姫の予言
「姫様がお目覚めになりました」
アリオスの居室に入ってきたサナ姫の侍女が告げた。
部屋の中を行ったり来たりしていたアリオスがようやく動きを止めると、口を開いた。
「彼女の容態はどうなんだい」
「今はだいぶ落ち着いております。アリオス様にお話があるそうで、ナターリア様とウィル様も連れて自室へお越しいただくようにと言伝を持ってまいりました」
「わかった、すぐに行くよ」
アリオスは真剣な眼差しをウィルと交わすと、急ぎサナの部屋へと向かった。
「お騒がせして申し訳ありません。かなり体調も良くなりました」
ベッドから身を起こしたサナの顔は血色もよく、特におかしなところは見られなかった。
「僕に何か用事があるそうだけれど……」
「ええ、これからとても大事なことをお話しなくてはいけません。おそらくこのエルタンシアの、いえ、アスカトラの未来に関わるお話になるかと思います」
「そんなに大変な未来を見たの?」
「はい、これはぜひ皆さんにも見てもらいたいと思いますので」
「見る、とはどういうことです?」
ナターリアがいぶかしげな目をサナに向けた。
「私の聖紋には、まだ皆さんにはお伝えしていない力があるのです」
サナが目を閉じると、額の星型の紋様が光り、それに応じてウィルの眼前に大きな真円が現れた。円の中に目を凝らすと、しだいにどこかの城壁の映像が現れる。
「これは……エリュトリス城?」
アリオスが鳶色の瞳を何度かしばたいた。
一同の目の前では、エリュトリス城の城壁の上で艶然と微笑む麗人と、その姿に引き寄せられていくアリオスの姿が映し出されていた。
黒一色のドレスを身にまとう女はアリオスに愛おしげな眼差しを向け、アリオスはその瞳にすっかり魅入られているようにみえる。
「……あれは、イレーネじゃないか!」
ナターリアが驚愕の声をあげた。
普段は沈着なこの女戦士の瞳に小波が立つのを、ウィルははじめて目の当たりにした。
「あの者を知っているのか、ナターリア」
「知ってるもなにも、あいつはイリア様のためにと無憂石を売りに来た宝石商だよ。無憂石ってのは翠晶石に付呪をほどこして作る鎮静作用のある宝石で、イリア様はいつも肌身離さず持っておられたんだ」
「翠晶石から作った宝石──か」
翠晶石は心の奥底の願望を触れるものにみせてくれる効果がある、とウィルはクロノイアの神官長から聞いていた。
護国隊の武器にも用いられ、襲撃対象を眠らせていたていたこの宝石の力を応用すれば、心の憂いを取りのぞくこともできるということなのだろう。
「イレーネが、一体僕に何をする気だというんだ」
アリオスとイレーネの背後には、剣を構えた兵士の姿がみえる。
状況から判断して、エリュトリスでは戦が起こっているに違いない。
イレーネの指にはいくつもの指輪が嵌められているが、すべて翠晶石から作られているもののようだ。胸に下げたネックレスにも大きな翡晶石がはめ込んである。
「あれだけの翡晶石、全部売ったらとんでもない値になるだろうね」
ナターリアは溜息をついた。あの指輪の一つだけでも欲しいと思っているのだろうか。
「私には、この未来をどのように解釈していいのかはわかりません。ただ、確かに言えることは、私の未来視は今まで外れたことは一度もないということです」
サナの額の紋章の光が消えると同時に、映像も消えた。
憂いに伏せられたサナの視線が、アリオスの足元を彷徨う。
「ということは、この未来はどうしても避けられないのかい、サナ姫」
アリオスの焦りを含んだ声に、サナはかすかに頷いた。
「確かなことは言えないけれど、僕はイレーネに魅入られているように見えた。僕は、自分の身ひとつすら自由にできないのだろうか」
「おそらくは、イレーネが翠晶石の力でアリオス様を惹きつけているのでしょう。彼の者の宝石にも何らかの呪紋が刻んであるはず。アリオス様はその力に幻惑されているのに違いありません」
ウィルは肩を落とすアリオスの背中に語りかけた。
「幻惑の力……か。そういえば、姉上のことで少し思い当たることがあるんだ」
アリオスは伏せていた顔をあげると、ウィルに向き直った。
「皆、ちょっと僕についてきてくれないか。見せたいものがあるんだ」
一同は黙って頷くと、アリオスの後に従った。
「これは……」
驚きに見開かれたサナの目がみているのは、城の地下の植物園だった。
今でも手入れが行き届いているのか、柔らかな絨毯のような下草が地面には生え、赤と青の花弁が交互に並ぶ花が一面に咲き誇り、心地よい芳香を放つ蔓が壁を這い、極彩色の蝶が辺りを飛び交っている。
ウィルが以前ヘイザムの森で見た光景に酷似していた。どうやら山岳エルフの故郷の植生が再現されているようだ。
「姉上は、山岳エルフの母上に似て、自然の多い場所を好んでおられたんだ。ここはもともと母上の故郷を再現するために作られた場所なんだけれど、姉上も体調を崩してからはよくこの場に来ていてね」
アリオスは誰へともなく語り始めた。
「生前に一度、姉上が僕をここに連れてきてくれたことがある。その時、山岳エルフに伝わる伝承をここで聞かせてくれたんだ。アストレイアのアズール山には大きな湖があって、エルフは逝くときにはその水面を渡って彼岸に行くんだって。そのとき、一番強く想っていた故人が迎えに来るんだって」
「一番強く想っていた故人……」
ナターリアがアリオスの言葉を繰り返すと、はっとした表情になった。
「アリオス様、その故人とはもしかして、レイラ様ではないのですか」
「うん、僕もそう思う。姉上はずっと母上の死を悼んでおられたし、その姉上がふだんは行きもしないアムル湖に落ちて亡くなった……これは何を意味するだろうね」
ウィルは眉根を寄せた。アリオスが言おうとしていることの意味を即座に理解したからだ。
「アリオス様は、イレーネがイリア様に売った無憂石になにか仕掛けを施していた、とおっしゃっているのですね」
「ああ、そうだ。翠晶石は、触れるものに心の奥底の願望をみせる効力がある。イレーネは無憂石は所有者に心地よい夢を見せるだけだと言っていたけれど、その言葉は嘘かもしれない。たとえば、願望をあたかも現実のようにみせるような呪紋が施してあったとしたら?」
ウィルの隣でナターリアが息を呑んだ。
「アムル湖の水面に、イリア様がレイラ様の姿を見ていたと?」
ナターリアがようやく口を開いた。
「まだはっきりとしたことは言えないけれどね。姉上の心の奥に、早く母上のもとに行きたい、という気持ちがなかったとはいえないと思うんだ」
「そんな……ではイレーネははじめから、イリア様を陥れるつもりだったと?」
「サナ姫が見せてくれた映像を見る限り、イレーネは翠晶石の力で僕を殺そうとしていたようにしか思えない。なら姉上にも、最初から悪意を持って接近したと考えるのが自然だろう」
アリオスは表情を翳らせつつも、むしろその思考は冴え渡っている。
自分自身すらどこか突き放すような分析に、ウィルは内心舌を巻いた。
(この方は、自分自身になんの幻想も持っておられない。だからこそ状況を冷静に見渡せる)
アリオスには、確かに戦場経験に裏打ちされた自信はない。
しかし、確かな思惟の力に支えられた洞察力がある。
それもまた、鉄槌公の後継者としてはふさわしい資質かもしれない。
「今は姉上のことは置いておこう。考えてもわかるものではないからね。今考えるべきは、僕が来たるべき未来をどう切り抜ければいいのか、だ」
アリオスの瞳には静かな決意がみなぎっていた。
そこには、もうレグルスに殴られて打ちひしがれていたときの弱々しさが微塵も感じられない。
「ウィル、ナターリア、皆の力を僕に貸して欲しい。今の僕では、イレーネにどう対抗すればいいのかを思いつかない」
「そう来なくちゃあ、ですよ。頼ってもらうためにあたし達がいるんですからね」
「で、貴方は何か考えついたのか、ナターリア」
ウィルが問うと、ナターリアは少し目をそらしつつ頭を掻いた。
「いや、そう都合よく良い知恵は浮かんではこないよ。そういうあんたはどうなんだ、ウィル」
「実を言うと、考えがないこともない」
「なんだい、もったいぶってないで早く言いなよ」
「サナ姫様の未来視が正しいのなら、アリオス様がイレーネに近寄っていく未来は変えることができない。だが、その行為にどのような意味を持たせるか、ならば変えられよう」
「どういうことなんだい?」
「翠晶石が心の奥底に抱く願望を見せてくれるというのなら、こちらでどういう願望を持つかを先んじて選んでおけばよいのではないかな」
ウィルが微笑むと、ナターリアは今ひとつ納得がいかない風に首をかしげた。
「アリオス様、貴方が今、一番お守りしたい方は誰ですか?」
「そ、それは……」
アリオスは脇に立つサナの顔をちらりと眺めると、少し顔を赤らめた。
「皆までおっしゃらずとも結構でございます。ならば、私も麗しき姫君を讃える詩をこの場で作ることにしましょう」
紫雲たなびく異国の佳人
花の
傍らに立つは紅顔の公子
潮風と鷹を連れ、白蝋の
ウィルの口から滑らかに詩句が紡ぎ出され、サナは恥ずかしそうにうつむいた。
「ウィル、その潮風ってのはあたしのことかい?」
「ああ、沿海州の出のようなのでこう表現させてもらった」
「ははっ、そいつはいいね。潮風、か」
ナターリアは白い歯をみせて笑った。南海から吹き来る暖かい風のような、曇りのない笑みだった。
「あたしにはよくわからないけど、そうやって詩を作るのも、ウィルにとってはチェスの盤上で駒を動かすみたいなもんなんだろうね。必要なところに必要なものをそろえる、みたいな。まあ、うちの王様にとってチェスはただの遊びでしかないみたいだけどさ」
「陛下がチェスがお好きだとはよく聞くが、それほどに好きなのか」
「なんでも、ハキム様相手に毎日遊んでおられるらしいね。宦官が寵臣だなんて、世も末だよ。なんで後宮の世話係がでかい面をしてるんだか」
「ハキム様と言えば、トゥーラーン様にチェスを教えた方ではないか」
宦官のハキムはトゥーラーンのチェスの師匠で、彼が出てくるまではこの国一のチェスの名手だった。トゥーラーンなき今、ハキムはアスカトラ一のチェスの名手の座に返り咲いたことになる。
「あの方、陛下の寵を得てたいそう羽振りがいいらしいよ。陛下を相手にするだけでは飽き足らず、今はあちこちの諸侯に接待されながらチェスに興じているんだとさ。あの宦官相手ならわざと負ける必要もないんだろうけど、なんだかねえ」
「ということは、ハキム様は鉄槌公ともチェスで対戦したことがあるのだろうか」
「いや、それはないよ。鉄槌公はああいう方だからね。平和税も払わない鉄槌公が、宦官の接待なんてするわけがないさ」
ナターリアはハキムの名を口にすることすら汚らわしい、と思っている様子だ。
「鉄槌公は、陛下の側近の機嫌などとる気はないということか」
「ああ、そうだ。他の諸侯連中は陛下の考案した新しいルールであの宦官とチェスに興じているらしいけど、カイザンラッドの危機が迫っているこの時に駒遊びとはいい気なもんだよ」
ナターリアは呆れたように吐き捨てたが、ウィルの心には違う考えが頭をもたげ始めていた。
(本当に、クロタール王はカイザンラッドにおびえているだけの人物なのだろうか)
クロタール王は、若き日には外交政策でアストレイアの山岳エルフを味方に引き入れ、賢王と讃えられた人物だ。ファルギーズでの敗戦以来、白銀協定を受け入れすっかりカイザンラッドの顔色をうかがうだけの男に成り下がったと見られているが、その見方は本当に正しいのか。
「ナターリア、私は今一度、鉄槌公に面会しようと思う。アリオス様、数日この城を留守にすることをお許し願えますか」
「構わないけれど、何をするつもりなの?」
「エルタンシアとこの国の行く末について、少々お話しておきたいことがあるのです」
アリオスは黙ってうなづいた。鉄槌公にはレグルスの護国隊の活動についても問いたださなければいけないし、他にも提案してみたいことがある。ウィルの予感が正しければ、鉄槌公がクロタール王への見方を改める日が来るかもしれない。
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