エピローグ
「今日は冷えるな」
口から吐き出される二酸化炭素が、真っ白に染まる。
体育館での部活指導を終えた私は、職員室へとつながる廊下を歩いていた。足元を支配する冷気が、上履きをなぞるように這いあがり、身体のなかに侵入してくる。
すでにカレンダーは12の月を示していた。
岡山県南部に位置する苫田高校は、南からの温かい潮風が届けられることもあって雪はほとんど降らない。晴れることが圧倒的に多く、降水確率が50%程度であれば、県民は傘を持ち歩かないという、悪い冗談のような実話があるくらいだ。その代わり朝夜の冷え込みは厳しいため、夕刻ともなると寒さとの闘いを強いられる。
「国立先生、お疲れ様です」
下駄箱と職員室との分岐点に差しかかると、とある女子生徒の声が聞こえてきた。
「もう職員室に戻っちゃうんですか? 私とお話してください」
吹奏楽部の方角に顔を向けると、女子高生が白い息を吐きながら微笑んでいた。
「こんな寒いところでか? 冗談じゃない」
「先生が学校にいてくれっていうからいるのに。酷いこと言ってくれますね」
「その寒そうな太ももを見せつけられては、な」
私は彼女のスカートを指した。
今までとは異なり膝上まで短くなっている。
「あんなに真面目な生徒だったのに、どうしてこうなってしまうんだ。誰の影響だ? 生徒指導する身にもなってくれ」
「門田さんが教えてくれました。国立先生はこういうのが好きだって」
「悪質なデマだ」
「本当ですか? 本当に見たいって思わないんですか?」
私は顎に手を当てて「うーん」と考えてみせる。彼女はきょとんとした顔で、
「本当は見たい、じゃなくて、触りたい、だな」
彼女の表情があれよあれよという間に凍りついていく。
「教育委員会かPTAに訴えてもいいんですよ?」
「ごめん嘘だ嘘! 欠片も見たいと思わないし、触りたいだなんてそれこそ悪い冗談だ!」
「……やっぱり訴えますね。二度とここに戻ってこないでください」
「どうして!? 見る気も触る気もないって言ったぞ!?」
「忘れないでください。退職のお手伝いなら、簡単にできますから」
「……その冗談は、月島にしか言えないし、月島にしか笑えないな」
「はい」
彼女――月島は笑顔になった。
あの一連の出来事が終わり、私たちはようやく苫田高校での日常を手に入れた――と小説のようにいかないのが現実の辛いところ。順調に思われていた私の教職復帰だったのだが、それが一部のクレームを寄せてくる保護者に伝わってしまったらしい。
――子どもへの悪影響を考えているのか――
――国立某は教師としての自覚はないのか――
――ここは犯罪者を先生にするところなのか――
度重なる抗議の一部を紹介したわけだが、まあ例を挙げればきりがない。
それでもどうにかなっているのは、多崎校長が先頭に立って私を守ってくれたからだ。
また月島へのいじめだが、決してゼロになったわけではない。いまだに他の学年からは白い目で見られることがある。それでも、こつこつ続けてきた面談もあってか2組には味方も多いし、彼女を助けてくれる他クラスの生徒も見受けられる。
この騒動が落ち着いたら花本先生のところにもご挨拶に行きたい。まだ、ちゃんとお祝いの言葉を述べていないのだし。
「ところで先生は結婚しないんですか?」
月島は少しだけ私に近づくと、お約束の質問をしてきた。
「したいな」
「でも相手が見つからないんですよね」
「いないな」
「女子高生の太ももとか言っているから、こうなってしまうんです」
「厳しいな……」
月島は、ふぅと息を吐き出したかと思うと、わずかに頬を赤く染めた。
「……わ、私がしてあげ――」
「丁重にお断りしたい」
すると月島は金魚のように口をぱくぱくさせる。
「俺の人生は、退屈で手一杯なんだ。月島の面倒など見ていられるか」
「酷い! この嘘つき!」
月島は手にしていた
あの日から少しずつ、月島の性格は変わっていった。感情を表現するようになったし、人前でも笑うようになっている。本人に自覚はないようなのだが周囲はちゃんと理解している。
それでも月島の退屈は変わっていない。
授業に嫌気がさしたり、通学路の景色にうんざりしたり。そんなときは屋上に逃げこんでいる。門田や佐々岡が話し相手になってくれるが、それでも気怠さに耐えられないときがあるそうだ。
私は私で、手帳に書かれたスケジュールに
そんな気持ちを抱えて屋上に避難し、月島とばったり、ということも多い。
そこで散々、
「おぉー、こんなところで夫婦漫才ですかー?」
吹奏楽部の部室から、門田が騒がしく駆け寄ってきて、月島の横にぺったりと張りつく。
「ふざけるんじゃない! 結婚相手は、退屈とは無縁の素直で元気な美人だと決めているんだ!」
「悪い冗談です! こんなに酷い嘘つきなんかと結婚したら、夫婦生活が破綻(はたん)するじゃないの!」
お互いに悪口を言い終えたところで、顔を見合い、そっぽを向いた。
門田に佐々岡。
あのとき月島を助けてくれた2人は、前よりもはるかに月島と仲よくなっている。
(月島が気持ち悪いっす)
佐々岡はそんなことを言うが、変わった月島の様子にまんざらでもなさそうだ。
「照れちゃて本当は――って、痛っ!」
すぐさま月島の
あと驚くべき変化として、退屈の苦しみについて相談してくる生徒が出てくるようになった。頑張って勉強する意味が見いだせないのだとか。孤独なキリギリスはけっこう潜伏しているのかもしれない。屋上での退屈同盟に、新しい参加者が増えるのは時間の問題だろう。
「門田さんが
月島は門田とじゃれるのを止めて下駄箱へと向かう。
「あーん、冗談だって」
私に会釈をしてから、門田はすぐに彼女を追いかけていった。
2人の姿が見えなくなると、私は職員室に戻った。
デスクの上に山積みとなっている学級ノートへのコメントを開始する。
1つ手にとっては、丁寧にコメントを考え、赤ペンで書き込む。
さらに1つ手にとっては、またコメントを考え、赤ペンで書き込む。
さらにもう1つ手にとっては、別のコメントを考え、赤ペンで書き込む。
この慣れきった作業にも、以前のような強烈な
「よし、最後だ」
私は残っていた月島のノートを開いた。
そこには日々にうんざりしているという恨みの言葉が埋め尽くされていた。文体は流麗で、まるで作家のエッセイを読んでいるみたいだ。読書家だと文章もうまくなるのかもしれない。
さあ、どうやって返事をしようか。私が一番新しいページを開くと、
『先生が退屈な人でよかった』
そう書かれてあった。
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