盤面の兵法

 ガレア城からエリュトリスまで馬を走らせ、一日待たされた後にウィルは鉄槌公アズラムと面会する機会を得た。謁見の間は堅苦しいからと鉄槌公はウィルをテラスへと連れ出した。


「どうだ、アリオスの様子は」

「日々熱心に剣術と学問に励んでおられます。最近はますます洞察力に磨きがかかっておられるようで」

「洞察力、か。あれも頭の働きは悪くはないが、戦となるとどうも敵にまで余計な気を回してしまうようでな」


 アズラムは眼下に調練に励むエルタンシア軍を見下ろしつつ言った。

 太鼓の音とともに整然と更新する紅一色の軍が、若草の緑に映える。


「慈悲深きこともまた、統治者には望ましい資質でございます。いずれエルタンシア公を継いだ日には、賢君として讃えられる御方になるのではないかと」

「詩人というのは、油をさしているかのように滑らかに喋るものなのだな。そなたが言うほど都合よくことが進むなら苦労はないのだ」


 アズラムは額に皺を刻んだ。厳しい顔が、より威圧的に引き締められる。


「して、そなたの用向きはなんだ」

「まずお訊きしたいのは、レグルス様のことです。公爵はレグルス様がレイダス城で何をなさっているかご存知なのですか」

「知っているのか、だと」


 アズラムは並のものなら正視できないほどの眼光をウィルに注いだ。


「知っていたなら、そなたはどうする」

「レグルス様のなさっていることは、王国に対する重大な反逆行為です。ご子息が賊同然のことをなさっているのに放置していたら、いずれアズラム様の責任も問われるのではありませんか」

「賊、か。詩人よ、賊とはなんだ?」


 黙り込むウィルに、アズラムは言葉を継ぐ。


「平和税の名のもとに民の膏血を絞り、窮乏に追い込む、これこそが賊ではないのか。この国に賊と呼ぶべきものがあるとするなら、それはすなわち王よ」


 ウィルは抗弁できずに唾を飲み干した。鉄槌公も領内からは平和税を取らないように厳命している。この英雄は、王に従う気など最初からないのだ。


「陛下と対決なさるおつもりなのですか?」

「場合によっては、だ。このアスカトラを統べるものが、カイザンラッドを肥え太らせることしかできないのであれば、そのような者が王にふさわしいと言えようか」


 アズラムは口髭を震わせた。声音には隠しようのない王への怒りがあふれ出ている。ウィルも思わず身をすくませた。


「陛下がカイザンラッドに対しあまりに弱腰である、という思いはわかります。ですが、本当にその見方が正しいのか、今一度確かめてみる必要がありはしないでしょうか」

「私の見方が間違っているとでも言うのか?」

「陛下の側近である宦官ハキムは、各領邦の諸侯とチェスに興じておられると聞きます。なんでも、陛下の考案された新しいルールで遊んでおられるのだとか」

「それこそが陛下が王にふさわしくない証拠であろう。虎狼の国の牙が眼前に迫っているこの時に、盤上の遊戯などにふけっている者が王といえるのか」

「果たして、ハキム様は本当に遊んでおられるのでしょうか」


 アズラムは顎髭をしごくと、いぶかしげに眉根を寄せた。


「遊びでなければなんだというのだ」

「準備でありましょう。いずれ来たるべき日のための」


 アズラムは低く唸った。考えこむ様子の鉄槌公に、ウィルはたたみかける。


「私の言葉が嘘だとお思いなら、ハキム様をこのエリュトリスに呼びつければよいのです。私の見方が正しければ、ハキム様は必ずおいでになられましょう。人を知るには言葉を交わすより剣を交わしたほうが分かり合えることがあるように、陛下のお考えを知るには、ハキムと一勝負してみるのが肝要かと存じます。陛下が諸侯になにを期待しておられるのか、ハキムと対峙してみれば解ることでしょう」

「しかし、奴がわざわざこのエリュトリスに来ると思うか?」

「むしろ、ハキム様はアズラム様との対面を望んでおられましょう。危険を顧みずこの地へ来てくれたなら、ハキム様の真意も知ることができるというものです」


 心の中を全て吐き出し、ウィルもようやく胸のつかえが下りる思いだった。


「よかろう。もしあの宦官めの手筋になにも読み取れなければ、その場で首を刎ねて王に送り返してやればよいのだからな」


 アズラムはそんな物騒なことをいった。この男が本気になれば、本当に戦槌が王の頭上に振り下ろされかねない。ウィルは内心苦笑しつつ、今はハキムが思い通りに動いてくれることを願うしかなかった。


 テラスを去ったアズラムの背中を見送りつつ、ウィルは右手の甲をみつめた。

 少々気が重いが、結局まだ護国隊の動きを止めることができてはいないとコーデリアには連絡しなければいけない。右手に聖紋が浮かぶのを眺めつつ、ウィルは息を吸い込んだ。



    ◇



 その男──いやすでに男とはみなされていないのだが──は、きらびやかに飾り立てた四頭立ての馬車に乗り、エリュトリスの城門をくぐった。

 馬車から降りてきたハキムは右と左が青と深い緑で塗り分けられたドレスのような長衣トーガで恰幅の良い身体を包み、玉石を散りばめた肩当てをつけている。色艶の良いふくよかな白面に形ばかりの笑みを貼り付けたその姿は、それだけ見れば王の威光をかさに着る権臣としか思えない。


 四人の小姓を背後に従えてアズラムの私室に入ってきたハキムは、恭しく一礼すると、目を細めつつ口を開いた。


「この国に並ぶ者なき英雄のお招きにあずかるとは、このハキム、身に余る光栄にございます」


 宦官らしく甲高い声で発せられた世辞に眉をしかめつつ、アズラムは答えた。


「勘違いしていただきたくないのだが、私はあくまでハキム殿を陛下の師としてお招きしたのだ。ハキム殿と対戦するのはただ陛下の手筋を知りたいがためだ」

「それは承知しております。私は卑しき身なれど、盤面においては陛下の先達。私の駒の動きを見れば、陛下の腕前の程も知れましょう」

「そうであればよいのだがな」


 アズラムはハキムを椅子に座るよう促した。テーブルの上の盤面には、象牙から切り出した駒が整然と並べられている。


「おわかりとは存じますが、私に遠慮など必要ございません。どうか存分に腕前を披露なさいませ」

「望むところだ。陛下の手の内、見せてもらうぞ」


 空中で二人の視線がぶつかりあうと、張り詰めた空気が部屋の中に満ちた。



 対戦がはじまってから一時間ほどが経ち、アズラムは腕組みをしながら盤面に目を落としていた。


「ふむ、そこで槍兵を出す……か」

「さて、どのように応じられます?」

「両翼から弩兵を出すつもりなのだろう?ならば……」


 アズラムは今までにないくらいに勝負にのめり込んでいた。

 ハキムはたしかに強い。強いだけでなく、今この盤面で展開されている戦いには、確実に最新の兵法が盛り込まれていた。


「陛下がこのような駒の運用を考えついたのは、いつからなのだ」

「およそ、五年ほど前になりましょうか」

「ということは、二年かけてヴァルサスの兵法を研究したと?」

「そういうことになりますね。何しろ、陛下の聖紋の力は尋常ではありませんから」


 アズラムは心の片隅に痛みを覚えた。自分は今まで王を臆病者と侮ってきたが、実は恐るべき克己心の持ち主だったのではないのか。


「しかし、平和税の一件だけは承服しかねる」

「それは困りましたね。エルタンシアのような大邦から税が取れないのでは、我々としても困ってしまいます」

「困るというのであれば、せめてそちら側から何か我々に利をもたらしてくれればよいのだが」

「なにをお望みなのです?」


 盤面に目を釘付けにしたまま、ハキムは柔らかい声音で問いかける。


「南方の諸侯が、再び不穏な動きをみせている。カイザンラッドと通じているのだろうが、こちらから攻めるほどの大義名分はない。いずれカイザンラッドと対決する日が来る前に一撃食らわせておきたいところだが、今のままでは手の出しようがないのだ」

「私は兵など率いたことはありませんが、盤上で得た知識ならばお伝えできます」

「なにか妙案でもあるのか」

「手が出せないのであれば、向こうから手を出させればよろしいでしょう。その後からなら、鉄槌公の武をもって叩きのめせばよい」

「しかし、どうやって攻めさせる?」


 アズラムはまだ長考の途中だ。その鋭い眼光は盤面から離れることはない。


「公みずからが動けばよいのではありませんかな」


 ハキムは君主ロードの駒をつまみ上げると、ひとつ左へと動かした。



     ◇



 それから十日が過ぎ、アリオスのもとに鉄槌公が自ら軍を率いて北上する、という急報が届いた。エリュトリスを留守にする父に代わり、アリオスがこの地を守備せよと命が下ったため、ウィルもアリオスに従いエリュトリス城に戻っていた。


「やはり、サナ姫の見た未来は変えられないようだね、ウィル」


 主塔の窓から鉄槌公の軍旗を遠く眺めるアリオスの目には、不安と覚悟とが同居していた。


「本当に、僕がこのエリュトリスを守りきることができるんだろうか」

「そのためにこそあたし達がいるんですよ。どうか信じてお任せください」


 ナターリアは鎖帷子の胸を叩いてみせた。鎖の音がじゃらりと鳴ると、アリオスがかすかに笑う。


「ああ、わかってはいるんだけれど……どうにもね」

「アリオス様が不安に思われるのも無理はありません。イレーネがこの城に攻めてくるのは良いとして、一体何者を率いてくるのか」


 帽子の鍔の位置を直しつつ、ウィルは言う。


「普通に考えて、南部諸侯の中の反鉄槌公派あたりじゃないのかい?」

「それならば、イレーネを前面に立てる必要はないはずだ。それこそ南部諸侯の誰かが主将になるはずだろう」

「ああ、そいつはたしかに気になるね。あの女、まだなにか得体の知れない力でも隠し持ってるんじゃないか」


 さすがに緊張しているのか、ナターリアの表情は固い。


「何がやってくるにせよ、僕はここを守らなければならない。父上の作ったこの城と、この街の民とを」


 アリオスが拳を固く握ると、ウィルとナターリアも無言でうなづいた。



 そのころ、フリュギア山の麓の平原で、背の高い女人が物憂げな顔を地表に向けていた。喪服のような黒一色のドレスをまとい、色白ではかなげな麗人は、いかにも男の庇護欲をそそりそうな雰囲気だ。

 しかし、不自然なほどに紅いその唇から紡ぎ出された言葉は、およそその姿には似つかわしくないものだった。


「七年前にこの場で潰えた貴方がたの夢、私が叶えてさしあげましょう。あの紅顔の貴公子の首を前に、酒盃を傾けてみたくはありませんか?」


 その声に応じ、地面のあちこちが奇妙に盛り上がった。地表を破り、その下から現れたのは、かつてこの地で敗れ冷たい骸となった沿海都市同盟の兵士の成れの果てだった。

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