生日だ。



     ◆   ◆   ◆



 朔哉が生まれた三年後に、妹の美優は生まれた。

 その瞬間から、朔哉は“篠突美優のお兄ちゃん”になった。

 両親が、朔哉を名前ではなく「お兄ちゃん」と呼ぶようになった。

 それをつらいとかいやだとか思ったことは、今までに一度もない。

 当たり前だったからだ。仕事で忙しい両親に代わり、朔哉が兄として美優の世話をしてやることは、美優が生まれた瞬間に当たり前のことになった。


 だって、他に誰が、それをしてやれる? 俺がやらなかったら、誰が妹のご飯を作ってやり、毎朝寝癖を直してやり、両親がいなくて寂しがる妹を宥めて、泣き疲れて眠るまで手を握っていてやれる?


 小学生の頃、保育所に妹を迎えに行かなくてはならないからと、遊びの誘いを断る朔哉を、同級生たちは「シスコン」と馬鹿にした。朔哉はそいつらを無視した。そのうち、朔哉はクラスで浮いた存在になってしまった。


 それでも、妹の美優はそばにいた。

 小さな手で朔哉の手を握り、舌っ足らずな口調で「おにぃちゃん」と呼んだ。


 朔哉は、美優の「お兄ちゃん」であることに、誇りを感じている。小学生だった朔哉は、誇りなんて言葉の意味は知らなかったけれど、今なら分かる。

 愛らしい妹に甘えられることだけじゃない。保育所の保育士に「いつも偉いね」と褒められたり、顔見知りのおばあさんに「あらまあ、いいお兄ちゃんねぇ」とアメ玉をもらったりするたびに、朔哉の胸は喜びで一杯になった。

 その喜びを、クラスの連中は知らないのだと、同級生を哀れんだほどだ。


 しかし、中学に上がってからは、周囲の態度も次第に変化してきた。

 相変わらず同級生からは「シスコン」と言われるが、そう言ってくるヤツらも、美優に直接会うと変わる。朔哉のことを羨むような目で見るようになる。中には「あの妹じゃあシスコンにもなるよな」と馴れ馴れしく肩を叩いてきたヤツもいた。


 現在小学六年生の美優は、可愛いのだ。

 容姿だけじゃない、声も、態度も、表情も、誰をも魅了するほどに。


 朔哉は、もちろん妹を見せ物みたいに扱ったりはしない。美優自身が、自分から多くの人と関わっていこうという社交性を持っているのだ。小学校では委員の活動に積極的に参加し、月に一度の町内会の清掃にも欠かさず参加する。


 どんな場であっても、美優は変わらず、よく笑い、よく喋り、ヒマワリの花のような明るさと笑顔を振りまく。いつだって、みんなの中心にいる。

 だから、近所のおばちゃんは、朔哉のことを「美優ちゃんのお兄ちゃん」と呼ぶ。二人の両親や、篠突家そのものよりも、美優の存在感が大きいから。


 朔哉にとっての自慢の妹であり、また、自慢の兄でありたいと思わせる妹。

 それが、篠突美優である。



     ◆   ◆   ◆



「……で、愛しの妹ちゃんの誕生日プレゼントを買うために、朔哉ちゃんは欲しかったゲームソフトを諦めてしまいましたとさ。……って感じ?」

「別に、そんなに欲しかったソフトじゃない。予約だってしてなかったし。あと、ちゃん付けで呼ぶのはやめろ」


 三人が到着した渋谷は、目黒駅前以上の人で溢れていた。

 いてすぐ、紫陽花オススメという路地の奥まったところにひっそりと佇む店(意外なことにラーメン屋だった。さらに意外なことに、かなり美味しかった)で昼食を済ませ、今は紫陽花の先導で道玄坂を上っているところである。


「織畑さん、最初はどこの店に行くのかな?」

 悠人は紫陽花のことを律儀に名字で呼んでいた。

「このちょっと先にあるアクセの店ですよ。可愛くて安いって評判なんです」

「アクセ? 美優はまだ十二歳だぞ? アクセサリーなんて早すぎるだろ」

 朔哉が言うと、前を行く紫陽花が振り返り、

「ばっっっかじゃないの?」

 蔑むような目で言った。


「十二歳を舐めじゃないわよ。キャミ着た小学生が歩いてる時代に、アクセはまだ早いとか、アンタ古代人か何か? あたしだって、小六のころはランドセルに化粧ポーチ忍ばせて学校行ってたわよ」

「それはお前が変なんだよ!」

「フツーですぅ。全然フツーですぅ。美優ちゃんだって同じに決まってますぅ」


 美優の衣服は母親が買いそろえている。忙しさもあって母娘で買いに行くということはないが、美優は母親が買ってくる服に不満を表したことはない。化粧品に強い興味を示したことも、朔哉の知る限りでは、ない。

 だが、美優と同性の紫陽花に断言されると、不安になってくる朔哉だった。


「まあまあ、朔哉君。キャミソールや化粧品はともかく、僕もアクセサリーはいいと思うよ。十二歳って言うと、ちょっと大人ぶりたい年頃なんじゃないかな」

「はあ……悠人さんが、そう言うなら」


 悠人に取りなされる形で、渋々アクセサリーをプレゼント候補に入れることを納得した朔哉だったが、実際、店に着いてみると、自分の認識の甘さを思い知らされた。

 こぢんまりとした佇まいのアクセサリーショップには、明らかに小学生と思える女の子が少なくない数いたのである。中には、母親らしき女性と一緒に、真剣な眼差しでピアスを選んでいる子までいた。

 カルチャーショックで固まる朔哉を、紫陽花は鼻で笑った。


「言っておくけど、アクセは一つだけだかんね。朔哉か悠人さん、どっちかのプレゼントだけにしなよ。あたしは何あげるかもう決めてるし、二人ともアクセだったら、美優ちゃんの性格からして、絶対遠慮しちゃうからさ」

「それもそうだね。じゃあ、朔哉君からのプレゼントとして贈ろうか」

「え? 俺ですか? でも、兄貴からアクセサリーを贈るってのは……」

「出会って半年も経ってない僕から贈るのも変じゃないかな。それこそ、美優ちゃんが遠慮してしまいそうな気もするし」


 ――しませんよ。絶対しません。悠人さんからの贈り物なら。

 朔哉は言いかけた言葉を飲み込んだ。理由を訊かれたら答えられない。美優が悠人からの贈り物を拒まない理由は、まだ答えられない。


 三人は二手に分かれて行動することになった。朔哉は紫陽花の意見を聞きつつプレゼント選び、その間、悠人は店の外で待つという。店内は決して広くないから、他の客の迷惑になるのを嫌ったのだろう。


「ねえねえ朔哉。悠人さんの傘なんだけどさ」

 指輪のコーナーで二種類の指輪を真剣に見比べていると、紫陽花が言った。


「あれって、女よけかもね」

「はぁ? 女よけ?」

「だからぁ、逆ナン防止装置ってこと。だって怪しいじゃん、晴れてるのに傘持ってるなんてさ。悠人さんに目ぇつけた女がいても、ちょっと声かけるの躊躇うでしょ」

「なんでそんな面倒くさいことするんだよ?」

 紫陽花は、にへへ、と嫌らしい笑みを浮かべて言う。

「女に近寄られと困る。つまり、悠人さんはの人ってことよ」

「アッチ?」

「ちょ、分かんないの? あたしの友達にそーゆーの好きな子がいるんだって。ビーエルとかいってさ、男同士で、その、合体的なことをさ――」

「分かった。もういい。やめろ」


 朔哉は指輪を元に戻し、紫陽花の方を向いて、真剣な顔で言った。

「あのな。悠人さんはそーゆー人じゃないから。お前の勘ぐりすぎだよ」

「なんでよぅ。あの傘は絶対そういう意味だって。もしくはプレイ的な――」

「違う。悠人さんにはな、ちゃんと女の恋人がいるんだよ」

 紫陽花は絶句した。そんなに驚くようなことかよ、と朔哉は思った。


「前に紹介されたんだ。藤崎菜子ふじさき なこさんっていって、都内の医大に通ってるんだってさ。もしも仮に、あの傘にお前が言うような意味があるんだとしたら、それは恋人に余計な心配をかけないようにっていう気遣いだろうよ」

「ええぇー。つっまんないのぉー」

 口を尖らせて言う紫陽花には、

「……つまんなくねぇよ」

 という朔哉の呟きは聞こえなかったようだ。


 つまらなくはない。全く、つまらなくなどないのだ。朔哉にとっては。

 悠人に恋人がいるという事実が、今、朔哉にとって最も重大な悩みの種だった。

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