大将軍ダインベルト
(これは……ひどいな)
ウィルは口を半開きにしたまま、その奇妙な歌に耳を傾けていた。
男の歌声はリュートの伴奏とは全くかみ合わず、低音はかすれ、高音は上ずり、ほとんど音楽の体をなしていなかった。
目を閉じたまま表情だけは音楽に入り込んでいる様子だったが、やがて酔客の罵声に歌声がかき消され、ついに楽曲は中断せざるを得なくなった。
男はのっそりと立ち上がると、申し訳なさそうに何度も頭を下げ、大きな背を丸めてウィルの陣取るテーブルに近づいてきた。
「ダインベルト閣下、お久しぶりです!」
オルバスが急に立ち上がり、詩人らしき男に頭をさげた。
「ええと、君は……ああ、旋風のオルバス君だったかな」
「はい、その通りです。覚えてくれていたとは感激です」
「鉄槌公の早馬ですでに連絡は受けているよ。君が我が軍に加わってくれるなら、これほど心強いことはない。大北方戦争の折りにはずいぶんと世話になったからね」
「ところで、なぜここで詩人の真似事などを?」
「ああ、そのことか」
ダインベルトは灰色の短い頭髪を掻いた。面長な顔の中で細い目が笑うと、ひどく柔和な表情になる。
「今、吟唱呪というものを調べているのだが、私も一度この身で詩の力というものを体感してみようと思ってね。歌で人の心を動かすとはどういうことなのかと」
吟唱呪という言葉が出た途端、ウィルは表情を引き締めた。
「そこのお二人はどうかな。私の歌は、貴方方の心を揺さぶることができただろうか」
「え、ええ、たしかに心は動かされました。いろいろな意味で」
コーデリアは引きつった笑みをみせた。
「では本職の詩人に訊こう。私の歌はどうだったかな」
「なんと言いますか、独特な節回しでしたね。中原諸国では聞いたことのない歌い方のような……」
「いや、皆まで言わずともよい」
言葉を濁すウィルの前で、ダインベルトは少し寂しそうに首を振った。
「聴衆の反応を見ていれば、私の歌がどのようなものだったかはわかる。十分な食と休息を与えられなかった兵のように、皆の心が冷めていくのが見て取れたよ」
「恐れながら、将帥というものは酔客の心はとらえられずとも、兵の心をつかむことができればそれで良いのではないかと」
そっと言葉を挟むウィルに、ダインベルトは再び微笑みかけた。
「うむ、そういう台詞がとっさに出てこないから、私は詩人になれないのだな」
ウィルとコーデリアが互いの顔を見合わせた後、ついコーデリアが吹き出した。
つられてオルバスも笑いだし、一同が笑いの渦に包まれる。
「さて、二階に部屋を取ってあるから、そこに移動するとしよう。ここでは話せないこともあるのでね」
ひとしきり笑った後、ダインベルトは皆を手招きし、二階へと続く階段をのぼっていった。
案内された二階のドアの前に、顔の下半分を黒い布で覆った若い娘が立っている。 後ろで束ねた美しい銀髪とわずかに尖った両耳が人目を引くが、存在自体が周りの光景に溶け込んでいるかのように、奇妙なほどに存在感が薄い。
「リセリナ、もう私の警護はいいと言っただろう。今日は帰りなさい」
銀髪の娘は無言でうなづくと、音もなくその場を後にした。
「さて、今日君たちに見てもらいたいものはこれだ」
部屋の中に案内された一同は椅子に腰掛け、テーブルのうえに置かれた奇妙な石版を見つめていた。石版の表面には風化しかけた絵図が描かれている。
右手には大きな穴が描かれており、そこから人らしき者が這い出てきている。その左には人の口から音符が流れ出ている姿が描かれていて、さらにその左には獣人のようなものが切り裂かれる様子も描かれていた。
「これが、長城付近で発見されたという石版ですか」
ウィルは興味深げに石版に目を落としている。
「その通りだ。王都の学僧の鑑定によればこれは古代ハイナム時代末期のものだそうだが、この中央の人物の口から出る音符、これが吟唱呪なのではないかというのが私の推測なんだ」
「吟唱呪……」
ウィルは唾を飲み込んだ。
「では、この右手の部分の穴は何でしょう?」
「うむ、これは私の憶測にすぎないのだが……」
一呼吸置いてから、少し勿体ぶったようにダインベルトは話し始める。
「これは転移門ではないか、と私は思っている。どこから連れてきたかは知らないが、吟唱呪を唱える者たちが古代ハイナム時代に盛んだった紋章術使いを倒した、これはそういう絵なのだろう」
「この獣人はハイナムの紋章技術で作られたものだと?」
ウィルはレイダス城を襲ったガラの姿を思い出した。カイザンラッド遊撃将を名乗っていたあの男も、ハリド同様聖紋とは異なる紋章を額に刻んでいた。人狼と化して戦ったガラの姿は、この石版の獣人の姿とも重なる。
「おそらくは間違いないだろう。私の見るところ、この紋章術こそが太古の時代に繁栄を極めたドワーフの文明の
「では、紋章の力に対抗するためにどこからか呼ばれてきたのが吟唱呪の使い手だというのですか?」
「私はそう考えている。あるいは彼らこそが、古代ハイナム文明を滅ぼしたのかもしれない」
テーブルの周囲で、一同は息を呑んだ。この王都の安宿の一室で、太古の文明の謎が解き明かされようとしているというのか。
「いや、あくまで仮説に過ぎないのだけれどね。私は考古学者ではないし、古代史の講釈などをここでしたいわけではない。今考えるべきは、カイザンラッドの脅威についてだ」
ひとつ咳払いをすると、ダインベルトは続ける。
「君たちも知っている通り、カイザンラッドには奇妙な紋章の力を用いる者がいる。おそらくは古代ハイナム時代の技術を復活させたのだろう。そしてどうやら竜将ヴァルサスもなんらかの紋章を刻んでいるらしいんだ。どのような力を持つものかはわからないのだけれどね」
「つまり閣下は、ヴァルサスに対抗するために吟唱呪の力を使えないか、とおっしゃりたいのですね?」
「察しが良くて助かるよ。その通り、君は吟唱呪についてどれだけのことを知っているかな」
ダインベルトは細い目の奥から鋭い眼光をウィルに向けた。
「吟唱呪とは聖紋とは異なり、言霊そのものに宿る力を解き放つ呪です。用いるには正確な発音と音程の調節が必要となりますが、これは極めて繊細な技術です。おそらく先天的才能もかなり関係しているでしょう」
「なるほど、やはり私には無理なのだな。そう言えばセリオン皇子の母親はたいそう詩作や歌唱の才に優れていたそうだが、彼女はハイナムの遺跡の地下で倒れているところを皇帝に発見され見初められたのだと聞いている。まさか異界から吟唱呪を携えてやってきたのではないだろうね」
冗談めかして言うダインベルトを前に、ウィルは思わず苦笑した。
「さて、では吟唱呪を用いればヴァルサスの力を封じることは可能だろうか」
少し声を低め、ダインベルトは問いかける。
「それは、紋章の力がどれほど深く魂に定着しているかによります。ヴァルサスがいつ紋章をその身に刻んだかはわかりかねますが、あまり吟唱呪の力だけに頼るのは危険ではないかと」
「うむ、確かに君の言うとおりだ。そもそもヴァルサスを戦場に引き出すことができなければどうにもならないし、それができるならば他にも打つべき手はある」
そこまで言うとダインベルトは急に立ち上がって部屋のドアを開け、外を見回すとまたテーブルの前に戻ってきた。
「さて、ここからは戦の話になる。先ほどこの部屋の前に立っていたリセリナという娘なのだが、彼女は王国宰相ダリル様から優秀な護衛だからそばに置くようにととすすめられた人物なのだ」
「ダリル様から……そいつはどうも匂いますね」
オルバスは眉をしかめた。王国宰相ダリルは七年前ファルギーズでアスカトラがカイザンラッドに大敗した後、率先して白銀協定をまとめ平和税の貢納を推進してきた人物だ。
アスカトラ国内では密かに「カイザンラッドの代理人」との陰口も叩かれているが、その卓越した政治力と財政手腕のため、表立って逆らえる人物は王国内にはいない。
「断るわけにもいかないので仕方なく受け入れてはいるのだが、実は先日、彼女の私室の窓から鷹が飛び立つのを私の部下が見ていてね。オングート出身で遠目が利く彼には、西方へと飛ぶ鷹の脚に紙片がくくりつけてあるのが見えたらしい。西方に誰がいるのか、もはや語るまでもないだろう」
「カイザンラッドに通じているってことですか!そんな奴はとっとと斬ってしまいましょうよ」
「まあ、待つんだ、オルバス。ここはむしろ、彼女を利用するほうが得策だろうと私は思うんだ」
「あいつにどんな使い道があるっていうんです?」
「その前にひとつ君に質問しよう。もし君がヴァルサスの立場だったなら、今何を考えている、オルバス?」
「やれやれ、また兵法問答ですか。閣下の前に出ると、いつも教官に試験を受けさせられる学生の気分になるんですよ」
苦笑しつつも、どこか嬉しそうにオルバスは答える。
「俺なら、閣下と早く戦場で雌雄を決したいと思いますね。アスカトラの大将軍を討つことができたならカイザンラッドになびく諸侯も出てくるかもしれないし、王都の攻略もそう難しくはないでしょう。鉄槌公は絶対に裏切らないでしょうが、沿海都市同盟の抑えとしてエルタンシアから動けなさそうですし」
「だが、ヴァルサスが出陣してくるなら確実に勝算があると判断できる時だけだ。ヴァルサスが確実に私に勝てると判断できる状況とは、どういうものだろう」
「ええと、閣下のまわりに裏切り者がいる時……でしょうかね」
そこまで話して、オルバスははっと目を見開いた。
「気づいたか?そこにリセリナの使い道がある。主将である私を確実に討つことができるのなら、ヴァルサスも出陣してくるだろう。たとえば戦場にリセリナを連れて行き私のすぐそばに置くと約束すれば、ヴァルサスも勝利を確信するのではないだろうか」
「しかし、ヴァルサスは一筋縄ではいかない男です。こちらが偽情報をつかませようとしていると勘付かれたら、アラム城から出てこなくなってしまうでしょう」
ウィルが指摘すると、ダインベルトは腕組みをしつつうなづいた。
「うむ、そこが問題なのだ。リセリナが確実に私を討つことができると、どうヴァルサスに信じさせるか……」
その時、突然ドアをノックする音が聴こえた。
「まさか、リセリナが戻ってきたのか?」
ダインベルトが小声でささやくと、ゆっくりとドアが開いた。そこに立っていたふたつの人影は、意外にも懐かしい人物だった。
「長老、それにナルディス様……?」
コーデリアが呼びかけると、
「人間の
長老は目を閉じたまま厳かに語りかけた。相も変わらない高飛車な話しぶりに、ウィルは不思議な安心感を覚えた。
「こちらの方々は?」
物珍しそうに目を瞬きながら、ダインベルトは問う。
「ヘイルラントで我々とともに戦ってくれた森エルフの方達です。彼等の聖紋の力は、カイザンラッド相手にも大いに力を発揮してくれました」
コーデリアが答えると、ダインベルトは嬉しそうに微笑んだ。
「ほう、貴方方がかの名高きヘイザムの森エルフの方々ですか。お目にかかれて光栄です」
大将軍の身にもかかわらず、ダインベルトは気軽に頭をさげた。
「木霊も星も、アスカトラに新たな戦雲が沸き起こると告げている。我等森に生かされている者は、ヘイザムの主たる神霊樹の命には従わねばならない。そなたは我等の力を必要としているのだろう?」
「確かにある任務に就いてもらう者は必要なのですが、そのようなことにエルフの方々を用いるわけには……」
言葉を濁すダインベルトをよそに、ウィルが口を開いた。
「ダインベルト様、エルフの方々にはいずれ活躍してもらう場もありましょう。今考えるべきは、どうやってヴァルサスを戦場に引き出すかです」
「君には何か策があるのか?」
「リセリナがダインベルト様を討てるとヴァルサスに信じさせるには、アスカトラを誰よりも想っており、かつこの国では忌まれている者たちが必要です」
「そのような者たちが、果たしてこの国にいるだろうか」
「護国隊を起用すればよろしいでしょう」
ダインベルトはしばしの間沈黙していたが、やがて何かを悟ったように会心の笑みを浮かべた。
「なるほど、やはり君は面白い。鉄槌公の手紙にあったとおりだ」
ダインベルトにつられるようにウィルも笑った。オルバスとコーデリアは話についていけない様子で、しきりに首をひねっていた。
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