5話 無意味さの過ち 

 浮遊感とともに、現実へ戻ってきた看護婦にまず襲ってきたのは、足首の痛烈な痛みである。気が付くと自分はエントランスホールの奥にいて、サーヴィスカウンターに軽いへこみを作っていた。その代償として、足首の捻挫もある。「いたたたたたた」看護婦は膝をつく。足首を抑えながら周囲を見回すと、まず目についたのは、浮かぶ警備員服。

 看護婦はひっと息をのんだ。警備員服は入り口に背を向け、こちらを向いて佇んでいて、その手の刺身包丁からは血液らしき…ああ、液体が滴っている。距離は何メートルもない。一歩…あれにその概念があるかは不明だが、一歩、一秒かからず届く距離だ。足がこうも痛いのでは逃げ切ることなど至難の業。倒すなどもってのほかだろう。頭が一瞬でそう考え、看護婦は抵抗に身構えた。

 警備員服は動かなかった。目のない目でまた、どこかを見つめているようで、そちらを向くとしかし、何も見えない。

 あまりに警備員服が動かないため、看護婦は落ち着きを取り戻しつつある自分を見つけた。探るように立ち上がり、自分のすぐそばで立ち尽くしていた古子に近寄る。

「ちょっと」看護婦は目の前で手を振った。「なにやってるの」反応はない。

 古子はどこを見ているのだろうか。看護婦は警備員服と見比べたが、共通点は見つからない。古子がぼろぼろと震えだし表情を変え、看護婦はぎょっとした。骨をやり、入院しても、レインコートに襲われているときも、合流を果たした時も、彼女には奇妙な余裕があったように見えたからだ。何も言えないまま、古子を見る。足が震え、崩れ落ち、古子はその場に座り込んだ。音がした。嗚咽の音だった。

「泣いてるの?」と看護婦は当たり前のことを訊いた。

 答えはなかった。

「いったい…さっきのは…」看護婦は入口へ近づいた。外は先ほどと同じように薄暗い。このまま出て、10秒も走ればすぐ敷地の外へ出られそうなのだ。

 しかし出られない。どういうわけか、こうなってくるとわかることもある。これは…看護婦の知る人智を超えている。

 ふと看護婦は獣のことを思い出した。猪とサソリをあわせたようなあの怪物…自分たちを追ってきていたあれはどこへ行った?距離を考えれば、とっくに追いついても不思議ではない。

 看護婦は古子を引っ張って立たせようとし、しかし古子は立とうとせず、仕方なく看護婦は階段や廊下の奥にあの獣がいないか確認しに走る。

 いない。影も形もない。古子に視線を戻す先、警備員服が刺身包丁を構えているのを発見した。

 再び看護婦の息がつまる。動けない。恐怖で足がすくみ、目線が包丁の切っ先に吸い込まれる。

 だがやはり、警備員服は看護婦のことなど気にしてはいなかった。

 自分が何もしていないのに何故か動けない人間、と機械的な感想を警備員服は抱き、その視線は、背後、誘導灯、緑色のピクトグラフィ。

 非常口に向かっていたはずの足がこちらを向き、小さく手を振る。

 次の瞬間、にゅるりと、音を立てて、人影が地面に降り立つ。

 小野崎加恋だ。

 病衣と髪をはためかせ、包丁を構えた姿勢の警備員服に笑みを見せる。

「あいつらじゃやっぱり無理かぁ…数がいてもこればっかりはどうしようもないみたいだこれ以上暴れられるのも困りもんなんだよね。もうさ、反則気味だけど、ここで消えてもらうよ」

「な、な、」看護婦は吃音を出した。

「あ、吉井さん、お久しぶり。夜尿は治りましたか」

「それ、ずっと昔の話よ…加恋ちゃんは知らないはず。貴女一体…」

「うん。だから、お久しぶり」

 小野崎加恋は手を振った。

 そして警備員服に向き直った。

「まったくお前には苦労させられるよ。謹製の式神を簡単に殺しちゃうんだから」

「………」

「まあそれもこれで終わり。悪いけどお前は前座ですらないんだ。早々に退場してもらおう」

 その言葉と同時に、警備員服が小野崎加恋に襲い掛かる。

 刺身包丁、その切っ先を、あの女に叩き込む。腕――があるかどうか、わからないが、振り上げられ、振り下ろされる。その力はさっき古子を相手にしていた時とは、比べ物にならないものである。それを小野崎加恋は、身じろぎもせず、目で受け止めた。

 看護婦は目を疑った。小野崎加恋の目には確かに刺身包丁の軌道にあった。事実、先は小野崎加恋の目に触れている…しかしその手ごたえは、転がしたガラス玉を切り付けるように、手ごたえがない。

 小野崎加恋が一言、呪いを唱えると、警備員服は大きな火柱に包まれ、煤を残して消えた。

「貴女…」看護婦が云う。

「まだだよ。吉井さんはそこにいる子の心配でもしててくれ」小野崎加恋が遮る。

 看護婦は古子を見た。未だに頭を抱えていた。

「あっ」

 小野崎加恋は動き出した看護婦をしり目に、腕を左右に広げ、攻撃の体制をとった。

 敵はすぐに現れた。

 職員用のロッカーにかけられていた服にでも取り憑いたのだろう。13着の白衣がその手に思い思いの刃物を持って襲い掛かってくる。

 小野崎加恋は腕を振り上げた。

 13着の白衣たちの半分ほど天井にたたきつけられた。もう半分は床に縫い付けられた。

「あっはははははっ!」

 小野崎加恋は高笑いをして腕の力を強め、白衣ををつぶしにかかる。中にいるらしい…霊的な何かが軋音を立てる。みしみしと、天井か床か、小野崎加恋の霊力の間に挟まれ、ついにはトマトが潰れるような音を出して白衣の中身は消滅した。

「ふっふっ」

 小野崎加恋は凶悪な笑みを浮かべながら額の汗をぬぐった。

「終わったの…?」看護婦が云う。その手を古子の肩に添えて。

「まださ」小野崎加恋が云った。「まだ全然終わってない。やっと会場についたところだ。さっきはまだポートになってなかったのかな?見逃してしまったけど、いるんだろ?竜胆。そこに」

 小野崎加恋が手を看護婦に古子に向ける。「全然だめだ…」小野崎加恋の全身から滝のような汗が流れ出す。「バケットホイールエクスカベーターがもんじゃ焼きになるぐらいの力を込めてるんだぜ!?すごいよ。さすがだ!なあ、出て来いよ!」

 小野崎加恋はさらに力を込めた。看護婦が何かを叫ぶが、聞こえていないか、気にしていない。もう一度、今度は原油施設が高度3000mまで飛ぶほどの勢いで天井にぶつけようとするが、古子は微動だにしない。「やめ」と看護婦が云った、次の瞬間、古子の体がぶるぶると震えだす。

 看護婦が恐怖から離れる。古子の震えはどんどん大きくなる。

 古子の肩口に突き刺さった包丁から、血が落ちだした。

 不思議にも広がりを見せなかった血が再び病衣に波紋を大きくした。

「なにが…」看護婦は最早治療を頭に置けなかった。

 古子の体が動く。否、動かされる。

 包丁が、髙崎竜胆が楔と呼んだそれが突き刺さった肩口から今、ぼたぼたと血が落ちていく。それは奔流となり、体を浮かせるまでになったのだ。

血で汚れた病衣の、辛うじてなにもなっていなかった裾に血斑が飛ぶ。古子の目が白黒した。血はとめどなくあふれ――なんてものじゃない。包丁が飛び、古子の肩から間欠泉のように吹き出ている。子供が夏場にホースで悪戯したかのような、無遠慮で、無邪気に古子の体から飛び出ている。違うのは、そこに迷惑がないことである。あれだけの血が出ても古子の血色は悪くなく、死の兆候はない。

飛び出た血液が大きな水たまりを作っている。1リッターじゃ足りない。2リッターでも足りない。泉のように大きく広がっていく。

「来たな…」

 小野崎加恋の言葉に呼応するように、血が床に吸い込まれていく。全てではない。後に残る血が円を作り、文字を作り、彼の出現を予感させる。

 まず浮かんできたのは、炎を模した刀身の西洋剣。次いで、絹のように白く細い指が、刀身をなぞって登ってくる。流れるように掌を刀身に滑らせ、桃色の布地に花を散らせた和服。後ろで複雑に結った髪、その痩身が陣の中心に顕れる。

西洋剣を抱いたような格好で、髙崎竜胆が姿を見せた。


              [newpage]

 


 死とは恒久的に未知だ。数々の宗教家が、哲学家が、死後の世界について夢想を巡らせた。そのどれもが正解であり不正解であり…つまり回答不能な問い、誰も答えを知らない問い。それこそが未知なのだから――死は、未知である。

『否認と孤立』『怒り』『取り引き』『抑うつ』『受容』。

 死に対する五段階。

 イギリスの精神科医、キューブラー・ロスが提唱した学説。

 そしてこれは、死=未知とすれば、未知に対する五段階であるともいえる。

 極論か?論理のすり替えか?本当にそう言える?

 死は未知だ。ここまではいい。これを否定できるのは本物の死神だけだから、そんなものは論理の勘定に入れられない。死とは、未知である。誰も答えられない。誰も質問できない。そういうものだ。――しかし、死=未知、これは正しいだろうか。

 答えはイエスでありノー。死は未知である。しかし未知は死とはいえない。なぜなら死は個であり、未知は全体だからだ。未知という全体のなかに死という一個体がある。未知の中にはほかにもネッシーや宇宙人やヴォイニッチ手稿などが存在する。つまり正しくは、未知≧死。数学には詳しくないからわかんないけど(と保険をかけておく)。

 で?だから?

 死は未知でだから死に関する何もかもは未知に置き換えられる。

 これは極論であり論理のすり替えだ。しかし間違っているといえるだろうか。

 死に対する五段階。

 未知に対する五段階。

 否認と孤立というのはつまり、現状を認めないこと、そこから発生する不和を指す。怒りとは理不尽に対する怒りだ。取引とはつまり、高次元のなにか…例えば神への受動的な被救助姿勢であり、抑うつは拗ねること、やさぐれること、である。

 受容は?そのまま考えるなら、受容とはそのまま受け入れることだ。すべてを許容し、嵐に身を任せることだ。激流に流れる古木のように。

 古子は体を丸めて、頭を抱えて、考えていた。やけっぱちの冷静が古子に現状認識と、これからやるべきことを示してくれているようだった。古子がそれらに答えを出さんとしたとき、彼女の体は出血を始めた。


                ▽


「なかなかややこしい…しかしその解決は、驚くほど単純なようだ」

 現れた竜胆はまず、品定めするように小野崎加恋を見て、そう口を開いた。感情をうかがわせない、古子と面を合わせたときと同じ口調だ。

「貴方とこうして会うのは…久しぶり、ですね。前はあまり、話す時間がなかった」

 竜胆は西洋剣の刀身を撫でた。

「今回は違う」

 看護婦の前に立つ小野崎加恋が柏手を打つと、周囲に数十丁のライフルが散らされた。古めかしさのない現代的な洗練されたデザイン。およそ霊能力とは無縁そうな代物である。

「おや」と竜胆が云う。「そういうものとは無縁だと思っていましたが」

「現代っていうのは世知辛いんだよ」

 小野崎加恋は歯をむいて笑う。

「…そんなに恨みを買うようなこと、しましたかね」

 

 小野崎加恋は落ちたライフルの一丁を拾い上げて構え、それに相対する竜胆もまた、西洋剣を下段斜めに構えた。


 小野崎加恋の持つライフルはただのライフルではなかった。黒塗りはクロム鉄と、カーボンナノチューブを含有させた最新の塗料。銃底のスプリングをより強化し、ドラム型の弾倉でカスタムしたヘッケラー&コッホHK416。世界最高の殺傷能力を持つとされるアサルト・ライフルだった。

対して髙崎竜胆の持つ西洋剣はフランベルジュと呼ばれる中世後期に作られた儀礼用の剣である。波型の刃が治療困難の傷を残す対人最悪の切れ味を持つ剣だが、火薬の発達のために活躍の場を与えられることはなかった。強力だが、銃ほどではない。


普通なら戦いすら成立しない。巨人を相手に投石器で挑むような無謀だ。インド人との決闘に拳銃を使うような暴挙でもある。

 しかし小野崎加恋と髙崎竜胆は普通の人間ではない。科学の埒外、外法を用いて戦う霊能力者だ。その戦いが、いかに銃と剣であろうと、簡単に終わるはずもない。


 第一射。小野崎加恋のライフルから放たれた銃弾、体を穿つ軌道だけを竜胆は縦の一振りで天井へと追いやった。

 第二射。小野崎加恋の周りに散らばっていたライフルが浮き上がり、回転し弾丸をまき散らしながら竜胆へ突貫した。病院の床、壁、天井にいくつもの穴が開き、竜胆にも数十発の弾丸が殺到する。不思議と看護婦と古子、小野崎加恋には一発も当たらない。小野崎加恋が調整しているのだ。また、飛んでくる銃弾は通常のものではない。30㎝の鉄板だろうと破れるよう弾頭に呪言の細工をしている。竜胆はその全てを動体視力でとらえ、蛇のように手首をしならせ、剣を振り、はじき落とす。数十のライフルが回転しながら飛び回り、限りなく無軌道な密射のうちを、小野崎加恋の持つライフルだけが竜胆その人のみを狙って絞られる。

 それを察知した竜胆は西洋剣を下げ、空いた手に一反の布を出現させた。時間の凍結を感じさせるほど素早く伸ばし、中空に振るうと、すべてのライフル弾が布の中に吸い込まれ、消えていく。それでも小野崎加恋は舞う布の上へ弾丸を発射し、弾道を曲げ、竜胆の頭を狙う。竜胆は西洋剣でもって綺麗に弾丸を割った。

 ふと、小野崎加恋の気配が消える。探すまでもない。割られた弾丸にポートを置き、懐に入り込んだだけのことだ――しかし、この攻撃は明確な失敗である。小野崎加恋はその手にライフルと、亀骨の短剣を持っていた。ゼロ距離、懐ならば、攻撃は命中する。しかし一つ問題があった。小野崎加恋は竜胆より明確に遅かったのだ。もし小野崎加恋が竜胆の動きを見切るほどの素早さを持つなら、多数のライフルを無理やり動かして撃ったりしていない。亀骨の短剣が竜胆に到達するより早く、ライフルのハンマーが撃針を叩くよりも早く、竜胆の剣が小野崎加恋を袈裟切りにする。

西洋剣は病衣を切り、肌に到達し――そこで、停止した。後方、展開された布に大きく跳ね、竜胆の姿が消えた。小野崎加恋の短剣が空振りを見せ、ライフルの引き金もまた惹かれない。小野崎加恋はパックリときれいに割れた病衣の肩を見て不敵に笑った。

慣性に従って宙を舞った布を身に纏い、白蓮柄の和装に変化した竜胆が姿を現した。

「なにか…」竜胆は首をひねった。

「どうしたんだ?」

 切れ味の鈍い剣ではない――だのに、フランベルジュは小野崎加恋を傷つけることができなかった。

 竜胆はぬっへんほっふが小野崎加恋に刃を突き立てた光景を見ている。小野崎加恋は身じろぎもせず包丁を受け止めた――だが、単純な斬撃程度なら小野崎加恋でなくても防げる。何の対策もない古子ですら、あれだけの粘りを見せたのだ。

竜胆のそれは、文字通り桁が違う。竜胆の剣術は肌を撫でるように、両断、切断ではなく切り開くことに重きを置いたものだ。加えて、霊能力。小野崎加恋がただ自分の力だけで防護しているだけなら、あの一撃で死んでいたはずだ。

「協力者がいますね」

「世知辛いって言ったろ?」

 小野崎加恋は空中に浮かんだまま停止していたライフルに向けて手をかざす。すべての銃口が竜胆を狙った。いや、全てではない。いくつかのライフルは、竜胆が避けた時のためだろう、あらぬ方を向いている。

「近現代は便利な時代だ。携帯に小火器、文明の利器というやつは、存外に霊能力と相性がいい。無機質な“もの”だからな。便利すぎて昔ながらのやりかたをしているやつが死んだり廃れたりしたが…そこはそれ」小野崎加恋は皮肉っぽく笑った。「まったく世知辛いよな…将棋の言葉だが、ガキは攻め上手で守りべたって言うだろ?最近のやつらは俺がライフルを撃てば一発も防げないらしい。そんなやつらに駆逐されちまうんだ、ああほんと、世知辛い話だよ」

 小野崎加恋はため息をついた。深く深く、疲れたように肩をすくめた。

「お話は終わりだ」

 次の瞬間、竜胆は背後へ西洋剣を振るった。

 竜胆は前方へ回転し、床を穿った。

 小野崎加恋は病院の壁、床、天井、あらゆる場所にポートを設置していた。絶えず竜胆の死角に潜みながら、その隙を窺う。空中に浮かぶライフル群も銃弾を発射し続け、竜胆の動きを拘束する。限りない弾幕、規模は先ほどの数倍、その全てを竜胆は視線に力を込めて逸らした。この射撃は先ほどのものとは違う。竜胆を殺そうとしていない。

 銃弾に注意をやりながら竜胆はそれ以上の感覚を小野崎加恋に割かなければならない。

 床から、天井から、突き出される短剣を竜胆は時に受け、時に避ける。その動作は淀みなく、余裕があるように見えるが、小野崎加恋と、他でもない本人である髙崎竜胆はわかっていた。

 最後にやられているのは、竜胆のほうだろうと。

 とはいえ、この状況が続くなら、の話である。竜胆も小野崎加恋も互いに見せていない手札の山で溢れかえっている状態だ。

 そのうち一撃必殺の呪いを使用する機会を窺い、この状況を打破しようとしているのが竜胆であり、それを警戒し、この膠着を泥臭くしようと考えているのが、小野崎加恋。そして最後に、この状況を必死で理解しようとしているのが、看護婦だった。


 彼女はずっとそこにいた。病院に現れた殺人鬼、謎の怪物、知り合いの異変、突如現れた和装の麗人、全ての病院の異変を頭に詰め込み、論理的帰結を期待し、外面で呆然としながら、看護婦はずっと考えていた。そして叫んだ。

「いったい何故こうなっているの?」

 愚者は死ぬるこそ考えれ、賢人は古きにこそ問う。

 空気も、立場も関係ない。

 看護婦は問う。どうやら失神しているらしい古子の頭を抱き、この状況を。

 唐突にライフルの音が止んだ。竜胆が剣を降ろし、小野崎加恋が攻勢を中断したのだと知った。

そして電話が鳴る。非通知連絡、しかし誰なのかは分かる。

『もう最後だから言っておくね』

 小野崎加恋がそう云った。

「何が最後なの?一体始まりはどこにあったの?」

『始まり?』小野崎加恋は鼻で笑った。

『始まりがあったのはビッグバンだよ。平等に泡から生まれたんだ』

「ビッグバン…て」と看護婦は妙にまじめな声を出す。

 思わず吹き出す小野崎加恋。

『吉井さん、ビッグバンというのはね、くだらないという意味なのさ。何が始まりか、なんて始まりから関わった奴以外には至極無為な話さ。だから始まりがどこかなんて聞かないでくれよ。くだらない』

 看護婦は押し黙った。

『さて、さっき言おうとしたことだけど、終わりに関する話だ。吉井さん、貴女はいい人だった。この子もそれについては感謝してる。君がいなければ…まあ、結果はどうあれ、今より豊かでなかったのは確かだろう。ああ。尊いことだな』

 竜胆は虚空を見つめていた。そこに小野崎加恋がいるのだろうか。いや、違う。竜胆は窓の外広がる闇、さらに向こう、病院を囲う集団に目をやっていたのだ。

 結界が侵食されているのが分かったが、竜胆はなにもしなかった。竜胆はそうすること(あるいはつまり、そうしないこと)を決めていた。

『だからそう…敬意を表して、貴女の体は無駄にはしない』

「それは」という言葉を残して看護婦の頭が破裂した。頭蓋が床に飛び散り、盃から配される酒のように、真っ赤な血があふれた。携帯を持っていた手が力なく垂れ、体が前のめりに倒れる。血が破損した頭を中心角に波状を描き、そして、内側から明らかに看護婦の質量を超えた太い腕が現れる。めりめりと首をこじ開け、肉がさかさまになり、赤ん坊の泣き声のような声がエントランスに響いた。

 叨。肉体を依代に使った嘉仁宗に伝わる式神の一種。

 数年の歳月をかけて≠小野崎加恋が看護婦に仕込んだ叨は、これまでのものとは明らかに質が違った。不細工で揃いのない個体ではない。外見に方向性を持った獣だ。

 看護婦の体を乱雑に引き裂き、床を這う。肋骨を破散させながら足を引っこ抜き、ようやく自由を得ると、目の前に佇む竜胆をまっすぐ睨み据えた。

 竜胆はぼろきれのようになった看護婦の体を見て、それから叨の巨体に目を移した。叨は高い声を思わせる息遣いをしながら、長い爪を床に沈ませる。

『そいつらと遊んでやってくれ。こっちはこれからやることがあるんでな』

「そいつらですか」竜胆は口を開いた。西洋剣を構えながら、しかし視線は相変わらず虚空にあった。「なるほど、そいつら」

 そちらへ意識を向けてみると、病室という病室、患者という患者が叨に変化していることが分かった。

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