ヴァルサス、出陣
カイザンラッドのボエティア州を目前に臨むアスカトラ西部国境の守りの要・アラム城を守るのは王弟キルデリクである。
実直な武人であるキルデリクは王の信頼篤く、平時には辣腕の行政家、戦時には堅実な用兵家であるこの人物は、この要衝の地を固めるにはふさわしい人材と目されていた。
任務に忠実なキルデリクは、今日も午前の執務を終えると、城壁に出て西の方角を眺めていた。
刷毛で描いたような白雲のたなびく空の下に、小さく緑色の軍勢が現れたのを見てとったキルデリクは、いぶかしく思いつつも近づいてくるアスカトラ兵を注視し続けた。三千人ほどのアスカトラ兵は、その両脇を歩兵が、後ろを騎馬隊が固めている。アスカトラ兵の三方を囲む兵の身につけた黒一色の甲冑は、カイザンラッドのものに他ならない。
「我はカイザンラッドの竜将ヴァルサス。今日は王弟キルデリク殿に、七年前の大戦で我らが捕虜としたアスカトラ兵を返還しに参った。久方ぶりに故郷の地を踏みしめる喜びを味わっていただこうと思ってな」
城門の前に進み出た一騎が、よく通る声で言った。黒ずくめの甲冑の背に、豪奢な緋色のマントが鮮やかに風に翻っている。
「私は貴国が捕虜を返すなどという連絡は受けていない。それに、何の交換条件もなしに捕虜を返す気になったとはいかなることか?」
城門の上からキルデリクが声を張った。七竜将の中でも冷酷と評判の高いヴァルサスが、わざわざ捕虜を返しに来るなどとはにわかに信じがたい。
「話は最後まで聞かれよ。捕虜を返すとは言ったが、生かして返すとは言っていない」
ヴァルサスが嘲るように言うと、アスカトラ兵の両脇に陣取った弓兵隊が一斉に弓を構えた。キルデリクが目を凝らすと、アスカトラ兵は全員が後ろ手に縛られている。
「せめてアスカトラ兵にはこの世の名残に故郷の地をその目に刻んで欲しい、というのが皇帝陛下の願いだ。さあ、そこで同胞の死にゆくさまを心ゆくまで見物しているといい」
かっと頭に血の昇ったキルデリクは、
「黙れ!そのような真似を私が許すと思うのか」
満腔の怒りを声に込めた。副官がそばに歩み寄り、焦りを含んだ声をかける。
「これは罠かもしれません。わざわざこのような場所で捕虜の処刑など、何かおかしいとは思われませんか」
「だからといって彼らを見殺しになどできるはずがなかろう。全軍出撃せよ。アスカトラの同胞を救い出すのだ!」
実直なキルデリクが同胞を見捨てられるわけがない。そして、そうなることもヴァルサスはすべて予測していた。
西の城門を開き、急ぎキルデリクは出陣した。
予想していた通り、カイザンラッドの弓兵隊はその向きを変え、次々とキルデリク軍に矢を放ってきた。弓弦が鳴るたびに兵が斃れ、騎乗した兵が落馬し、荒野を血で染めていく。
しかしそれでもキルデリクは怯まない。なおも前進しようとしていたところ、突然眼前のアスカトラ兵を縛っている縄が緩んだ。戒めを解かれたアスカトラ兵は、一斉に背にくくりつけていた仮面を被る。額から角の生えた仮面は、思わず見るものの心を怯ませる異様な雰囲気を醸し出していた。
「あれは……黒鬼隊?」
キルデリクは歯噛みした。紫雲公国の職人の手になる不気味な仮面をかぶり、戦場では無敵の強さを誇るヴァルサスの精鋭部隊の名を、この実直な武人も心に刻んでいた。
「おのれ、謀られたか!」
仮面の兵団は抜剣し、雄叫びをあげてキルデリクへと突進してきた。両翼の弓兵隊も弓を背にくくりつけ、剣を抜いて左右から押し包むようにキルデリク軍に迫ってくる。
三方から斬りたてられたキルデリクはたまらずに、アラム城への退却を命じた。この堅城ならば、籠城すれば兵力において勝るヴァルサス軍の攻撃にも耐えられる。いずれ王都から援軍も到着するだろう。そうなれば勝てる。
しかし、退却しようとするキルデリクの前を、今度はヴァルサスの騎馬隊がふさいだ。その機動力を生かし、すでに背後に回り込んでいたのだ。
後方で指揮を採っていたキルデリクは、退路を断った騎馬隊と最前線で向き合うことになった。絶望に彩られたキルデリクの瞳が、騎馬隊の陣頭に立つヴァルサスの姿をとらえた。
「アスカトラの貴人にはお前のような愚か者しかいないのか。聖紋?そんなものにどれほどの価値がある?負け戦しかできない将に率いられる兵も哀れよな」
キルデリクがヴァルサスと馳せ違った瞬間、二本の剣が交差し、銀光が戦場に閃いた。
ヴァルサスが馬を止めると、キルデリクはがくりと頭を垂れ、そのまま落馬した。悲鳴を上げる馬廻りの者たちも、次々とヴァルサスの騎馬隊の餌食となり、その数を減らしていく。
「まったく、張り合いのない連中だ。勝ちやすきに勝つのが兵法とはいえ、こうもふがいない者達ばかりでは面白くない」
軽く鼻を鳴らすと、ヴァルサスは残っているキルデリク軍の始末にかかった。次々とアスカトラ兵がカイザンラッドの馬蹄に踏みにじられ、槍の穂先で突き殺される。それはもはや戦ではなく、一方的な殺戮でしかなかった。
◇
「いやあ、こいつはたいそうな賑わいぶりだ。やっぱり王都ともなると違うねえ」
巨体を揺すってアスカトラの王都アルストの中央大路を歩くオルバスの口調は実に楽しげだ。今日はダインベルトに面会する約束をしているため、髭を剃ってこざっぱりとした風貌になっている。
「コーデリア様はこんな大都会を見るのははじめてでしょう?そうそう来る機会もないだろうから、この際しっかりと目に焼き付けておいたほうがいいと思いますぜ。ほら、あちらの中央の膨らんだ柱はバクトラ様式ってものらしいんで」
オルバスは右手の神殿を指差した。柱に彫り込まれた複雑な装飾ひとつ取ってみても、相当な手間のかかった建造物であることがわかる。
幅広い中央大路ではひっきりなしに馬車が行き交い、辺りでは靴磨きの少年や研ぎ師、イナク鶏を焼く者やバクトラ絨毯を商う露天商などが通行人に呼びかける声が途絶えることがない。
通行人は騎士や貴婦人、恰幅の良い商人などが多いが、混じって昼から酒臭い息を撒いている軽装の傭兵風の男や、派手な化粧の女たちも目についた。ヴァルサスがアラム城を攻め落とし、またたくまに周辺の小城を七つも占領したため、近いうちに戦が始まると噂されているのだ。兵の集まるところには、春をひさぐ女たちもまた集まる。
「私は都会の見物などに来たのではありません。大事な目的があるんです」
「大丈夫ですよ、こんなに人が多いんだ、少しくらいきょろきょろしたって誰も目に留めやしません」
「オルバスさん、私をなんだと思っているんです?いくら私が田舎娘でも、都会の輝きに幻惑されるようなことなど」
そこまで言って、コーデリアはふと右手の服飾店の店頭に飾られているドレスに目を留めた。金襴で彩られた紫雲公国風の袖無しドレスは、ガラス窓の向こうできらびやかに輝いている。
「コーデリア様、こういうものがお好みですか」
ドレスに目を吸い寄せられているコーデリアの背後からウィルが声をかけた。
「い、いえ、私はあくまで一人の為政者として、この地の民がどのようなものを求めているのかを知りたかっただけです。別に自分で着てみたいというわけでは」
「そうだなあ、こいつはまだちょっとお嬢様には早いかもしれないな。俺にはコーデリア様は素朴な親しみやすさみたいなものがあると思ってるんだが、このドレスを着たらそういう良さが台なしになってしまうように思える」
オルバスの遠慮のない言葉に、コーデリアは頬を膨らませた。
「それはつまり、私にはこういう艶やかなドレスは似合わないと言っているのですね?」
「いやいや、そうじゃあないんだ。ここアルストの商売女にはね、わざと垢抜けない格好をして男を釣る奴らもいるんですよ。なんでもその方が金持ち連中には受けが良いんだとか。あまりうわべを飾り立てるよりも、こう、地味なら地味なりにある種の味のある格好というのがいいらしいんです。あんまり派手なドレスを着られちゃあ、そういうコーデリア様本来の魅力が失われちまう」
「オルバスさん、沈黙は金という言葉をご存知ですか?」
コーデリアは腰に両手を当て、萌黄色の瞳でオルバスをにらみつけた。
「いや、これでも褒めているつもりなんですがね……」
「オルバス、人を褒めるなら褒めて欲しいところを褒めるものだ」
納得がいかない、という様子で首をひねるオルバスを前に、ウィルは苦笑いしつつ肩をすくめた。
「……あの、ウィル、貴方はどう思いますか?」
「どう思う、とは?」
「私には、ああいう服は似合わないでしょうか」
コーデリアは不安を目に宿しつつ、おずおずとウィルを見上げる。
「大事なことは人としての在りようです。何を着ていようと、常に前を向き自分自身を貫いていれば、内なる魅力が自ずから表に現れましょう」
その言葉を聞き、コーデリアはようやく相好を崩した。
「では、そろそろ参りましょうか。ダインベルト様に指定された宿はまだまだ先ですね」
コーデリアは思い切り胸を張ると、張り切って二人を先導しはじめた。無難なところに逃げたな、というオルバスのぼやきを聞き流しつつ、ウィルはコーデリアの後に続いた。
ウィル達はダインベルトに指定された宿に入ると、一階の食堂で夕食をとることにした。隅のテーブル席が空いていたので、さっそくそこに腰掛ける。
「カイザンラッド第三皇子セリオン……か。1000ギルダスとは大した賞金だが、こいつはそんなに大層なことをやらかしたのか」
オルバスは片手で頬杖をつきながら、壁に貼られた似顔絵に目をやった。
銀髪碧眼の皇子の顔は横を向いているが、その面差しはどこか
「詩人狩りに反対したことで皇帝の怒りを買い国外追放処分になったということだが、おそらくアスカトラ側で利用価値があると判断しているのだろう。曲がりなりにも皇位継承権を持つ皇子だからね」
言うと、ウィルはテーブルに運ばれてきた葡萄酒で喉をうるおした。
「そういや、皇太子のイオルって奴は竜将の一人だったか。戦で他の皇子が軒並み死んだらセリオンにも皇位を継ぐ目はあるのか?──まあ、それよりも」
オルバスは麦酒を一気にあおると、唇についた泡をぬぐった。
「セリオンがこの似顔絵通りの容姿だったとして、このままの姿でアスカトラをうろついていると思うか?普通は変装くらいするだろうよ。つまり、こんな絵じゃなんの手がかりにもならないってことだ」
「それは道理だ。セリオンがよほど間抜けでない限り、尻尾をつかまれることはないだろう」
ウィルがこともなげに言うと、今度はコーデリアが口を開いた。
「それにしても、なぜダインベルト将軍はこのような宿で私達と会おうというのでしょう?もっとふさわしい場があると思うのですが」
「それが、あの方はなんというか、ちょっと変わった方でなあ」
「オルバス、君は以前将軍のもとで戦っていたのだろう?どういう方なのか、少し聞かせてくれないか」
「ああ、構わんぞ。ダインベルト様は戦場では鬼神のごとく戦うが、普段は……ん?」
その時、周囲の客の間からまばらな拍手が沸き起こった。
客席の隅からゆらりと身を起こした長身の男が、長いローブの裾を引きずりながら床の一段高くなっているステージ席へと歩み寄り、恭しく一礼する。
椅子に腰を下ろすと、詩人らしき男はリュートを爪弾きはじめた。しかし、その唇から歌声が流れてくると、次第に客席がざわつきはじめた。
男の歌声が、耐え難いほどに調子が外れていたからである。
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