第2節 フレーザー錯視

「本当にお世話になりました」

 私はゆっくりと頭を下げて感謝する。

「いえ、気になさらないでください」

 丸机を挟んで反対側。花本先生が優雅に微笑んでいた。

 週末の日曜日。

 私と花本先生は、男子バレー部の引率を終え、岡山駅近くの喫茶店でのんびりしている。

 土曜日の夕方から移動し、宿泊先で前泊してから、翌日の日曜日に練習試合を行う。練習試合終了後、チャーターしたバスが岡山駅まで私たちを運んで、そこで解散という流れ。練習試合は圧勝であり、インターハイの不安材料であったサーブミスも目立たなかった。いい弾みになっただろう。

(国立先生、お時間ありますか?)

 岡山駅から帰ろうとすると、花本先生のほうから声をかけてきた。2人だけのささやかな祝賀会をしませんか、と。私は予約していた大森心療内科をキャンセルし、二つ返事で承諾した。

「国立先生の本気を拝見したかったのですが」

「……いや、その、あはは」

 祝賀会は柳川通りで2時間程度行われたのだが、すでに私は惨敗したあとだ。

(今夜はどこまでもお付き合いします!)

 駅のロータリー近辺で豪語していた自分が懐かしい。

 今日こそ酒では負けないと腹をくくってきたはずなのに。浴びるように飲み続ける花本先生を、寂しく眺めることしかできなかった。醜と美は共存可能だと学ぶ。

 こうして私の酔い覚ましのために喫茶店に入っている、というわけだ。

 気どった洋楽のBGMが流れる店内。いちゃつく若いカップルのおしゃべり、酔ったサラリーマンの愚痴ぐち、大学生がせわしなくキーボードを叩く音が、店内を賑やかす。

「月島霧子さんとは、どんな関係にあるのですか?」

 花本先生の質問が、心地よいBGMの流れを不意に遮断する。

「大雨の日に一泊されたそうですね。あれから彼女を見かけませんし、何かあったのですか?」

「花本先生にそういった台詞は似合いませんよ……」

「月島さんは大人っぽいですよね。彼女のお友だちによれば、国立先生のことが好きみたいです。もし先生が本気になれば、ね?」

「いやあ、先生も酔っ払っておいでのようですね……」

「いいえ?」

 花本先生は絶妙な角度で首を傾げる。

「でも国立先生は女子高生がお好きなんでしょう?」

「香川先生の話を信じてはいけません、お水と焼酎しょうちゅうくらい真相からかけ離れていますから、ええ」

「ほとんど真実と見なしてもいい、という意味ですか?」

「わ、私にとっては生死を分かつほどの違いって意味ですっ!」

 ふふふ、と花本先生は肩を揺らす。

「すみません、先生の反応が面白くて、つい」

「つい、で仕事はしないって約束だったじゃないですか……」

「ごめんなさい、つい」

 それでも先生は、くすくすと口に手を当てて笑っていた。

「意地悪ついでにお聞きしたいのですが、国立先生はご結婚は考えておられますか?」

 花本先生は抹茶ラテのストローをくわえると、頬を膨らませた。

「する気はあるのですが、難しいことばかりで」

「女子高生――」

「と結婚したいけど世間体が気になる、とかいう意味ではまったくありません」

 またもや花本先生はくすくす笑う。一体、このネタはどこまで続くのだろうか……。

 私も紙コップを握って、珈琲コーヒーを口に入れた。花本先生に声をかけられずに困っています、と言えるはずもなく。もごもごと苦い液体を口内で転がす。

「意中の女性がいらっしゃるのです?」

「ええ、まあ、そんなところです……」

 店内のBGMが大きくなる。今流れているのはクラシックだろうか。大森心療内科で聞いたことがある。

「……国立先生ならば大丈夫ですよ。かっこいいですし、お仕事もきっちりされている。お優しい性格なのですから、どんな女性でもかれてしまいますよ」

「大変もったいないお言葉です……」

 正直、花本先生の言葉は嬉しかった。少なからず好意的に思われていることが分かるから。だが反面、他人事のような評価ぶりに裏寂しい気分にもなる。

「花本先生はどうなんですか?」

 曇った表情を悟られまいと、明るく質問する。「先生こそ、引く手あまたでしょう」と続ける。

 すると態度は一転して、物憂げな仕草で片肘をついた。

「実は、気になっている人がいるんです――」

「え」

 手にしていた紙コップが床に引っ張られていった。先生が慌てて「大丈夫ですか?」と近寄ってくることで、ようやく珈琲をこぼしたことに気づく。一緒になって珈琲を拭き終え、席に戻る。

「とても忙しい方なんです。距離を縮める余裕すらなくて。私も忙しいから、毎日のように歯がゆい思いをしているところです」

「……そうでしたか」

 拾いあげるときに手にした紙コップが、手から離れない。

 花本先生には、すでに意中の人がいる……。

 意識に霞がかかってくる。花本先生にも結婚を考えている人がいたのか。当然といえば当然だ。これだけの美人で性格もよいのだから……。

「あちらも私のことを想ってくれているみたいなのですが仕事人間なんですよ。それだけじゃなくて、非常に困った問題がありまして」

「問題、ですか……?」

「お酒が駄目なんです」

 破顔一笑。見たこともないような笑顔の花本先生があった。

「ついこの間も飲んだのですが、すぐに酔いつぶれてしまって。途中から分子レベルで見れば人間は一緒だとか、変なことばかり言うようになって」

「……え、はい?」

「ただのお水で酔っ払うんですよ。酷いと思いませんか?」

 理解が追いつかない。理性を置き去りにしたまま、都合のよい物語が刻まれる。たしか慰労会で水分子の話をしたはず。つまり花本先生の好きな人は……私? 両想いの関係にある、と。

「そんなに笑わないでください。実話なのですから」

「……笑ってます、私?」

「はい」

 紙コップから指先を剥がし、そのまま両頬へと移動させる。口角はたしかにあがっていた。

「原子レベルで見れば、人間もお酒もないと思うのですが……」

「原子じゃなくて分子ですよ、国立先生」

 いやいや、そんなことはどうでもいい。

 これは、つまり、どういうことだ……? 花本先生の話題は、やっぱり慰労会のもので間違いない。

「どうしたらいいと思いますか? 奥手の男性とお付き合いするのって」

「……ど、どうもしなくて、いいと思います。花本先生なら相手も迷わないでしょう」

「本当ですか?」

「あ……、は、はい……。その人が私だったら、間違いなくそう考えると思うので……」

 私はとんでもないことを口走ってしまったんじゃないか。

 これでは自分が好きだと伝えているも同然なのでは。花本先生が好きな人は、やっぱり、いや、でも、そんなはずが……。

「だとしたらまどろっこしいですね、お互いに好きなのに」

 花本先生はやはり美しい笑顔の人だった。


 喫茶店の外は、すでに深夜の色に染まっていた。

 私たちは岡山駅を目指して歩んでいる。鼻歌まじりに夜空を見上げる花本先生と、その後ろに続く私。

「あ、あの」

 このままではいけない。何かに突き動かされるように私は呼びかける。だが、定期的にアスファルトを打つヒールの音にかき消えてしまう。

「あの、花本先生」

 私はアスファルトを強く踏みしめ、ヒールの音を消そうとした。

 花本先生は歩くのを止めるが、ぽっかりと浮かぶお月様を見上げたまま動かない。

「さっきの話なんですけれど」

 すぐさま彼女に追いつき真横に立つ。

 あごからのどにかけての曲線フォルムが織りなす整った形に、思わず息を呑んだ。

 言葉が出ない。だが、ここで言わないと二度と機会は訪れない。そんな気がする。

「結婚を前提に、付き合ってはいただけないでしょうか」

 開けたままの口に吹き込んでくるる夜風を、追い返すように私はしゃべった。

 先生は顎をわずかに引き、どことなく前を見ている。反応はない。私の脇から汗がしたたり落ちてくる。

「週末は時間を作るようにします。部活指導もペース配分を考えま――」

「それだけ、ですか?」

 彼女は月を見上げた。「え、ええと」と動揺の言葉が落ちてくる。

「たっ、誕生日や記念日は必ずプレゼントをします。それから……、先生との時間を作って、家事は私がして、お給料も振り込んで――」

「お酒」

 花本先生はもたつく私を制した。「飲めるようになってください」と要求する。

「は、お酒、ですか……?」

「はい。それが必要最低条件です」

「わ……、分かりました!」

 自分の口角が自ずから上がっていく。花本先生が私のプロポーズを受け入れたのだという実感が、じわりと込みあげてくる。

「プレゼントは当然いただきます。あと、いつでもどこでも、私の話し相手になってください。私の要求に応じて」

「はいっ!」

 花本先生はようやく私のほうを見た。彼女のほほをきらきらと光る滴が伝った。

「あんなにサインを送ったのに、どうして今さらなんですか。鈍いにもほどがあります」

「ごめんなさい……」

「責任は取ってもらいますからね」

 私が頭を垂れていると、腕に圧力を感じた。

 そこには腕を組みながら身体を寄せてくる花本先生の笑顔があった。それは嫣然えんぜんとしたものではなく、大きく口元を緩ませているものだった。

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