黒衣の麗人
エリュトリスの北方200カラムの距離に位置するカルディアの野は、古来何度も会戦の行われてきた場所だ。兵を隠す森も周囲にないこの地は、アスカトラの領邦が独立国だった時代も多くの兵の血を吸っている。
鉄槌公アズラムの眼前には、クロタール王の軍勢が立ちはだかっている。
夏雲の沸き起こる晴天を背負い、緑一色の王の軍は、あたかもそこに小さな森が出現したかのような様相を呈している。
山岳エルフをアスカトラに引き入れて以来、王は鎧までエルフを象徴する緑で統一していた。今でも王は、ファルギーズに死したトゥーラーンを悼んでいるのだろう。
(これを、奴等が内戦と取ってくれればいいのだが)
エルタンシアの南部諸侯の動きを気にしつつも、鉄槌公の意識は目の前の王との戦いに向けられていた。盤面でかいま見た王の気概が本物かも、これからの戦いですべて判明する。
先に動いたのはアズラムの兵だった。
前方の軽装騎兵が馬足を早め、砂塵を巻き上げつつ綠色の軍へと突進していった。
騎馬の前方では、王の歩兵隊が棒を構えている。全員が硬革鎧しか身に着けていない。軽装騎兵が、こちらも棒を手に突きかかると、歩兵隊はいくらも戦わずに算を乱して逃げ始めた。
しかし、逃走した歩兵隊は素早く隊列を開けた背後の重装歩兵の間に吸い込まれ、今度は重装歩兵隊が全面に出てきた。
通常の槍よりも倍ほども長い棒を構える重装歩兵にはばまれ、アズラムの軽装騎兵もなかなか陣形を崩すことができない。
そうしている間に、重装歩兵の左右に展開していた王の騎馬隊が前進をはじめ、左右の翼を広げるようにアズラムの軍を包囲しにかかった。
「そう来たか」
アズラムは思わず馬上で唸った。王はこの七年間、ただ盤上の遊戯にふけっていたのではなかった。ハキムと二人で、ずっと兵法の研究に打ち込んでいたのだ。
ハキムが各領邦の諸侯とチェスに興じていたのは、二人で考案した戦法を諸侯に伝えるためだったのだろう。来たるべきカイザンラッドとの決戦の日のために。
(クロタールよ、お前はずっと戦いたかったのだな)
アズラムは、従兄弟である王の名を心の中で呼んだ。
この王は、ただ七年間カイザンラッドに頭を下げていたのではなかった。
隷従の仮面の下で日々牙を研ぎ続けていた王に、アズラムは改めて瞠目せざるを得なかった。
(あれは、ダインベルトか)
左翼の騎馬隊の中に、ひときわ目立つ極楽鳥の艶やかな羽飾りが翻っている。
長年騎馬民族国家のオングートからノルディール北方を守り続けた名将を象徴する兜を目の当たりにし、アズラムはほくそ笑んだ。
オングートとは近年和平が成立し、北方が静かになったため王はダインベルトを王都に召喚し、大将軍に昇格させている。この男をこの調練の場に連れてきているところにも、クロタール王の本気が読み取れた。
「さて……奴らはそろそろ動き出している頃合いだろうか。だが案ずることもあるまい。サナ姫の未来視が正しければ、アリオスはかならず勝つ」
馬上で一人つぶやくと、アズラムは自軍の左翼を眺めやった。ダインベルト率いる騎馬隊と自軍の騎馬隊が入り乱れ、土煙の中で緑と紅が混じり合っているようにみえた。
◇
「一体誰が跳ね橋を降ろせと言った!」
ナターリアが叱声を飛ばす間にも、眼下では跳ね橋を渡って次々と敵兵が城内に侵入してくるのがみえた。城壁から見下ろすアリオスの目が捉えたのは、妙に薄汚れた鎧兜を身に着けた一団だ。周囲の者に問いかけても、旗指物を持たないこの一団がどこの兵なのか、誰も答えられない。
そもそもエリュトリスの市壁にも少数とはいえ兵を配置していのに、なぜやすやすと突破されてしまったのか、それすらもわからなかった。
「──やはり、サナ姫の未来視は正しかったんだろうね、ウィル」
階下から剣戟の響きが聞こえてくる。
アズラムがエリュトリスの兵の大部分を率いて出征したため、今このエリュトリス城に残されている兵は少ない。対して、今この城に侵入してきた謎の兵団は少なく見積もっても三千は下らない。跳ね橋の外からも次々と兵が押し寄せてくる。
「ですが、あそこで我々が見た未来こそが狙い目なのです。イレーネがあの軍を指揮しているのであれば、勝機は……」
「アリオス様、あれをご覧ください」
ナターリアが指差した先で、兵たちが城壁に梯子を掛けていた。
すぐ目の前の城壁の縁に梯子の先が届き、その下から兵がよじ登ってきた。
エルタンシア兵が急ぎ槍を持って駆けつけ、次々と兵を突き落とすが、不思議なことに兵は一言も発しない。まるで恐怖という感情すら持っていないようにみえる。
「アリオス様、もうすぐ敵兵がここまでやってきます!」
ナターリアの目が巨大な主塔にむけられた。あの中へ逃げ込め、と言いたいようだが、それが不可能であることもアリオスは悟っている。
「サナの見た未来を変えることはできないはずだ、ナターリア」
アリオスが覚悟を決したように腰の剣を抜くと、ついに城壁を固める兵も突破され、敵兵がすぐそばにまで迫ってきた。アリオスの近衛隊はさっそく敵兵と切り結び始めたが、次々と梯子を登ってくる兵に押され、じりじりと包囲の輪を狭められつつあった。
そのとき、アリオスの眼前に突然、黒い炎が燃え上がった。
不気味に燃える炎は次第に人の輪郭をとり、黒一色のドレスをまとう女人に姿を変えた。
「イレーネ……やっぱりここに来たんだね」
アリオスは麗人の艶やかな黒い瞳を正面から見すえた。
イレーネは口元にどこか儚げな笑みを浮かべる。しかしその額には、禍々しい髑髏の紋章が浮いていた。
「お久しぶりです、アリオス様」
心地良い鈴の音のような声が、小ぶりな口元から流れ出した。
「このエリュトリスを襲って、一体何をするつもりなんだい」
「襲う、とは人聞きが悪いですね。私は貴方を天神アガトクレスの元へとお誘いに参りましたのに」
イレーネが右手の指を鳴らすと、敵兵が一斉に兜の面頬をあげた。
その下から現れた顔の眼窩には、そこにあるべき眼球がない。
剥き出しになった歯の間には、魂を吸われそうな黒い空間が広がっている。
イレーネが率いていたのは、命なき骸骨兵だった。
「僕にその人達の仲間になれっていうのかい?僕は、まだこんなところで死ぬ気はないよ。この世界でするべきことが、まだたくさんあるからね」
剣を持つ手を震わせつつ、アリオスは懸命に声を励ました。
「お父上にも見捨てられ、このようなところで望まぬ戦いを押し付けられているのに、ですか?アズラム様は貴方を後継者にはふさわしくないと考えているからこそ、ここに置き去りにしたのでしょう?」
イレーネの胸元のネックレスにはめ込まれた翠晶石が眩く光る。
それを見つめていると、アリオスの心の隅で眠っていた怒りが鎌首をもたげはじめた。
(僕は、父上に見捨てられた……)
なぜ、父は王との戦いに自分を連れて行ってくれなかったのか。
わずかな守備兵しかこのエリュトリスに残さなかったのは、僕を見殺しにするためなのか?
いや、実は父上はイレーネの襲撃を予測していて、彼女に僕を殺させるつもりだったのではないのか?
アリオスの目が据わり、その表情が険しさを増していく。
「アリオス様、もう辛く苦しい現世にすがるのはおやめなさいませ。この世は苦界。生きることとは悲しみの連なりです。この世界で生きながらえたところで、カイザンラッドとの長い戦いが続くばかりではありませんか?それならばいっそ、イリア様のもとに赴いたほうが良いでしょう」
イレーネが両の掌をアリオスの前にかざした。
十本の指には大きな翠晶石の指輪が嵌められ、そのすべてがアリオスの前で輝きを放った。イレーネの輪郭が曖昧に
「さあ、こっちへいらっしゃい、アリオス。もう何も苦しむことはないの。戦いなどは野蛮なお父上や兄上にまかせておけばいいでしょう?天の国には、貴方のような優しい人こそがふさわしいのですよ」
穏やかで懐かしい声が、アリオスの胸に迫った。
アリオスは剣を取り落とし、呆けたように口を半開きにしながら、おぼつかない足取りでゆっくりとイリアの幻影に歩み寄っていく。
「──そう、それでいいのです。誰も憂えることのない、明日を思い煩うこともない世界へ、私と一緒に……」
そのとき、かすかに響いてくる歌声があった。
澄んだ歌声は次第に音量を増し、アリオスの心の中を満たしていく。
紫雲たなびく異国の佳人
花の
傍らに立つは紅顔の公子
潮風と鷹を連れ、白蝋の
そこまで歌を聴いた時、アリオスははっと目を見開いた。
そうだ、今はこんな幻影に魅入られている場合ではない。
ウィルの歌声を聴き、サナ姫と、家臣とこの城とを守らなければ──という思いが一気に吹き出し、アリオスの闘争心に火がついた。
「そう、もっと近くへ。天の国はもうすぐそこです」
それでも、アリオスはイレーネへと近づいていった。
まだ、ここでこちらの意図を悟られてはいけない。
イレーネの息遣いが聞こえるところまで迫ると、イレーネが急に右の拳を突き出してきた。指の間からは細い針がのぞいている。
アリオスはその拳をかわすと、イレーネの手首をつかみ、右手で腰の小剣を抜いてイレーネの腹に突き立てた。
「……アリオス、何をするのです?貴方は実の姉を手にかけるのですか……?」
口からひとかたまりの血を吐いた後、イレーネは切れ切れに言葉を継いだ。
「姉上が僕を天界へなど連れ去ろうとするものか。もし姉上がここにおられたら、今すぐに貴方を斬り捨てろと言ったはずだ」
「アリオス、いつから貴方はそんな子になったのです?その手を血に染めてでも、生きるほどの価値がこの世界にあるというのですか?」
「まだ言うか!僕は生きて、サナやナターリアやウィルがいるこのエリュトリスを守らなければいけないんだ。生きることに価値などないというのなら、まず貴方がこの世界を去るべきなんだ」
アリオスが小剣を引き抜くと、イレーネは腹から大量の血を滴らせつつ、
「生きていたところで、貴方は苦しみ続けるだけなのですよ」
最後の言葉を絞り出すと、額の髑髏の紋章が光を失い、その場に倒れ伏した。
周囲の骸骨兵も急に動きを止め、操り人形の糸が切れたかのように次々と地に転がる。
「おそらくは、あれもカイザンラッドの開発した紋章でしょう。あれ程の数の骸骨を支配するとは……」
渋面を作りながら、ウィルは低くつぶやいた。
「とはいえ、あの女を片付けちまったならもう脅威は去ったと言ってもいいだろうね。今回は主将を葬ったのはアリオス様だし、これで鉄槌公の帰還を胸を張って出迎えられるってもんだよ」
ナターリアが安堵の笑みを浮かべた途端、城下からけたたましい声が聞こえてきた。一行が急いで城壁の縁へ駆け寄ると、アリオスは驚きに目を見張った。
骸骨兵を踏み越えてやってきた軍勢が、眼下を埋め尽くしていた。目が醒めるような鮮やかな青の甲冑は、沿海都市同盟のものだった。
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