第5節 ざわつく屋上
屋上の扉に手を押し当てる。
ぎぃぃ、
その奥には、10メートル四方の空間と、それをぐるりと覆う
ぽつん。
そう形容するのが相応しいだろう。屋上空間の中央に女子生徒。その長い黒髪を、屋上に吹き込んでくる風に任せている。フェンスの
じり、じり。
自覚するよりも先に、私の足が黒髪にひかれていく。彼女めがけてまっすぐに近づいていく私の両足。あと少しで触れることができるという距離で、ばたん、と屋上の扉が閉まった。
「こんにちは、国立先生」
黒髪の女子生徒は、振り返ってそう言った。
「どうしてここにいるんですか?」
質問してきたその顔は月島霧子のものだった。想定外の存在。月島が屋上にいないことを確認するために訪れたはずなのに。
「き、気分転換だ」
言葉に詰まった私は、佐々岡のあの台詞をとっさに使った。
「わざわざこんなところに?」と、月島は面白そうに私の顔を覗きこんでいる。気分など転換されていないではないか、その顔は。そう黒くて大きな瞳がしゃべっていた。
「先生のことはどうでもいい。どうして月島がここにいるんだ?」と、私のほうから質問をする。表情をこれ以上読まれないために。
「私の質問には答えてくれないんですか?」
「先生の質問にも答えてくれないんだな?」
月島はきつく口を閉じる。私を置いて、その視線をフェンス越しの風景へと戻した。
「気分転換です」
お前が嘘をつくのなら私も嘘をつく。分かりやすい返事だった。
言葉に困った私は、無目的に足を動かした。ばりばり、とポテトチップスを踏み砕くような音が足元から聞こえてくる。壁の色と同じ、赤茶色の木の皮のようなものが転がっている。壁面の塗装が剥がれ落ちたもののようだ。
「……屋上にはよく来るのか?」
「来ません」
ばりばり。
「……勉強はどうだ? 部活は楽しいか?」
「いつもと一緒です」
ばりばり。
「……そう、か」
私は無駄な言葉を
「国立先生」
ばりばり。
背後から塗装の砕ける音が近づいてくる。
「こうやって先生とお話したいなって、ずっと思っていました」
ばり、という音で振り向くと、月島はすぐ後ろに立っていた。
「先生は『校舎の空白』という小説を読んだことあります?」
「読んだことはないが内容なら聞いたことがある。たしか女子が騒いでいたな」
渡りに船だ。月島から話題を振ってくれている。援助交際の真相を確かめるチャンス。
月島が話題にしている小説のストーリーはこうだ。
男性教員である主人公が、学校で猟奇的な犯罪を行っていき、最後には自殺してしまう。主人公の境遇が私に似ていたため、しばらく話題のネタにされたものだ。
「私、すごく嫌いなんです、あれ」
月島は、どことなく笑っているように見えた。
「主人公が悪いことをする理由に、ちっとも共感できません。サイコパスなんて浅はかなレッテル貼りが、作家が馬鹿だって自白しているみたいで。だって人間は、考え方がおかしかったり、性格が狂っていたりするから悪いことをするんじゃないのに」
「ということは?」
「退屈しているから、するんです」
月島は、にやぁと笑った。
口数の多い月島にも驚かされていたが、それよりもこんな笑い方をするほうが衝撃的だった。どこか悪意を
「毎日のように決まりきった生活。勉強も家庭も友だちも娯楽も代わり映えしない。どこかの誰かが用意したイベントばっかり。気晴らしが欲しいんです。この単調なリズムを崩す、強い刺激が」
「そ、そうか」
私はうまく返事をすることができなかった。
「けど、安定した生活を捨てる勇気はない。だから平和っていうルーティーンの拷問に耐えるしかない。他人の不幸を、安全圏から眺めることが、唯一の気晴らし。でも気晴らしにも満足できなくなって、もっと他人の不幸が見たくて、罪を犯す」
月島は私の横に移動し、フェンスを人差し指で挟んだ。
「先生は退屈じゃありませんか?」
「先生が犯罪者予備軍だと言いたいのか?」
「はい」
月島の顔を見ると、あの笑顔が漂っている。
「残念ながら、退屈する暇などないぞ」
私は笑顔を作ってみせた。彼女の余裕に対抗しようと。
「授業の準備、お前たちへの指導、部活での顧問。やることなら腐るほどある。とても給料に見合った仕事量とは言えないが、やり甲斐は十二分だ。この仕事に誇りを感じてもいる。それに退屈を感じるようになったとしても、罪を犯すなんて
「本当ですか?」
「ああ、間違いない」
「そういう嘘を言ってしまうのが、いかにも先生らしいですね」
すると月島は、赤さびの付いた人差し指を私のシャツに押し当ててきた。どうしてそんなことをするのか。びっくりする私を
「だから、いっそのこと女子高生を襲って、自宅に監禁したり、
一瞬の間、私の意識はどこにもなかった。
彼女の口から、援助交際について触れられたのだと気づくまで数秒かかった。
「先生は援交したくて屋上に来たんですよね?」
「……月島も、そんな冗談を言うんだな」
動揺をとり繕うように返事をする。まるで自分の言葉ではないみたいだ。
月島はシャツに触れたまま距離を縮める。鋭い黒曜石のようなつぶらな瞳(ひとみ)の埋め込まれた、かたちのよい顔。よく見れば、前髪には白髪が生えている。長い手足が身体にぶら下がっており、胸元には高校生らしからぬ膨らみがある。
「先生ならサービスします」
じわじわと近づいてくる月島。脇に抱えて持ってきていた教科書と出席簿がやけに重い。
彼女は指先に体重を乗せるように寄っかかってきたが、
「いい加減にしろ。怒るぞ」
私は彼女の肩をつかみ、強引に引き
「嬉しいです。私、いつか先生に怒られてみたいと思っていました」
「冗談は止せ。いつもの真面目な月島はどこに行った」
肩を握ったまま彼女の顔を
そこにあるのは余裕の笑み。その態度は変わらない。
「今日の月島は、変なことばかりしゃべっているぞ」
「おしゃべりな私は嫌いですか?」
「もう意地悪をしないでくれ」
「意地悪な私は嫌いですか?」
「嫌いとか、そういう話はしていない」
「なら好きですか?」
「いや、だからだな……」
これでは一向に
月島の一方的な会話に、私はうんざりしていた。
「分かった。先生の負けだ。今日はもう勘弁してくれ」と、片手を上げて降参のポーズをとる。「お願いだから、いつもの月島に戻ってくれ」と続けた。
「分かりました」
月島はそっけない返事をすると、いつもの無表情に戻った。ほっとしていると、「でも約束してください」と
「またここで私とお話してください」
「……分かった。約束しよう」
私が
「そのときまでに、
屋上の風に吹かれるように、彼女は姿を消した。
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