第1節 雨の牢獄

「はい、はい、ありがとうございます。当日はよろしくお願いします」

 私は、受話器ごしに頭を何度も下げてから、備えつけの電話を切る。バレー部の練習試合相手の担当者との打ち合わせを終えたところだった。

「んー」

 背伸びをすると、ぽきぽきと肩の骨がきしんだ。職員室の壁かけ時計を見れば、もう時刻は21時を過ぎていた。

 天候の悪化を恐れて、すでに他の先生は帰宅していたが、窓の外では、しとしとと雨が景色を濡らしている。

「大雨、ではないな」

 これなら仕事に専念できる。込みあげてくる欠伸をみ殺しながら、デスクの上で山積みの学級ノートに手を伸ばした。学級ノートとは、生徒との交換日記のようなもので、2年2組全員分の冊数がある。いつでも自分のノートには好きな内容を書くことができ、私がそれにコメントを返すシステムになっている。

 1つ手にとっては、丁寧にコメントを考え、赤ペンで書き込む。

 さらに1つ手にとっては、またコメントを考え、赤ペンで書き込む。

 さらにもう1つ手にとっては、別のコメントを考え、赤ペンで書き込む。

 生徒指導の一環として始めた学級ノート。たかが数十人だというのにコメント返しの時間が、無限にも長く感じられる。

『せんせ、結婚相手はいっぱいいるよ』

 少しずつ遠のいていた意識が、門田のノートによって息を吹き返す。

『月ちゃんの噂話はどうなりましたか?』

 そして最も若いページには、そう書かれていた。

 門田の依頼からしばらくが経っている。ずっと調査し続けているが、どのクラスでも噂話について知っているような生徒はいなかった。

『噂の出所はよく分からなかった。ただ嘘だという状況証拠ならあった』

 そうコメントを返す。きっちりと援助交際の話が嘘だと言うためには、佐々岡と月島に話を聞かなければならないのだが。

『ずっと学校を休んですみません』

 佐々岡のノートに書かれている最後のコメント。

 屋上ですれ違ってから、まだ学校で見ていない。ご両親は悩んでいるようだと電話で教えてくれたが、落ち込むようなことがあったのだろうか。

『無理はするな。いつでも相談にのるぞ』

 佐々岡への返事を記入する。

 事実関係を調べようにも当人不在の状態が続いていた。それでも噂話について、できることはもう1つ残っている。

『屋上で待ってます』

 ほとんどの空白のノートに、その一言が添えられていた。月島のノートだ。

 屋上には、あの日以降訪れていない。月島のほうに変化はない。いつものように大人しく、門田と一緒に行動している。噂話を気にする風でもない。

 ――先生は援交したくて屋上に来たんですよね――

 月島の台詞。私のことを自嘲じちょう気味にからかったのか。だが、それにしては、あのときの月島は……。

 ぱたん、とノートを閉じて、私は窓の外を見た。

「帰るか」

 すっかり冷め切っていた飲み残しのコーヒーを流し込んだ、ちょうどその時。

 窓の外で、強烈な光がまたたいた。

 職員室の照明がちかちかと点滅する。何が起きたのか不思議に思っていると、どおん、という重く鈍い衝撃音が響いてきた。かたかたと窓ガラスが小刻みに揺れ、いっせいに雨が振り始める。その勢いは強く、屋根を打ちつけるたびに、ばちばちと強烈な音を立てていた。

(今日は夕方から大雨みたいです。警報は出ていませんが早めに帰ったほうがよさそうですよ)

 警報が出ていないなんて嘘だろう。これだけの雨量なのに。

 帰れるのかと心配しながら豪雨を眺めていると、ふと、あることに気づいた。

 ――生徒たちは下校し終えているだろうか。

 さすがにこの時間まで学校にいないとは思うが、万が一ということもある。

 私はとるものもとりあえず、職員室を出て、すでに水浸しとなっていた廊下を駆けていった。


「誰もいなかったな」

 体育館から戻りながら独り言がこぼれる。

 学校中を歩き回ったが、どこにも人の気配はなかった。屋上や守衛室に寄ってみたが、入口には鍵がかかっていた。もう私だけらしい。

 となれば長居は無用。職員室に戻って荷物をまとめて帰ろう。そう考えながら下駄箱のまえを通過したときだった。

 下駄箱の向こう、正門前。

 雨の絨毯爆撃じゅうだんばくげきのなかに、ぼう、という存在の気配を感じた。

 間違いない。誰かが立っている。私は下駄箱のひさしまで移動した。

「おーい、こっちに来るんだ」

 大声で呼びかける、が、反応はない。雨のカーテンに声をさえぎられてしまったのかもしれない。「おーい」ともう一度呼びかけてみたが、やはり応答はなかった。

 仕方がない。もし怪我けがで動けないのであれば一大事だ。息をゆっくり長く吐いてから、吸い、軽く息を止めると、私は正門前めがけて駆け出していった。ひさしを出た途端、木刀で殴られるような痛みが全身を襲う。雨の煙幕に包まれながら、背中を丸め、頭を低くし、痛みを本能的に回避する。

「大丈夫か!? 校舎に入れるか!?」

 ようやくその場所に到着し、大声で叫んだ。片腕で雨をしのいで視界を確保しながらだったため、相手の顔は分からない。ただ足元に苫田高校の制服のスカートが見える。私はその人物の手を握り、校舎まで走ろうとした。その瞬間だった。

 ――慌てなくても大丈夫ですよ、国立先生――

 抑揚のない声がなぜか耳に入ってきた。どこかで感じたことのある香りに全身が包まれる。私は握っていた手を放した。

「……月島か?」

 絞り出されたか細い声は、轟音の滝にかき消える。それでもその人物は私の手を握り返してきた。

そして私は促されるまま下駄箱へと戻っていった。

「国立先生、こんばんは」

 ひさしの下でも手を握ったまま、その人物はしゃべった。

 びしょ濡れの姿ではあったが、たしかに月島霧子がそこに立っていた。こんな大雨に打たれたというのに、いつもの無表情を維持している。薄っすらとシャツの上から下着の色が透けている。

「どうしてあんなことした。心配するだろう」

「先生に心配されたかったからです」

「また、お得意の冗談か……」

「冗談ではありません」

「そういう言い方を、世間では冗談と言うんだ」

 私は彼女の手を振りほどいた。

「……とにかく、このままでは風邪を引いてしまう。職員室に戻るぞ」

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