第2節 鼬ごっこが終わるまで

 職員室へと続く廊下。

 水たまりを鈍く、規則的にかき分ける、2人分の足音。

「どうして屋上に来てくれなかったんですか?」

「すまん。中間試験で頭がいっぱいだった」

 ばちゃばちゃ、と水たまりをかき分けながら、私は進む方向だけを見ていた。月島は同じ方向を見ながら、口をつぐんで私の返事を待つ。校舎内に水音が反響する。

「本当に中間試験のことですか? 花本先生のことじゃなくて?」

「お前は――」

「冗談を言っているのは先生のほうですよ」

 とっさに月島を見ると、その無表情な顔にしわが走っていた。月島は怒っている。そう思った。

「……本当にすまない。約束を破って悪かった」

 ばちゃり。水音が止まると、私たちの前に職員室の扉が見えてきた。

 私は黙ったまま扉を開けて月島を招き入れる。彼女は珍しそうに室内を観察しながら足を入れた。そしてすぐに私のデスクまで移動していった。私も続き、デスクの足元に置いてあったボストンバッグからタオルとジャージの上下を引っ張り出す。

「これを使ったらいい」

 背中を向けている月島の頭に、タオルをかぶせた。

 すると月島は、シャツのボタンをつまみ、慣れた動きで外し始める。すぐさまスカートのホックにも手を伸ばした。

「待て待て!」

 私は慌てて、タオル越しに頭を押さえた。「いきなり脱ぐことはないだろう」

「なぜですか?」

 独楽こまの要領で、頭を押さえられたまま、月島はこちらを向いた。

 息を呑んだ。ぐっちょりと濡れているシャツをまとった上半身には、大きな双丘が見える。しなびた襟が鎖骨に貼りつき、ホックの取れたスカートは脱げかけの状態で下着を見せていた。

「はしたない格好をするんじゃない」

 今度は、私が身体の向きを180度回転させる番だった。

「濡れて気持ち悪かったんです」

 背後から衣擦きぬずれの音が、とぎれとぎれに聞こえてくる。しばらく沈黙が流れたあと、「お待たせしました」という合図があった。ゆっくりと向きを戻すと、ぶかぶかのジャージ姿の月島が立っていた。

「先生、きれいな身体なんですね」

「……あ、ん?」

「細くて締まっている、という意味です」

 返事にまごついていると、月島はあざとく視線を腰回りにまとわりつかせてくる。シャツやズボンが身体に張りついていたのは私も同じだった。

「いやらしいな、どこを見ていたんだ」

「お尻と腰です」

「そんなに先生の身体が珍しいのか?」

「はい、とっても」

 月島は表情を崩す。つぶらな瞳は細く引かれ、わずかに口角をあげ、えくぼを浮かべた。

 私はしかめっ面をすることで返事をする。月島は「せっかく眉間みけんしわがとれていたのに」と顔を指差してきた。

「月島はこの部屋に残っててくれ。先生は校長室に行ってくる」

「どうしてですか?」

「先生も着替えたいからな。このままだと風邪を引く」

「ここで着替えても私は気にしませんよ?」

「こう見えてデリケートなんだ。観察されながら着替えるのには抵抗感がある」

 私は足元のボストンバッグを拾い、職員室の奥に保管されている校長室のスペアキーを手にすると、そのまま部屋を出た。


 ぱちり。

 校長室に入って明かりを灯す。大きな応接用の皮張りソファ2台が、部屋の中央にある机を挟むように配置されている風景や、歴代校長の顔写真が目に飛び込んできた。私は机にバッグを置き、衣類を脱いで全身をき始める。

 ――着替えはない、か。

 すでにジャージは月島に貸している。シャツとズボンの水気を絞ってもう一度着るしかない。私は無造作に脱ぎ捨てていたシャツに手を伸ばす。

 がたがたっ。

 いきなり激しい物音がした。おずおずと手を引っ込めて、音のした方向を見ると、風雨に窓ガラスが揺さぶられていた。安堵あんどして再び手を伸ばそうとする。

「どうして屋上に来てくれなかったんですか?」

 がたがたという音に、月島の声が聞こえてきた。驚いて顔を上げると、入口に彼女が立っている。

「それは、さっき説明した通りだ」

「でも私だけ、学級ノートにコメントがありませんでした」

「見たのか……」

 月島は、はい、と返事をしてゆっくり近寄ってくる。

「ちょうど書こうと思っていたら、急に大雨が降ってきて……」

「なんて書くつもりだったんですか?」

 中間試験が忙しかったせいだと書くつもりだったとは言わせない。月島の顔はそう物語っている。

 大雨が降ったからというのは嘘だった。たしかに私はあのとき躊躇ちゅうちょした。書きたいことは書くべきではないと思って。

「どうして月島が屋上にいるんだ、援交は本当なのか――先生が書きたかったのは、そういうことじゃないんですか?」

「そ、そんなわけ――」

「もしそうなら私はこう書いて答えます」

 言葉を失い、返事に困り、唖然あぜんとしている私を無視して、月島は話し続ける。

「先生に買ってもらいたくて屋上で待ってました」

 月島は、もう目の前にいた。その顔にはすでに表情が戻っており、にやぁ、とおねだりするように笑っている。

に戻れば、また屋上に来てくれると思っていたのに、でも違った。だから今日はいつもの月島を止めます」

 ぶかぶかのジャージ姿に身を包む月島。胸元にできた大きな隙間すきまから、その奥が見えてしまっているのに、彼女はたわみを塞ごうとしない。

「屋上でなくてもいいんです。2人だけになれるのなら」

 その瞬間、月島が私に触れた。

 私はからかわれている。月島のペースに呑まれている場合ではない。そう冷静に考えているはずなのに、屋上のときみたいに私の身体が拒否してくれない。

「おっ、お母さんに連絡はしたのか……?」

「はい。留守番電話にメッセージを残しました、学校に泊まるって」

「……泊まる?」

「はい。交通機関は麻痺まひしていますし、歩いて帰るのは危険です。この雨では先生だって車を動かすことはできません」

 窓ガラスとフレームが擦れる耳障りな音がする。ふわりとした眩暈めまいの感覚に襲われた。

「なら、月島はここのソファを使ってくれ。私は職員室に戻る」

「どうしてですか」

 月島の顔が一瞬だけ険しいものとなる。

「どういうつもりか知らないが――」

「先生に抱かれるつもりです」

 月島は話の途中でも主張してくる。だが、かまわず私は「どんな理由があっても、同じ部屋で一晩を過ごすことはできない」と最後まで言い切った。

「エアコンを使え。風邪を引かないようにな」

 私の手を握ろうとする月島を振り切って、私は校長室をあとにした。

 下唇を噛んでいる月島が、視界の端に見えたような気がした。

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