第3話 鬱憤晴らし 前

 それから数日して車いすに乗って移動できるようになる。できるっていっても、後ろに看護師さんがついてるんだけど。

 古子は屋上に連れて行ってもらった。シーツがたくさん干された屋上の端、山のほうに向けてもらうと、看護師さんが二〇分ぐらいしたらまた来るから、と言ってどこかへ行ってしまった。

 屋上。一人。目の前には雄大な大自然。

 独り言だって出るもんだ。

 古子はためてためて、少しずつしか出せなくなっていた愚痴を、一気に落とすように、息を吐く。

「なんで私がこんなやな気分にならないといけないのだ」

 自由なほうの足をプラプラさせながら古子は改めて、そう思う。

「私は被害者ぞ。そりゃ怠け者だったかも知らんがいきなり住居を奪われた被害者ぞ。貯め込んだ本とか夜食に買った〆サバも吹っ飛ばされたんだ、なぜ私がこんな…いや、そうか。そうだな、怠惰は大罪だものな。命を奪われなかっただけマシなのかもな」

 そんなわけねーだろ。

 なんで私が命を狙われなきゃならないんだよ。

 古子は目の前の何かを蹴っ飛ばそうとした。車いすがガシャンと音を立てた。

 …ダメだな。これは。


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 悪いけど、ここからは巻きで行かせてもらう。

 古子の入院と、二つ目の事件と、小野崎姉妹の入院。二つの事件の間には一週間の空きがあった。警察はこの間に犯人が何をやっていたかに注目した。ホームセンターなどで爆弾の材料となり得るものを大量購入した客…そのすべてをリストアップしても浮かばなかった犯人だ。ここから、材料の最低量をいちいち買っているという仮説が立てられる。こうなるともう購入者から犯人を割り出すのは不可能に近い。大錆にはその手の店は多くあるのだ…まさか客全員をマークするわけにもいかない。そんなリソースはない。

 捜査は難航した。犯罪心理学的見地からいえば、今回の犯人は物理学をかじった学生か、似たような何かだそうだ。最低限の知識は備えているというのが見解である。それは、間違っちゃいないのかもしれないが、あっているとしても街の若者が何人いるか…。

 そんな時、三つ目の事件が起こる。

 ただこれを三つ目の事件としていいかはわからない。

 被害者は、小野崎美玲だった。


 団鬼六先生の長編二編は、仇討ちをする女性が主役だ。親父が殺された…とか、それぞれ正当な理由を持って復讐する復讐者が主役だ。ああ、甘美なる復讐劇。前半の鬱憤と後半の爆発的な復讐…そこには普遍的なエクスタシーが内包されている。そう、カタルシスというやつだ。

 でも団鬼六にカタルシスは求めていない。

 現実はそもそも小説じゃない。(あるいは、物語は終わらない?)


 小野崎美玲は、胸をめった刺しにされた状態で発見された。場所は大錆寺。本殿の真正面、石畳の上に粗雑に寝かされていた。発見者は寺までジョギングに来ていた高校生で、今その母親が警察にクレームを入れている。

 古子は、なるほど、とただ思う。死んでしまったのか、なるほど。状況だけ見て(それ以外にみるべきものがあるか)やっぱりグスク・ニエを帰して正解だったと思った。

「もちろん、これは、私のせいじゃない」

 そうだよね。

 小野崎美玲は首を突っ込みすぎたのだ…というより、偶然生き残っただけだったのに、踏み込んで穴に落ちてしまった。崖下の花を摘もうとしたのだ。

 古子は自分なら携帯で撮って通販で買う、ないなら諦める、と思った。

今、古子の病室の前には警官が一人座っている。小野崎美玲が死んだことで、殺されたことで生き残った人たちがまた殺されるかもしれないから。少ない期間でも、警護を置かないわけにはいかなかったのだろう…いまだに意識の戻らない小野崎加恋と、古子は同じ病室に移された。

 小野崎加恋はきれいな顔をして寝ていた。どこに傷があるのかわからないほどだった。

 目覚めたとき、自分以外の家族が全員死んだと知ったら、どんな反応を見せるだろう。

 

              ▽



 古子は、何かが倒れる音で目を覚ました。眠いまま、少しだけ目を開けて正面には、眠り姫と化した小野崎加恋。機械が規則的に音を立てている。

 引きずる音。外からだ。

 古子はぼうとしたまま扉を注視した。

「ぐぐっ、うむ…」

 古子は大変苦しみながら起き上がった。尿意を感じ、ナースコールをかちかちやった。と、またしても外から音がする。ここで、ああ早かったですねと口から出てしまうのは、やはり古子が寝ぼけていたからだろう。

 病室の扉が無遠慮に開かれる。

 古子は爆弾を見つけた時とほとんど同じ気持ちになる。

 病院の廊下はほとんど真っ暗だった。非常口への順路を示す緑色の光を背景に照らされたその大柄な人間らしきもの。レインコートにすっぽりと覆われ、手元には出刃包丁が握られて…浮いて、いる?古子は心理的にも、物理的にも動くことができなかった。ただ無意識に上半身だけが身を引き、足音を立てずに近づいてくるレインコート人間に、細い悲鳴のような声が絞り出された。

 レインコート人間が滑るようにして病室に入ってくる。古子と小野崎加恋を見比べ、首をかしげている。

 これが呪いだっていうのか、あの女。古子は左手に握りしめたナースコールを何度も押した。まさか病院で生きてるのは自分たちだけ…なんてことないだろうな、と古子。レインコート人間が動き出す。小野崎加恋のほうに。

 小野崎加恋の布団がめくられる。

「おっと、と…」

 次の光景がまざまざ頭に浮かんでしまった古子は思わず、ナースコールをレインコート人間に向けて投げている。配線に引っ張られ、レインコート人間にたどり着く前に落下するナースコール、プラスティックがリノリウムに弾かれ、軽い音を立てる。

 レインコート人間が振り向いた。

 古子はナースコールを失ったまま固まった。

「冗談…冗談」へ、へ、と古子は笑う。レインコート人間のフードが上を向き、笑ったように見えて、次の瞬間、出刃包丁を構えて襲い掛かってくる。

「冗談だっていったじゃん!」

 古子が掛け布団を持ち上げピンと帆のように伸ばす。突き刺さった出刃包丁が布を切り裂き、羽毛をどけ、内側へ…とやってくるその展開を、包丁が布団に引っかかって遅れる瞬間に理解した古子は、体を捻じ曲げ、ベッドの脇に落下した。「いった…痛い…」石膏で固められた右足を強かに打った古子はその場でのたうち回りながらレインコート人間の動きを目の端で追う。「うぐぶぅ…ぐぅ…」

 レインコート人間は布団を離しベッドの下に潜り込まんとする古子の足に包丁を突き立てた。石膏越しに金属の刃の衝撃が伝わってくる。骨がまた折れたかもしれない…古子は涙と鼻水で顔を汚しながら匍匐前進の体でベッドの下を移動する。

 中心、全身がどこからもはみ出さない場所で、丸まって身を守る体勢を作る。

「くそっ!チクショウ!めちゃめちゃ痛いっていうんだよ!」

 どういうわけかレインコート人間は古子の足をつかもうとはしてこない…ありえない話だが、あいつは物をつかむことができない…?実体がないから?

 レインコート人間ががんがんベッドを殴りつけ、そのたびにスプリングがきしむ音がする。埃も落ちてくる…古子は病衣の裾で鼻水と涙を拭った。鼻水が糸を引いてそれがまた古子にチキショークソッタレと言わせた。

 と、スプリングが余韻だけを残して静かになる。古子は思わず息を殺す。ベッドの下から見えるレインコート人間の足元には何もない…ただ全身をすっぽり覆う大きさのレインコートが浮いている…ように見える。「私にどうしろっていうんだよこんなの…」

 ちょっと待て、まさかあの野郎、また小野崎加恋を殺しに行ってるんじゃないだろうな…古子は再び垂れそうになった鼻水を啜りながら頭の中で問答する。

 それは杞憂だった。

 ベッドが大きくきしむ。扉のほうへ、わずかながらベッドの脚が動く。「なにするきなんだよもう…やめてくれよ…」古子は動いた分だけ、中心のほうへ寄る。

 次の瞬間、鼓膜の裏を引っ掻かれるような音が床からなりはじめ、レインコート人間によって押されたベッドが病室の扉に激突。下に潜っていた古子に包丁を突き立てんとするが、そこに古子の姿はない。偶然にも、ベッド下の金網に指を絡め、安心を得ようとしていた古子はベッドとともに床を滑り、薬指がへし折れていた。

 間一髪だった。とんでもない幸運に助けられた…そんなことにも気づかず、金網に指を絡ませたこと、先ほどまでの自分を罵倒し続ける古子。ファック、ファックと連呼しながら足を縮ませ、折れた薬指を庇いながらレインコート人間を窺う。

 いや、迷うまでもない。こんなところにいたら殺されてしまう。

 古子は扉を片手で苦労して開いた。外の冷気が雪崩れ込む。レインコート人間もすぐ追ってくるだろう…古子は片手で体を引きずって病室から脱出するも、包丁が風を切る音を聞きつけ、立ち上がって扉に押し付けられたベッドから掛け布団を持ち上げる…再びバスッと音がして包丁が布団に突き刺さる、と、スプリングが軋む音。だん、だん、と音、古子はレインコート人間が何をしたかに気づいたが、対処する間もなく布団ごと押し倒された。「はなっ、はなせい!」布団に口を侵され、くぐもりながらそれだけ云う。身をよじって抜け出そうとするが、レインコート人間が馬乗りになって動けない。布団がはがされる…そこにいるのは、顔のないレインコート人間。手もないのに包丁が振り上げられた姿。背筋が凍った。脳髄が嫌な冷却をされ、ここで走馬燈が浮かぶのだと現実から逃げかける。しかし、古子の手は優秀である。無意識ながら、振り下ろされた包丁をつかみ、やけどするような血液の本流をものともせず、柄までたどり着いた指が包丁の軌道を変え、首元に一直線だった包丁が鎖骨にぶつかり、即死を免れた。

 ギャーッッ!遠慮のない悲鳴が迸る。鼻水と、涙、涎で窒息しそうになりながら、振り上げられようとする包丁の柄をつかみ、必死の抵抗。血が浮かぶ。刃先がざりざり鎖骨を削り、古子は子供のような泣き声を上げていた。

「なんでだよもーッ! 私が何したっていうんだよーッ!」

 レインコートが片手で古子を殴りつける。どこに拳があるかはわからないが、鼻を殴られた古子は鼻水に加え出てきた鼻腔の血に詰まり、苦し気に咳をした…緩んだ古子の手から包丁の自由を得たレインコートはおまけにもう一発鼻にこぶしを叩き付ける。「げほっ、ぐへっ」古子は包丁を腕で受け止めた。間髪入れずに包丁が抜かれ、またも振り下ろされる。掌が裂けた。血の滴りが涙を上書きする。古子は最早出血で意識を軽く失いかけていた。それでも身を揺らし、拘束から脱そうとし続け、包丁を素手で掴む。包丁は血で汚れ、切れ味を大きく落としながらも、切れ込みの入った古子の手を傷つける。レインコート人間が古子を殴りつけ、うち一発を古子が額でガードする。ぐわんと視界が揺らぎ…眼に、懐中電灯の光が浴びせられる。

 懐中電灯?

 眩しさに目をしばたたかせる古子。光の向こうにいるのは…ナースキャップを被った女性と、ブルーの制服を着た二人の男だ。

「あ、あそこ、あそこです!」

 看護婦の声!しかも警備員までいる!

 混濁する頭で古子は歓喜した。ともすれば、力の抜けた体に包丁が突き刺さったことに気づくまで、いくばくかの時間が必要だったほどだ。包丁は胸の上…体内において気管の隣を貫き、背筋にまで到達した。血がとめどなくあふれ、赤い斑点付きの病衣を、染め直していく。「その子から離れて!」と看護婦が叫ぶ。警備員二人が走ってレインコート人間を取り押さえようとすると、その動きを察知したレインコート人間が立ち上がる。

 警備員の一人がレインコート人間にタックルを食らわせにかかる、が、レインコート人間、バックステップ(らしき動き)でこれを回避。全速力で廊下の奥へと消えていった。

「俺、俺追うからお前は吉井さんと一緒にそのこといろ!」

「えっ、警察呼んで待ったほうがいいんじゃ…?」

「馬鹿野郎!ここには入院患者が他にもたくさんいるんだぞ!あんなの放っておけるか」

 と、タックルを失敗してもなお戦意の落ちる様子のない警備員が廊下の奥へ、レインコート人間を追って消える。どうやら先輩後輩の立場らしい、若い警備員は困ったように看護婦のほうを見た。

「とりあえず、この子の治療をしないと…警察に連絡を入れたら当直の先生を呼んできて」

「はい」

 二人は古子を近くのストレッチャーに乗せ、病室に運ぼうとする。「なにこれ…」塞がった病室の隣、なぜか入院患者のいない病室に入り、古子を警備員に任せて応急処置のための道具を取りに走った。

 残された警備員は懐から携帯を取り出す。古子は安心から気絶している。血で固まった髪を払ってやると、眉間に浮かんだ皺は消えるが、未だに出刃包丁は刺さったままだ。

「なんでこんなことに…」と云いながら警備員は1、1、と押す。あとは0と通話ボタンを押すだけだが、ここで間が悪く電話がかかってくる。

 0切り。再びコールナンバーを押すも、間髪入れずまた電話。

 警備員は仕方なく通話ボタンを押す。耳に当て、今はダメなんだ、と説明にかかる。男の声が聞こえてくる。

「ごめんねぇ…」

「は?」

 続く言葉は呪詛。漢語の呪詛が警備員に耳に垂れ流される。通話を切ろうとしたが、できなかった。その前に頭が破裂していた。

「もう…余計なことに力は使いたくないんだけどなあ…」

 という言葉を残して通話は切れた。


 そのころ、古子は夢を見ていた。目覚めると…本人の感覚で、目覚めたような瞬間を過ぎると自宅のちゃぶ台の前で、目の前には和装の美人が座っている。

 ここで古子は自分の体が何ともなっていないことにも気づく。病衣にも血の跡はない。

「あの…」と口を開くと、和装の美人が手を挙げて制止する。化粧っ気のない、天然の瑞々しさを持った唇が割れ、ちろりと赤い舌を見せ…出てきたのは、思うより低い、そして軽々しさを持つ声音だった。

「城さんから聞いたのですが…貴女、もうすぐ死んでしまうそうで」

「え、えと…あの、そうなんですかね」

 古子は半信半疑で答えた、と思ったが、もはや「古物商と宗教だけは信じちゃいけないといわれた」という気にはならないだろうとも思った。

「ええ、そうなんでしょうねぇ…あの子は、よく他愛もないことで回りを引っ掻きまわしますが、そういった分別のある子でしたから…」

 でした。ある予感を感じながらも、古子はまず気になることを訊いた。

「あの、あなたは誰なんですか?」

 空間が不可思議に歪み、今ここにない瞬間を、まるであるようにしているのだと考えられた。和装の美人は頬に手を当て、どう答えたものでしょうか…と呟いた。

「そうですね、シンプルに行きましょうか」

 和装の美人は淡々としていた。

「私は髙崎竜胆といいます。端的に言うと、霊能力者です」


 宿直室には惨状が広がっていた。宿直の医師である富岡はふくよかな体系の男であるが、その脂肪が表に露出し、さながら中から何かが出てきたような凄惨な様相を見せていた。

 ただでさえ全力で走ってきていた看護婦は恥も外聞もなくその場で昼食べた物を全て吐きだした。口元を拭くと、涙も一緒に拭える。いったいあのレインコートはなんなのだ?

いや、違う。今考えることは――ともかく、先生がいないなら自分であの子を治療しないといけない、ということだ…。

看護婦はナースステーションへと走った。


廊下を滑るように歩く人影が一つある。全身をレインコートですっぽり覆ったその人影に手足は見受けられず、顔もない。ただ裾がまるでそこに手足があるのだと言わんばかりに浮いている。その、右手があると思われる部分には、長めの刺身包丁。自己主張の激しい透明な足が、リノリウムに足音を響かせる。

背後には一人の男がおぼつかない足取りでレインコートのあとをついていっている。暗くてよく見えないが、首元には幾筋もの刺し傷が見え、その一つに包丁が刺さっている。


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