第4節 ウサギ=アヒル図
「先生、国立一弥さんがキャンセルです」
大森心療内科の受付が、かかりつけ医に伝える。
「ん」
診察室の
国立一弥が不眠治療でここに来るようになって、すでに1年が経過しいている。一定周期で訪れる彼に、睡眠薬を処方しているが改善の兆しはない。セロトニンを増やす薬を処方したこともあったが、眠たくなって仕事にならないと本人が嫌がったため止めている。
血液検査に異常はない。
ただし血糖値や赤血球の値が低く、白血球の数も多い。肝機能も
とにかく自覚がない。健康も友人関係もいつ壊れるか分からない状況だというのに。
(仕事は楽しいのですけど、続けていないと不安なんですよね)
この間の診察でそうこぼしていた。
強迫スペクトラム障害の線も考えたが、強迫観念による同一行為の反復が見られない。あくまでも本人の訴えは不眠。仕事についての不満は聞いたことがない。
それでも仕事が原因だろうと子守は睨んでいた。仕事について語る姿が、どう見ても嘘をついているようにしか見えなかったからだ。怯えているようにすら映る。何が怖いのか。仕事をしていないと社会的評価が落ちることか。それとも収入が安定しなくなることか。
(怖いんです。またあの夢を見るんじゃないかって)
(夢?)
(はい。色も、かたちも、上下も、左右もない、空間に放り出されるんです、毎日。何もなくて苦しくて、そこから出してくれって私は叫んでるんです)
「何もなくて苦しい夢、な」
――仕事を続けてないと不安、何もなくて苦しい――
頭のなかで国立一弥の台詞を
「おい、ちょっと来い」
その姿勢のまま受付を診察室に呼ぶ。「何でしょうか、心愛先生」と不思議そうに返事をしながら入ってくる。
「だから、その名前で呼ぶんじゃないと言っただろ」
「どうしてですか? 可愛らしくていい名前ですよ、心愛って」
子守医師は頭をくしゃくしゃとかきむしる。下の名前は、理知的で見目麗しく男前な性格の彼女にとって唯一の弱点だった。「くそ、ひらめきを忘れたらどうするんだ馬鹿野郎」と悪態をつくと、「教えてくれ」と本題に入った。
「この仕事をしていて面白いと感じているか?」
「ええ、とても――」
「笑えない冗談だぞ。こんな薄給と労働時間でどこが面白いのか」
「うふふ、先生も酷いですね」
受付の彼女は、心愛という名前は笑えるのにな、と内心ほくそ笑む。そして「そうですね、嘘ですね」とあっさり本音を白状した。
「本当のことを言えば、仕事なんてせずに遊んでたいですよ、そりゃ。無駄話してないと、受付なんてつまらないですし」
「んふふ、その通りだな」
子守は満足そうに頬を緩ませる。
「でも、遊びで没頭できるものがなくなったら、多分、仕事を再開すると思いますよ」
「ほう? どうしてだ?」
「だって退屈じゃないですか、やりがいがないと」
「なるほど、やりがい、な」
今度は医者が腕を組む。手首の腕時計を確認し「着信履歴でいいか」とつぶやいた。
「今すぐ国立の先生様に連絡してくれ。早く来い、大事な話があるからって」
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