第9節 古見
「ちはや先生、もう分からん!」
小学校低学年くらいだろうか。小さな女の子が、机のうえに置かれていたノートや教科書を乱暴に払い落した。
古見セミナー学習塾という看板の掲げられた雑居ビルの3階。
日差しは高く、照明があっても、室内の明るさは変わらない。光に照らされた女の子の瞳からこぼれる涙は、きらきらと輝いている。
「それじゃ学校の先生が可哀想だろう? 学校を休んで塾に来たのは、勉強についていくためじゃないのかい?」
少女のすぐ隣。
払い落とされたノート類を拾いあげ、そこについた
猫背の背中に、幸の薄い頭髪部分が、やんわりとした口調に合っていた。
「こんなん、何のために勉強するんか。できなくても生きていける」
「そうだね。まったくその通りだよ。やらないほうが、よほど人生は幸せだ」
少女は息を呑んだ。
八つ当たりで言った言葉。勉強をしないための言い訳半分の台詞。
他の先生なら、わがままを言うな、黙って勉強をしろと説教してくるはずのもの。ちはや先生なら笑って許してくれる。そう思って口走ったのに、あっさりと同意を得てしまったからだった。
それでは二の句を継げない。少女は驚きで両目を見開くばかりだった。
「さあて、どうしようか。勉強しないとなると暇になっちゃうなあ」
「……じゃ、じゃあ外で遊ぼう?」
勉強をしなくてもいい。そう塾の先生から言い渡された途端、少女はさっそく自らの要望を口にした。
「駄目だよ」
残念ながら、少女の訴えは即座に却下される。
「外で遊んでるところを学校の先生に見つかってごらん? もう遊びに塾に来られなくなるだろう? 見つからない方法じゃないと」
「うーん、うーん」
少女両足をじたばたさせて抗議する。「ならどうしたらええん!」と。
「だったら、ここでかくれんぼはどうかな?」
「子どもっぽいから嫌」
「なら鬼ごっことか?」
「ちはや先生が勝つに決まっとるがん。大人じゃもん」
「だったらしりとりをしようか?」
「ち、は、や、お、じ、さ、ん。先生の負け」
「……お気に召さないか」
彼はゆっくりとした動きで、ノートと教科書を机に戻す。
「だったら、どんな遊びがいいんだい? ちはや先生が一生懸命考えるから、教えてくれるかな」
「うーんとねー、簡単じゃなくて難しすぎないの」
「うん、うん」
少女の座っている高さになるまで腰を落とし、その顔を見ながら何度も頷く。
「あと、お外に出なくてもよくて、ちはや先生と勝負せんの」
「どうして? おじさんは嫌い?」
「だって、ちはや先生強いもん。大人げないし」
「なるほど。他には?」
「ちはや先生と一緒にできるのがええ。一人じゃとつまらんもん」
「そうか。つまり」
彼は顎に手を当てて、しばし視線を空に向ける。
「適度に難しくて、この場所でできて、私と一緒にする遊びがいいってことかな?」
「うん、そう!」
少女の顔に一輪の花が咲く。そして、ぽん、と彼は手を打って「思いついた」としゃべった。
「勉強がいい。勉強こそぴったりの遊びだ」
彼は人差し指で、こんこん、と机を叩き、そこに置いた教科書を示す。
「お、おかしいが! 勉強と遊びは違うもん!」
「だって、ここの問題は簡単すぎないし難しすぎたりもしないよ?」
「じっとするんは嫌じゃ」
「この場所でできるから、学校の先生に見つかったりしないよ?」
「一人でやっても面白くない」
「ちはや先生も一緒に考えるから、一人だけじゃないだろう?」
「……むー」
少女は不服そうに両頬を膨らませる。じっと問題集を見つめたかと思うと、すぐにノートを開いて、シャープペンシルを握りしめた。おもむろに問題を解き始める。
「ちはや先生」
少女は視線を落としたまま彼を呼ぶ。
「なんだい?」
「ひきょうじゃ、そんなんせこい」
「あはは」
「ひきょうじゃ、ひきょうじゃ、せこい、せこい」
「うーん、勉きょ――遊びをしてくれるようにはなったけれど、嫌われてしまったな……」
「ひきょうじゃ、ひきょうじゃ、ひきょうじゃ、せこい、せこい、せこい」
少女は呪詛(じゅそ)の言葉を唱えながら、机に突っ伏してしまった。握っていたシャープペンシルを盛大に振り回して、不服の意をアピールする。
「ほら、顔を上げて」
「知らん」
「もう少しで問題集が終わるんだよ。勉強が終わったら、遊びに行ってあげるから」
遊びに行ってあげる――という台詞とともに、少女の動きがぴたりと停止した。さっきまで壊れたおもちゃのように動き続けていたのに。
男が様子を見ようと、その顔を覗き込もうとすると、
「おごって」
顔だけを横にくるりとひねって、彼を見た。「レストランのご飯。食べさせて」と。
「そうきたか、やり手だなあ」
「じゃないと、もうここにも来ん。勉強も絶対せん」
「仕方ないなぁ」
にぃ、と女の子は笑顔になった。
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