第1節 油断大敵
「まったく災難だったな」
へっくしょんとくしゃみが出る。
何度目かの使用を経て、湿度120%となっているハンカチで鼻を拭った。
苫田高校の職員専用駐車場。早朝の通勤を除けば、部活指導を終えてからでなければ訪れない場所だ。にもかかわらず、私は放課後の忙しい時間に、為す術もなく自家用車に避難していた。
――国立と花本が付き合ってるんだってよ――
この噂話のせいだ。私が退屈を強いられているのは。
職員室を出て、出席簿を花本先生のクラスまで届けたまではよかったのだが、タイミングが悪かった。早朝のHRが終わり、2年1組全体が退屈しのぎの話題を求めていたときに、顔を出してしまったのだ。
息を呑む暇もなく、私たちを冷やかす
噂話は尾ひれをつけ、羽を生やし、ベルヌーイの定理の如く、宙へ舞う。
若者の情報拡散速度は、いつの時代だって目にも止まらない。喧騒は1組に留まることなく、学校全体へと広がっていった。
(今日は門田がいないな、珍しい)
(杏なら、先生の婚約について言いふらしてます)
これが、生徒と交した唯一の双方向コミュニケーションだった。
もう授業すら成立しない。脅したり
(言っただろ、さっさと帰れって)
で、多崎校長の助言通りに、こうして駐車場に逃げ込んでいた。
ここは生徒の盲点だったらしく、今のところ刺客は来ていない。仕事をしようにも道具もない密閉空間。私は堪らずズボンのポケットから携帯を取り出した。
するとメッセージ1件と、大森心療内科からの着信があった。着信は深夜とお昼の2回。今まで向こうから連絡などなかったのに。キャンセルしたのがまずかったのだろうか。柴田と武田の件が一段落したらあらためて連絡しよう。そう考えた私は、次にメッセージを開いた。
『花本です。本日は私のせいでご迷惑をかけてしまい、大変失礼いたしました。多崎校長から伝言があってメールしています。例のことは心配いらない。報告書も後でいい、とりあえず家に帰れ、だそうです』
『国立です。お気遣いありがとうございました。お言葉に甘えまして、本日は先に失礼します』
そして、花本先生の返事を入力し、送信した。
柴田と武田の件について多崎校長が対応するのであれば、もう私がすることは残っていない。あとはインフルエンザかどうか確認するために病院に行き、さっさと身体を治して、仕事に復帰するばかりだ。
携帯を助手席に置いてあったボストンバックに放り投げると、ポケットからキーを取り出し、車のグニッションに点火した。エンジンが鼓動する。サイドブレーキを解除し、ギアをドライブに入れようとした、ちょうどそのときだった。
エンジンのものとは違う振動が、どこかから伝わってくる。視界の端で点滅する携帯画面。メッセージの受信を、その身で訴えていた。
花本先生だろうかと考えながら携帯を拾いあげると、知らない連絡先が提示されていた。
『月島です。大丈夫ですか?』
簡潔に、そう
サイドブレーキをかけ直しエンジンを止める。
『大丈夫だ。どうして私の連絡先を知っているんだ?』
携帯端末に返事をする。
『ごめんなさい』
『どうして謝るんだ?』
『国立先生の携帯を勝手に見ました。あの雨の日です』
あのときか。薄暗く湿った情景がありありと蘇ってくる。
ボストンバッグに携帯をしまい込んでいるのを忘れたまま、校長室に放置したときだ。
『見てしまったものは仕方ないが、今後は控えてくれ。親しきなかにも礼儀あり。夫婦でもプライベートには干渉しないものだ』
『ごめんなさい』
『分かったのなら十分だ』
月島はいつもの月島のようだった。携帯経由ということもあってか挑発的な態度がない。私はこのやりとりに安心していた。
『遠征は、花本先生が一緒だったんですか?』
安心したのもつかの間。いきなり月島は話題を変えてくる。
『そうだ』
私は素っ気なく応じる。あまりこの話を広げてはよくない。さきほどの騒動に油を注ぐようなものだ。月島とのメッセージのやり取りが進んでは困る。
そう思いながらも他方で私は、携帯でメッセージをやりとりする感覚を懐かしく思っていた。大学時代は、好きな相手からの返信が待ち遠しかったものだ。今みたいに手持ち
『月島は普段から、こんな風にメールするのか? 文体が丁寧というか、シンプルというか』
私の指先は、自分が思うよりもずっと速く、入力・送信を終えていた。
『先生は友だちみたいなのが好きですか? 国立先生だから気を遣ってみました』
読むよりも速く聞こえてくる。
まるで月島が耳元でささやいているようだった。
「先生は友だちみたいなのが好きですか?」
すると突然、くぐもった声が聞こえてきた。
車の外を見ると、月島がウィンドウをこんこんと叩いている。笑いを噛み殺したような顔で、窓越しにこちらをうかがっている。
「よくここが分かったな」
ウィンドウを開け、「吹奏楽部はどうした?」と質問を向ける。
「門田さんがいないので、今日はお休みにします」
「いない?」
「先生の婚約を宣伝するのに忙しくしています」
「まだやってるのか……」
月島は助手席を指差し「入れてください」と反対側に回ってきた。ばたん、というドアの音がしたかと思うと、もう膝にボストンバッグを抱えて座っている月島の姿があった。
「先生は驚かないんですね、避難場所を発見されたのに」
「お前は頭がいいからな。最初から見当がついていたんだろう?」
月島は笑って語らない。楽しそうに身体を揺らす。これから絵本を読んでもらう子どもみたいだ。
「今から先生の家に帰るんですよね? 連れていってください」
「お前はここに置いていく」
「自宅だと人目が気にならないので楽しみです」
「先生が家に帰るときは、お前が車を降りるときだ」
「だったら先に帰っててください。あとでお邪魔します」
はぁ、と落胆する。月島はいつもの月島ではなかった。弁舌の鋭い、いやらしい性格の月島のほうだ。これでは説得は望めないだろう。
「少し、話をしないか?」
私はリクライニングを倒し、ウィンドウを閉じた。
説得できないのなら別の話をすればいい。屋上のことで聞きたいことがある。
「いくらで買います?」
月島は余裕の返事だった。
「頭のよさなら高く買っているつもりだがな」
「身体が高くて買えないのなら、無料でお試ししますか?」
「安売りは感心しない。門田が心配するぞ?」
門田、という単語にすぐさま全身を硬直させる月島。息を呑み、じっと私の顔を見つめてくる。
「門田に教えてもらった。例の援助交際が、お前たちの作り話だってな」
月島の表情は、ぴくりとも動かなかった。私の言葉にもすぐに突っかかってこない。だが、この沈黙は動揺を示している。もう一押しだ。
「佐々岡とも話をした。お前に用事はない、と月島に追い返されたってな」
「……そうですか」
「もう分かっただろう。お前の準備したことは全部ばれている。どうしてこんなことをしたのか、そろそろ教えてはくれないか?」
「仕方、ないですね」
月島は観念すると、ウィンドウ越しの景色へと視線を投げる。
「話をしてみたかった、それだけですよ」
「なぜ嘘をついた?」
「私を構ってくれる理由がいるからです。生徒大多数のうち1名だと、お仕事モードでしか接してくれませんから」
「そこまでして何を話したかったんだ?」
「人生ってどうしてこんなに退屈なんだろう、意味がないんだろうって、ずっと先生は思っていますよね」
月島の質問に、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
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