第10節 再会

「月ちゃん、待って」

 私は屋上から出ていくことができなかった。

 扉の奥から、門田さんが姿を現して、私をせき止めていた。

 あまりにも驚いて足が止まってしまう。どうして門田さんがここにいるの。屋上には誰も来ないはずじゃない。

「悪い思うたけど、ずっと立ち聞きしてしもうて……」

 さっきの驚きを上回る言葉が出てきた。

 あれを全部知られてしまった。そう考えるだけで卒倒しそうだった。

 門田さんは一歩ずつ私に近づいてくる。私はそれに気圧されて、一歩ずつ後ずさりし、元の場所まで押し返されてしまう。

「うち、月ちゃんがそんなに苦しいん知らんくて。それで国立せんせしか相談できんかったんよね。じゃから、うちのことを信じられんって」

「……違う、私は」

 ずっと門田さんを馬鹿にしていただけ。

 中学生のときに気まぐれで助けたら懐いてきたから。それを面白がってた。信じられないとかそういうことじゃない。

「うちだけ友だちのつもりだったんは分かっとったけど、それでもよかったんよ。月ちゃんみたいにすごい人と一緒におれて嬉しいから。覚えとる? 中学校のとき教室で読んでいた漫画をみんなに馬鹿にされたの。月ちゃん、うちの手からそれ取りあげて読んで、面白いじゃんって言ったが」

 それも違うの。

 私は読むものがなくて、教科書も読み終わってて、それで退屈しのぎに読んだだけで、たまたま面白かったから。そんな認めるとか、そういうんじゃない……。

「うちは馬鹿じゃし難しいことは分からんけど、月ちゃんの話なら聞きたいよ? 言いたいことがあるんなら言うて欲しいが。じゃから、お願い、もう悲しいこと言わんといてよ」

 すると門田さんは、口元を歪ませて、泣き声に近いしゃべり方になっていく。

「なんか、月ちゃんがここから出ていったら、もう学校に来んような気がして、おらんようになったら寂しいが」

 そして彼女はさめざめと泣き始めた。

「ま、待って門田さん! 私なんかで泣かないで、お願い」

「そんなん無理じゃ、うち我慢できん」

 私はおろおろと狼狽うろたえるばかり。

 ど、どうしよう。どうしたらいいの。

「また門田泣かしてんのかよ」

 すると息を切らしながら、佐々岡くんが階段を上ってきた。泣きじゃくる門田さんを守るように側に立つ。

「だから月島は嫌いなんだ。嘘つきで、門田に迷惑かけるし、国立先生に甘ったれてる」

「……大丈夫だし。私ならすぐに消え――」

「でも一番嫌いなのは、そうやって独りになろうとするところだ」

 佐々岡くんはあの顔で、じぃっと見てくる。

「お前が自分のことをどう考えてたってな、門田を助けたことはたしかなんだよ。それに門田は応えたいんだよ。どうして分かんねえんだよ」

「そ、それは、違う……!」

「どう違うんだよ」

「……私はただ、ただ……」

 しゃべろうとしても、先の言葉が出てこなかった。

 とても簡単なことなのに、頭だけが一生懸命回っていて、口でせき止められてしまう。

 私が声を出せずにもたついている様子を、佐々岡くんは不機嫌そうに、門田さんは泣きながら、そして国立先生は黙って、見つめていた。

「……わた、しは……、お父さんにいて欲しくて頑張って、でも駄目だったから、毎日が退屈になって……、それで、それで、門田さんとは……、だからそんなつもりじゃ……」

 ようやく、たったそれだけのことを言い終えた私は、もう疲れ切っていた。

 腕や頭が重たい。まるでコンクリートのブロックが乗っているみたいだった。

「簡単じゃねえか」

 すると佐々岡くんは、どこか苛立ちながら大声で返事をした。

「そんなつもりじゃなかったんなら、今からすりゃいいだけだろ。月島は俺より頭いいじゃないか、どうしてそんな簡単なことができねえんだ。今度こそ門田に応えてくれよ。大事なんは今だろ。本当は気になってたから、ぐじぐじ悩んでんじゃねえか」

「……佐々岡くん」

「これ以上門田を泣かさないでくれよ。俺じゃ駄目なんだ。お前じゃないと意味がないんだ。お願いだから学校に残ってくれ」

 頭を下げてくるときに見えたアンニュイな佐々岡くんの顔は、酷く困っていた。

 もう私にはどうしたらいいのか何もかも分からなくなっていた。

 目の前には泣きながら「月ちゃんをいじめるな信二」と彼を殴っている門田さん。

 その拳に身体をさらしながらも、私に下げた頭を上げない佐々岡くん。

「月島、私からも頼めないか」

 そして。

 国立先生も声をかけてくる。

「月島がいないと悲しむ人間がいるんだ。私だって学校に復帰した意味がなくなってしまう。どうかこの通りだ」

 先生までも頭を下げてきた。

 ――どうして。

 あんなに馬鹿にしてきたのに。迷惑かけたのに。なぜ私が必要なの。

 退屈だって、つまらないって、好き勝手してきたはず。なんで独りじゃないの。

「月島、頼む」

 先生が頭を下げている様子に、私はようやく気づくことができた。

 国立先生は仕返しなんか考えていない。苫田高校を辞めたあとも私のことを心配し続けていた。あんなに悪い噂で迷惑をかけられたくせに、恨むよりも心配していたって。

 ほんと馬鹿みたい。

 勝手に先生を疑って、勝手に嫌われようとして、独りで悲劇のヒロインになったつもりで。

 結局、全部私の思い違い。

 けど薄々は分かっていたような気がする。先生がそんな酷いことをするはずがないって。

 先生を信じられなかったのは、たぶん、学校から追いやった罪悪感に耐えられないから、自分を悪者に仕立てあげて、楽になりたかったから。

 それなのに、先生は私のことを見捨てるどころか助けようとしている。門田さんや佐々岡くんにだって。

 気持ちに応えたい、でも、できない。

 だって、私がしたことはなくならないから。そんな虫のいいこと許せないから。

「……ごめんなさい」

 私はゆっくりと首を振って、もう一度、屋上から立ち去ろうとした。


「ほんとだ、国立先生もいる」

 すると今度は、別の生徒が階段をのぼってきた。


 しかも1人2人じゃない。10、20といった人数が列をつくって近づいてくる。呆気にとられていると、私は黒山の人集りに囲まれてしまった。

 ――2組のみんな。

 柴田、武田、他にも知っている顔がたくさん並んでいる。

「月島、国立先生のためにも仲直りしてくれないか」

 集団のなかから柴田が前に出てきて、そう話しかけてきた。

「……なんで」

 そんなこと知っているの。私と国立先生のことは、誰も知らないはずじゃ。

「俺らのせいで、月島も先生もここにいられなくなるのは嫌だって、みんなで考え直したんだ」

「……でも、悪いのは私だから」

「先生のお見舞いに行くような奴が、どうして悪者なんだよ。俺ら、そこまでしたことねえし」

「でも……」

「決めたんだ。もう月島の悪口は言わない。言ってる奴も許さない。だから先生の話だけでも聞いてあげてくれ。すごい月島のこと考えてくれてんだよ、頼むよ、少しだけでいいんだ」

 両手をまっすぐ伸ばして太ももに添えると、柴田は勢いよく頭を下げてきた。

「俺からも頼む」

 今度は武田が頭を下げてきた。

 だから、さっきから、なんでなの。

 これじゃ私のしたことに、何の意味もなくなるじゃない。2組の誰も先生を嫌っていないし、私を避けていない。それに、もう独りじゃ……。

 不意に、頬を生暖かくてくすぐったい感触が走った。それはあごを伝って、シャツへと吸い込まれていく。

 私、泣いてる。どうして。

 泣いていることに気づいた途端、涙が一気にあふれてきた。止めようとしても止まらない。拭っても拭っても頬を濡らす。

「私、違うの……これは間違いだから、私にそんな権利なんか……」

 まともに言葉にならない。口が震えて、顎の奥が緊張してしまう。

「ご、ごめんなさい……、違うの、ごめん、私……」

 どうにもできない。

 私はただ言い訳をたどたどしくこぼすしかできない。

 するとてのひらに温もりを感じた。うるんだ視界には、私の手を握っている先生、門田さん、佐々岡くんの姿が映っている。

 拭えない涙を流しながら、私はその場でしばらく泣き続けた。

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