第1節 美女+野暮


 私は、職員室にある自分のデスクに腰をおろすと、ボストンバッグを脇へ置き、休止状態のPCを再起動させた。作りかけの中間試験問題が画面に蘇る。キーボードを叩き始めると、不意に欠伸がこぼれてきた。

「お疲れですね、国立先生」

 隣のデスクから心配する声がした。

「最近、寝不足が続いていて」

「根を詰めると疲れますよ。休むときは休まれないと」

「頭では分かっているのですが」

 私は作業の手を止め、彼女を見る。

「うちの部が、今年のインターハイに出場できるんです。毎日のように練習しないといけませんし、授業や学校行事もあります。生徒指導だって手を抜けません。だから、つい」

「私でよければ、いつでもお手伝いしますから。おっしゃってください」

 同情しつつも呆れたというニュアンスを込めて、彼女は微笑んだ。

 彼女は花本羽地はなもとはじという新任の先生だ。今年の春、依願退職された国語教員の後任人事として、大学卒業後すぐに赴任してきた。授業が丁寧で分かりやすいと評判だ。

「どうかされましたか?」

 花本先生はわずかに首を傾げた。

「あ、いえ」

 先生に見入っていました――などと言えるはずもない。私は説明にならない説明ではぐらかす。

 均整のとれた顔立ちは微笑んでいても同じ。男子生徒から絶大な支持が寄せられるというのもうなずける話だった。

「花本先生こそ、あまり無理されないでください」

 私は、下心を忍ばせた鼻の下を隠すように、さきほどの話題を振った。「先日も夜遅くまで教材研究をされていましたし、かなりお疲れではありませんか」と。

「まだまだ授業が下手ですから。準備だけでもしっかりしようとすると、つい」

「そう、つい、なんですよね、つい」

「あ、そうですね、つい、ですね」

 私も花本先生も可笑しくなって肩を揺らす。

「いつか、つい、は止めて早く帰りたいですね、お互いに」

 またも花本先生は柔らかく笑う。今度こそ見入っていることを指摘されてはいけない。話の切れ目を利用して、視線をパソコンへと戻そうとする。

 その瞬間。

 視界の端に入り込む彼女の左手。空白の薬指。

 花本先生はご家族と一緒に暮らしており、仕事一辺倒の日々を過ごしている。大学時代からの恋人とは別れてしまったが、今は充実している。そんな話をしたことがある。

 ――いつも私に声をかけてくれる。脈はあるはずだ。

 ならば一歩を踏み出せばいい。はずなのだが、職場が一緒なことと、お互い激務の波にさらわれていることもあって、それができない。

 視線こそ向けないが、私の意識は薬指に釘づけとなってしまっていた。

「いいのか? 花本先生を見たいんだろ?」

 不意にテノールの心地よい声に、耳障りな台詞が乗せられてきた。

 見れば、私のデスクに腰をかけて、不敵に笑っている人間がいる。面倒くさい人間に捕まったと運の悪さを呪う。

「私の仕事を邪魔しないでください」

の邪魔、の言い間違いじゃないのか?」

 その人物は、よれよれのネクタイを指先で遊びながら、子どものような瞳を向けてくる。

 この面倒な人間は多崎泰一たざきやすいち。ここの校長をしている。ぼさぼさ頭に、細長い手足とスマートな体躯たいくからは、とても50歳を過ぎていることなど想像できない。永遠の青少年という教職員評がぴったりだ。

 散歩と称しては校長室を空けて、生徒としゃべり歩く習慣がある。そのせいで顔が広く、生徒から「泰一」と呼び捨てにされている。

「かりかりするな。国立先生には、俺のように幸せになって欲しいんだよ」

「仕事がはかどると、私はとても幸せですね」

「仕事なんぞ真面目にやってもつまらんぞ?」

「真面目にやるから仕事は面白いんです」

「やれやれ、俺の幸せをお裾分けしてやるか」

 多崎校長は、シャツのポケットから携帯を取り出すと、そこに保存してある画像データを見せつけてくる。そこに映るっているのは、晴れ着に身を包んだ女性の姿。

「俺のパートナーに似て、めちゃくちゃ美人だろう? な?」

「そればっかりは、おっしゃるとおりだと思います」

 多崎校長の頬が緩む。そのまま地面に落ちてしまいそうだ。

 永遠の青少年にも、大学を卒業したばかりの愛娘がいる。「パートナー」と呼ばれている奥さんはここの卒業生であり、しかも多崎校長が担任していたクラスの女子生徒。結婚したのは30歳の頃だと聞いている。

「結婚はいいと思わないか?」

「慌てて結婚してゆっくり後悔する人もいるらしいですよ」

「子どもはもっといいもんだ」

「子どもなら毎日のように学校で面倒を見ていますね」

「女子高生はいいぞ」

「女子高生は犯罪です」

「じゃあ花本先生と結婚しろ。お前らの子どもが見てみたい」

「はぁっ?」「私とっ、ですかっ?」

 私と花本先生は、驚きの声をあげた。

 まったくもって困った校長先生だ。つい最近も、教員向けの講習でハラスメントについて学んだばかりだというのに。積極的にセクハラをして首にでもなりたいのだろうか。

「この感じだと、案外、すぐかもな」

 多崎校長は、勝ち誇った態度でデスクから立ちあがる。そのまま校長室に帰って欲しい。

「お、そういえば大事な話があった」

 多崎校長は携帯をポケットに収めながら「男子バレー部の遠征のことだ」と続ける。

「インターハイ出場のための長期遠征を許可した。試合会場のさいたま市までの移動手段など、必要なことはそっちでやってくれ」

 今年、男子バレー部ははじめてのインターハイ出場を果たす。

 これまでスポーツで結果を残したことのない苫田高校にとって、それは異例の事件であった。

「分かっているとは思うが、保護者への連絡、遠征マニュアルの作成、見積もりのコピーなんかも忘れるんじゃないぞ」

「はい」

 多崎校長にとっても、このインターハイの成果は気になるのだろう。

 私立学校の宿命か、生徒がいなくなると経営は破たんしてしまう。そうならないためには、保護者が進学させたくなるような学校にしなければならない。

 偏差値の高い大学への進学率、野球・サッカーなどスポーツの業績数。そういった目に見えるブランドが役に立つ。進学率は悪くないが、スポーツではからっきし。そんな苫田高校にとって男子バレー部の活躍は福音であった。

「あと引率には補助をつける。花本先生、そういうわけだ」

「……え」「……は、はい?」

 私たちの思考は展開についていけない。

「国立先生が困っている。花本先生は助けることができる。だから遠征についていく。以上だ」

「いっ、いや急にそんなことを言われても」「私、スポーツは詳しくありませんし……」

「これは校長命令だ」

 問答無用で交渉不可という意味だった。

 動揺し気落ちしている私たちに、多崎校長はにやりと口を斜めにする。

「選手たちが試合に出場し、活躍して、無事に帰ってくる。引率係の仕事はこれだけだ。引率にさいして生まれた自由時間に、2人が何をしようと構わない。いい機会だろう?」

 じゃあ頑張れよ、とネクタイを振りながら多崎校長は職員室を出ていった。

「…………」

「…………」

 残された私たちは沈黙を強いられる。一体、何を頑張れとその口は言うたか。

 それから放課後を迎えるまで、私と花本先生は、言葉を交わさずに過ごさなければいけなかった。

 おのれ、多崎。

 この恨み、晴らさずにおくべきか。

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