第6章 動機の修辞学

 苫田高校と岡山駅の双方から、ちょうど等距離に位置する建造物。

 築数10年はあろうかという、2階建ての安アパート。

 その一隅に『国立』という表札が掲げられた部屋があり、そこの扉の背後には、ひんやりとしたフローリングの台所と、畳敷きの殺風景な部屋が控えている。台所のキッチンには、まだ洗っていない油汚れのついた食器が数枚。一人暮らし用の冷蔵庫には、マグネットで張りつけられたエプロン。

 畳敷きの部屋の中央を、使い古された煎餅せんべい布団が占拠する。周囲には、小さな作業机とノートパソコンと電波時計、そして医者から処方された風邪薬に、生活ゴミが散らばる。

 私は布団から顔を出し、朦朧もうろうとした意識のなかで目に見えるものをぼんやりと眺めていた。好きでこんなことをしているわけではない。他には何もしないようにと強いられているからだ。

 つまり、私は大風邪を引いていた。

 月島と言い合った直後に病院に駆け込んだが、すでに嫌な予感がしていた。診察を受けるころには意識が朦朧としており、あっさり風邪だと診断された。薬を服用しながら自宅養生を言い渡されている。

 ――その嘘、また聞かせてください。楽しみはとっておきたいんです――

 頭痛や寒気と戦いながらも、私はどこかで風邪を引いてよかったと思っていた。

 月島に感じた不愉快さを病気のせいにして忘れられる。自宅で養生している間であれば彼女に会うことはない。あのやり取りの続きなど考えたくもなかった。私は布団にすっぽり包まる。

 そうだ、連絡をしなければ。

 すぐに学校の風景が浮かんできた。枕元に投げ出していた携帯をたぐり寄せ、電話をかける。

「あら先生、こんな朝早くから電話なんて珍しいですね」

 花本先生が明るく弾む声で返事をする。「どうかなされましたか?」と聞いてきた。

「風邪を引いてしまいました。インフルエンザじゃないんですが、本日はお休みをいただきたくて」

「ほんと、ひどい鼻声ですね。大丈夫ですか?」

「どうにか。薬を飲んで横になってます」

 早めに治して復帰しますから、と電話を切ろうとする。

 すると「国立先生?」と花本先生は切れかけた会話を繋げてきた。

「ちゃんと身体を温かくしていますか? 栄養のあるもの摂ってます?」

「布団に避難しています。ですが食事はあまり……、台所が寒くて……」

「そうですか」

 と、言ったっきり。先生は会話を止める。

「放課後、お見舞いにうかがいます。料理も作り置きしますから、それで大丈夫はなずですし」

「あ、いえ、そこまでなさらなくても――」

「いつでもどこでも、私の話し相手になる、私の要求に応じて。そうでしたよね?」

 私の頬に熱が灯る。風邪とは異なる理由だった。

「……ですが、先生に風邪をうつすかもしれませんので」

「あら、風邪がうつるようなことを、私にするつもりですか?」

 手強い。風邪のせいで遅れをとっているわけではないのに。

 柔らかい微笑みは、先生のイメージ戦略であったことを実感する。

「冗談はとにかく、病気のときはお互い様です。安心して甘えてください」

「……分かりました。そういうことでしたら、よろしくお願いします」

「では放課後に」

 ここで花本先生との通話は切れた。

 私は携帯を放り投げる。ずっと力んでいたのかてのひらがわずかにしびれている。

 放課後に花本先生がここを訪れるということは、つまりこの部屋を見る、ということだ。

 ――いけない。

 思春期の青年のように高ぶっていた気持ちが、すぐさま落ち込んでしまう。部屋が汚い。さすがにこの状態を見せるわけにはいかない。知性というものは、羞恥心を守るために存在しているのではないかと感じずにはいられないほど、私は室内の目に触れてはならないものを冷静かつ瞬時に数えあげた。

 そして勢いよく布団から出ると、身を切るような冷気が襲ってきた。

 節々の痛みと気怠けだるさを抱えながら、ゴミを拾いあげ、ビニール袋にまとめる。その作業は遅々としたものではあったが、無駄のない動きで達成できた。

 ――あとは。

 台所の食器はいい。とにかくこのビニール袋を隠滅しないと。冷え切ったフローリングを歩み、玄関に到着する。目的地はその先にあるゴミステーションだ。そうしてドアノブに手を触れた途端、痺れるような冷気が伝ってきた。

 と同時に、私の意識は暗転した。


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