第4節 静かなお昼休み


「今日の数学はこれまで」

 私は、いつもの台詞で、長かった午前中の授業を終えた。ここは香川先生が担任をしている3年1組の教室。

「先生! 先生!」

 するとすぐに教卓を取り囲むように、数人の女子が近寄ってきた。「花ちゃんとは、どこまで進んだんですか?」と切り込んでくる。

「花ちゃんとは何だ。花本先生と呼ばないか」

「これは秘密なんですけど、花ちゃんはすっごいお酒が好きなんだって。一緒に飲みに行くとか、いいと思いますよ。花ちゃんも待ってるって」

 花ちゃん、花ちゃん。

 3年生ともなると、先生に対する態度も親しいものになってくる。

「先生は花ちゃんが好きなんですか?」

「さあな。お前たちの想像に任せる」

「絶対に秘密にするから、ね?」

「さっき花本先生の秘密を暴露したのは、どこの誰だったかな?」

「今度こそ黙っているから」

 あからさまに嘘と分かる態度で、彼女は食いさがってくる。

「黙っていると言いながら、裏でこそこそと噂話は広がるものだ。いい話も悪い話も」

「そんなことないし。みんな花ちゃんと国立先生のこと応援しているし」

「そうか? 先生の授業が厳しすぎるとか、誰と誰が付き合ったとか喧嘩(けんか)したとか別れたとか、援助交際をしているとか、言っていたりするんじゃないのか?」

「何それ」

 彼女が呆れて笑うと、その取り巻きの女子たちも笑い始める。

「先生、ネガティブ過ぎるって。昔付き合ってた人が忘れられなくて、女性不審とか?」

「ああ。昔、好きな女子にいじめられていたことはあっ――」

「まじまじ!? その話聞かせて!」

 1組の女子との雑談は、それから過去の恋愛経験におよび、私はひとしきり同情されたり笑われたりしたのだった。


 ――本当に月島は噂されているのか。

 3年1組をあとにした私は、さきほどの会話を思い出していた。

 こちらから売春について話題を振ってみたが、彼女たちに動揺する様子は見られなかった。クラス内全体も見回してみたが、特に動揺するような生徒はいなかったように思う。噂の発生源は、ここでも花本先生の担当している2年1組でもなさそうだ。

 ――さて。

 私の視線は、渡り廊下に見える中央の階段へ。屋上に行くための唯一の経路。

 ここの校舎の1階には1年生の教室、2階には2年生、そして3階には3年生の教室があり、各学年は3つのクラスに分かれている。4階部分はなく屋上になっている。したがって、屋上に向かうには3年生の目をかいくぐらないといけない。

 だが、ここを無事に移動できれば、現場である屋上に到着でき、そこで何も起きていないことを確認できる。

 どうか3年生に見つかりませんように。そう思って階段に向かう。

「あー、国立先生だ」

 階段を上ろうとしたところで3年生に呼び止められてしまう。私は何事もなかったかのように生徒の方を振り向く。

「今日はお昼食べていかないの?」

 昼食は授業を終えた教室で、生徒と一緒にとることにしている。いつもと異なる行動パターンを不思議に思われているかもしれない。

「急いでいる仕事があってな。職員室に戻らないといけないんだ」

「冷たいですねえ」

「中間試験の準備があってな。今日のところは勘弁してくれないか」

「冷たいですなあ」

 困った。彼女が諦めてくれない。

 日を改めることもできるが、できれば早いうちに屋上は点検しておきたい。それこそ中間試験の問題も完成していない。

「国立先生が困っておいでですよ」

 私が立ち往生していると、別のクラスから香川先生が近づいてきた。

 3年1組の担任でいわゆる理科を担当している。小太りな体型を持てあましているのか呼吸は浅く、自分の腹や手首を大切そうに触っている様子が印象的だ。

「うわ、香川じゃんか」

 彼女は表情をゆがめながら、香川先生に聞こえそうな声でそう言うと、そそくさと自分の教室に戻っていった。

「すみません香川先生、ご迷惑ばかりかけてしまって」

「私と違って人気者は大変ですな」

 先生はお腹をさすりながら、嫌味ともとれる台詞を言う。

「いえいえ、生徒に舐められてばかりで、香川先生のように威厳を持つことができずに苦労しています」

「まあまあ」

 香川先生はわずかにほほを緩ませる。「積もる話は慰労会で」と、先生は階段を降りていった。

 ――しめた。

 今なら周囲に誰もいない。屋上へと続く階段だけが、顔をのぞかせている。

 私は、階段を上り始めた。


 屋上へと続く階段のさきに、蝶番ちょうつがいやドアノブがびついた扉が見える。

 一歩、また一歩。あと数歩で手が届こうかというところで、ぎぃ、と扉がひとりでに開いた。

そこから姿を現した男子生徒が近づいてくる。一体誰だ。屋上へと注ぐ太陽光が逆光となって、その顔を識別することができない。

「国立先生、っすか」

 不意に呼ばれた名前。そして聞き覚えのある声。

「佐々岡か?」

 まぶしい逆光をかざした手でさえぎりつつ、その指の隙間すきまから顔を確認する。その一声で、お互いに歩みを止めた。

「屋上で何をしていたんだ?」

「……気分転換、です」

 アンニュイに輪をかけて不機嫌そうな返事をする。気分が転換されているようには思えない。

 どうして2年2組の人間である佐々岡が屋上にいるのか。そして屋上で何をしていたのか。明らかに嘘と分かる理由。どういうことだ。

「失礼します」

 湧きあがる疑問を振り切るように、私の脇を通っていって、佐々岡は階段を下りていった。

 すぐにでも追いかけていって真相を問いただしたいところだが順番が違う。まずは屋上に行って、そこに誰もいないことを確認しなければ。そうすれば自然と佐々岡への疑問も晴れる。

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