第1節 雨の牢獄
「はい、はい、ありがとうございます。当日はよろしくお願いします」
私は、受話器ごしに頭を何度も下げてから、備えつけの電話を切る。バレー部の練習試合相手の担当者との打ち合わせを終えたところだった。
「んー」
背伸びをすると、ぽきぽきと肩の骨が
天候の悪化を恐れて、すでに他の先生は帰宅していたが、窓の外では、しとしとと雨が景色を濡らしている。
「大雨、ではないな」
これなら仕事に専念できる。込みあげてくる欠伸を
1つ手にとっては、丁寧にコメントを考え、赤ペンで書き込む。
さらに1つ手にとっては、またコメントを考え、赤ペンで書き込む。
さらにもう1つ手にとっては、別のコメントを考え、赤ペンで書き込む。
生徒指導の一環として始めた学級ノート。たかが数十人だというのにコメント返しの時間が、無限にも長く感じられる。
『せんせ、結婚相手はいっぱいいるよ』
少しずつ遠のいていた意識が、門田のノートによって息を吹き返す。
『月ちゃんの噂話はどうなりましたか?』
そして最も若いページには、そう書かれていた。
門田の依頼からしばらくが経っている。ずっと調査し続けているが、どのクラスでも噂話について知っているような生徒はいなかった。
『噂の出所はよく分からなかった。ただ嘘だという状況証拠ならあった』
そうコメントを返す。きっちりと援助交際の話が嘘だと言うためには、佐々岡と月島に話を聞かなければならないのだが。
『ずっと学校を休んですみません』
佐々岡のノートに書かれている最後のコメント。
屋上ですれ違ってから、まだ学校で見ていない。ご両親は悩んでいるようだと電話で教えてくれたが、落ち込むようなことがあったのだろうか。
『無理はするな。いつでも相談にのるぞ』
佐々岡への返事を記入する。
事実関係を調べようにも当人不在の状態が続いていた。それでも噂話について、できることはもう1つ残っている。
『屋上で待ってます』
ほとんどの空白のノートに、その一言が添えられていた。月島のノートだ。
屋上には、あの日以降訪れていない。月島のほうに変化はない。いつものように大人しく、門田と一緒に行動している。噂話を気にする風でもない。
――先生は援交したくて屋上に来たんですよね――
月島の台詞。私のことを
ぱたん、とノートを閉じて、私は窓の外を見た。
「帰るか」
すっかり冷め切っていた飲み残しのコーヒーを流し込んだ、ちょうどその時。
窓の外で、強烈な光が
職員室の照明がちかちかと点滅する。何が起きたのか不思議に思っていると、どおん、という重く鈍い衝撃音が響いてきた。かたかたと窓ガラスが小刻みに揺れ、いっせいに雨が振り始める。その勢いは強く、屋根を打ちつけるたびに、ばちばちと強烈な音を立てていた。
(今日は夕方から大雨みたいです。警報は出ていませんが早めに帰ったほうがよさそうですよ)
警報が出ていないなんて嘘だろう。これだけの雨量なのに。
帰れるのかと心配しながら豪雨を眺めていると、ふと、あることに気づいた。
――生徒たちは下校し終えているだろうか。
さすがにこの時間まで学校にいないとは思うが、万が一ということもある。
私はとるものもとりあえず、職員室を出て、すでに水浸しとなっていた廊下を駆けていった。
「誰もいなかったな」
体育館から戻りながら独り言がこぼれる。
学校中を歩き回ったが、どこにも人の気配はなかった。屋上や守衛室に寄ってみたが、入口には鍵がかかっていた。もう私だけらしい。
となれば長居は無用。職員室に戻って荷物をまとめて帰ろう。そう考えながら下駄箱のまえを通過したときだった。
下駄箱の向こう、正門前。
雨の
間違いない。誰かが立っている。私は下駄箱のひさしまで移動した。
「おーい、こっちに来るんだ」
大声で呼びかける、が、反応はない。雨のカーテンに声を
仕方がない。もし
「大丈夫か!? 校舎に入れるか!?」
ようやくその場所に到着し、大声で叫んだ。片腕で雨をしのいで視界を確保しながらだったため、相手の顔は分からない。ただ足元に苫田高校の制服のスカートが見える。私はその人物の手を握り、校舎まで走ろうとした。その瞬間だった。
――慌てなくても大丈夫ですよ、国立先生――
抑揚のない声がなぜか耳に入ってきた。どこかで感じたことのある香りに全身が包まれる。私は握っていた手を放した。
「……月島か?」
絞り出されたか細い声は、轟音の滝にかき消える。それでもその人物は私の手を握り返してきた。
そして私は促されるまま下駄箱へと戻っていった。
「国立先生、こんばんは」
ひさしの下でも手を握ったまま、その人物はしゃべった。
びしょ濡れの姿ではあったが、たしかに月島霧子がそこに立っていた。こんな大雨に打たれたというのに、いつもの無表情を維持している。薄っすらとシャツの上から下着の色が透けている。
「どうしてあんなことした。心配するだろう」
「先生に心配されたかったからです」
「また、お得意の冗談か……」
「冗談ではありません」
「そういう言い方を、世間では冗談と言うんだ」
私は彼女の手を振りほどいた。
「……とにかく、このままでは風邪を引いてしまう。職員室に戻るぞ」
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