第1節 来客中

 ――ピンポーン――

 何かの音が、私の意識を呼び戻す。ゆっくりとあがる視界の暗幕。

 すぐに自分がフローリングに横たわっていることに気づいた。全身がすっかり冷たくなっている。

 そうだ。私はゴミを捨てようとして、途中で気を失ったんだ。

 ――ピンポーン――

 この音はインターホンだったのか。

 私は頭に振動を与えないように立ちあがる。きっと花本先生だ。倒れている間に、放課後を過ぎてしまったのだろう。ドアノブに手をかけ、体重をかけながら木製の扉を開けた。

「すみません、わざわざ――」

「――国立先生、こんにちは」

 そこに花本先生の姿はなく、買い物袋を手にした黒髪の女子高生が立っていた。

「……月島か?」

 しばし唖然あぜんとし、ようやく出てきた言葉はそれだった。

「もしかして私のことを忘れてしまいましたか?」

「どうして、ここが……」

「先生が律儀だからです」

 月島は答えになっていない答えをする。

「あの日、携帯を見つけて番号とアドレスを確認しました。先生は自分の連絡先にも住所登録をしていましたよね」

 やられたと思った。

 携帯を盗み見されたことなら本人から聞かされている。だがあのとき月島は、住所を見たとまでは言わなかった。それは私を油断させるには十分すぎる。月島はここには来られない。そう疑わなかったからこそ、インターホンが鳴ったとき、花本先生だと思って扉を開けてしまったのだから。

「国立先生が風邪だと聞いて、心配で仕方がありませんでした。だから学校が終わったら、すぐにお見舞いに行こうって決めてたんです」

 車での会話が思い出される。

 月島の目的は私をからかうことにある。心配だなどと言っていても本音は分かったものではない。

「先生、私のこと疑ってます? でも、さすがの私だって病気の人間を襲ったりはしません。他人の好意は素直に受けとるものだって言ったのは、国立先生ですよ?」

「……そんなこと言った憶えがない。自分のことを大事にしろとは言ったが」

「それより見てくださいよ先生。きっと困ってると思って、たくさん買ってきました」

 満面の笑みを浮かべる月島は、両手の買い物袋をアピールする。そこにはレトルトのご飯、白菜、長ねぎ、生姜しょうが、生卵、市販の風邪薬、スポーツ飲料水が入っていた。

「今すぐおかゆを作ってあげます。先生は休んでてください」

「悪いが帰ってくれ」

「こう見えて料理は得意なんです」

 月島は肩口で切り込むように、扉の隙間すきまに身体を押し込み、そのまま室内へと入った。

「待て、勝手に入るな――」

「きれいな部屋ですね。先生の身体と一緒」

 彼女はシンク近くに買い物袋を置きながら周囲を観察する。

「セクハラで訴えるぞ」

 私は月島にゆっくり追いつく。だが満身創痍まんしんそういの身体では、軽口を叩くだけで精一杯だった。肩での呼吸を強いられる。

「本当に大丈夫ですか?」

「……私が心配なら帰ってもらいたいな」

 月島は私の肩を担ぎながら、布団のある部屋まで移動した。横目に映るその表情は、たしかに私のことを心配しているように見えた。

「さすがの私も、先生が大変なときくらいは真面目にしますから」

 そう言いながら私を布団に戻して、布団をかける。

「熱いですね。ちゃんとお薬は飲んだんですか?」

「帰ってくれと言ってるだろう」

 額の温度を確認するする月島の手を、私は払いのけようとする。だが力が入らず、彼女の腕によたれかかる。触れられたままの腕をしばらく見つめたあと、彼女は跳ねるように立ちあがった。

 水道水がシンクを打つ音が聞こえたかと思うと、きゅつ、と静かになる。すぐにタオル片手に月島が戻ってきた。濡らしたタオルがおでこに乗せられると、ひんやりとした感触が広がってきた。

「気持ちいいですか?」

 真面目な面持ちで聞いてくる。私は「すまない」とだけ答えた。

 もしかしたら月島は本気で心配しているのではないか。そう思うだけで追い返そうとしたことに罪悪感が込みあげてくる。

「あ、これ、冷蔵庫のを借りました」

 見れば彼女はエプロンを着けている。

「お粥作ろうと思って。駄目でしたか?」

「……いや、構わない」

「よかった」

 おでこのタオルをひっくり返すと、再び、月島は台所へと向かった。

 ごそごそと買い物袋の音がすると、今度はとんとんと包丁の音が聞こえてくる。

「寝ててください。完成したら起こします」

 警戒心が薄れたこともあったのだろう。私の両瞼まぶたは閉じていった。


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