紫雲国の姫君
ガレアはエリュトリスから常緑街道を東へと進んだ森の奥にある古城だ。
規模はエリュトリス城には比ぶべくもないが、それでも三方を深閑とした森に囲まれ、南にはアムル湖をのぞむこの古城は外套のように
この小さな城はアリオスが父から与えられた城で、幼少期を過ごした場所でもあるが、ここ数年アリオスはエリュトリス城で軍務に就いていたため、久しぶりの帰還であった。
ウィルがこの小城を訪れて三日が過ぎていた。
アリオスは午前はナターリアに剣の稽古をつけられ、午後は書見をしたり、ウィルに武勲詩を聞かされる日々を送っていたが、今ひとつ身が入っていない様子だった。
今日は午後の学業を終え、アリオスは気晴らしに散策に出ている。
その様子を天守塔の小窓から眺めるウィルに、ナターリアが後ろから声をかけた。
「どうだい、なかなかいいところだろう、ここは」
「確かに。エリュトリスからさほど離れていないのに、あの街の喧騒が嘘のようだ。ここならアリオス様も浮世の憂さを忘れ、お心を安んじることもできよう」
「ここをはじめて見たあんたならそう思うだろうね。──でも、この城にはアリオス様も色々と悲しい思い出があるんだ」
声に憂いを含ませるナターリアに、ウィルが振り向いた。
「悲しい思い出とは?」
「実は、この城にはアリオス様の姉君のイリア様が住んでいたんだ。今から一年前まではね」
「ああ……なるほど」
イリアが去年亡くなったことは以前ナターリアから聞いていた。
まだ、アリオスはその面影を忘れられてはいないのかもしれない。
「イリア様がなぜお亡くなりになったのか、訊いてもいいだろうか」
「それがね、どうも腑に落ちないことが多いんだよ」
ナターリアは表情を翳らせつつ、言葉を続ける。
「実はね、イリア様はアムル湖に落ちたんだ」
「溺死なされたと?それはまた、どうして」
「それがね、どうもよくわからないんだ。イリア様はあまりお身体も丈夫ではなかったし、この城の外に出ることもあまりなかったんでね。ましてや水浴なんて趣味もない。どうしてあの日だけ、あの湖にお近づきになったのか……おや、あれは」
ナターリアが小窓を覗き込むと、外に何か見えたようだった。
「どうしたのだ?」
「大事なお客人が来ているよ。ほら、見てごらん」
ナターリアに促されて窓の外を見ると、澄んだ湖の畔にアリオスとほぼ同年代と思しき少女が並んで立っている。少女は花の模様を散らした薄桃色の衣服を着ているが、袖が膝から下にまで大きく垂れた独特の衣服はアスカトラのものではない。
「あれは、紫雲公国の衣服ではないか。かなりの貴人と見えるが、なぜここに?」
「実はね、あの方はアリオス様の婚約者なんだ。紫雲公国の姫君がアスカトラに輿入れする気になったなんて、どういう風の吹き回しだろうね」
紫雲公国はカイザンラッドの北方にある小国で、王族の女人は
カイザンラッド皇帝の皇妃マリヤも、騎馬民族国家オングートの王妃カリンも紫雲公国出身だが、カイザンラッドと敵対するアスカトラに嫁いだ公女はまだ存在していない。
「それにしても、どうもあの方には見覚えがあるような……」
「おや、ウィル、あんたは紫雲皇国の姫君にも知り合いがいるのかい?ずいぶんと顔が広いんだねえ」
「六年ほど前、あの国に立ち寄ったことがあったのだ。詩人は心の赴くままにどこへでも足を伸ばすものなのでね」
「じゃあ、挨拶でもしてくるかい?」
少し間を置いてから、ウィルは答えた。
「そうだな、久しぶりにご尊顔を拝見するとしようか」
言うと、ウィルは階下へと続く階段を降りていった。
◇
「これはサナ姫様、お久しゅうございます。私を覚えておられるでしょうか」
午後の陽光に煌めく水面を見つめたまま言葉少なに立ち尽くす異国の姫君の背中に、ウィルは静かに話しかけた。
ゆっくりと首をまわしたサナは、細い目を
「おや、貴方は……ウィルなのですね?」
薄く紅を引いた口元から流れ出た言葉には、親愛の情が籠もっていた。
「しばらくお見かけしないうちに、一段とお美しくなられました」
「まあ、相変わらずお上手ですこと。でも、まだまだ姉上には及びません」
「マツリ様は今でもご息災で?」
「ええ、今ではすっかり武人も板につくようになられました。思えば、あれからもう六年にもなるのですね」
サナは遠くを見るような目つきになった。その脇から、アリオスがおずおずと声をかける。アリオスの肩にとまっているニエヴァも、ウィルに鋭い目をむけた。
「あの、二人は知り合いなの?」
「ええ、話すと長くなりますが、六年前に紫雲公国を訪れておりました」
「へえ、やっぱり詩人というのはあちこちを旅しているものなんだね。あの国の北方には
アリオスは好奇心に目を見開いた。やはりこの公子は戦などより文芸の題材に興味が向いているらしい。
「それは半分正しく、半分は間違っている──といったところでしょうか。彼の地は
ウィルは六年前の冒険行を思い出していた。
あの頃はまだサナもあどけない少女でしかなかったが、今目の前の姫君は匂い立つような艶を辺りへ振りまいている。
「……ああ、いけない。また僕は外つ国へと魂を彷徨わせてしまったようだ。こうして空想にばかりふけっているから、お父上も僕を見限ろうとしているというのに」
「アリオス様、アズラム様が貴方を見限るなどありえないことです」
「なぜ、そう言えるの?」
「サナ様がここにいらっしゃることが、何よりの証拠です。アリオス様がエルタンシアの後継者としてふさわしくないのであれば、サナ様との婚姻などお認めになるでしょうか」
アリオスは少し考え込む様子をみせ、再び口を開いた。
「そのことなんだけれど、実は僕にも今ひとつよくわからないんだ」
「わからないとは?」
「サナ姫が僕に嫁ぐ理由が、だよ。紫雲公国は今、事実上カイザンラッドの
「私は、アリオス様のお相手にはふさわしくないのですか?」
サナは可愛らしく小首を傾げた。アリオスは慌てて手を振る。
「い、いや、そういうことじゃないんだ。貴方はむしろ僕にはもったいないくらいだよ。ただ、今の国際情勢を考えれば、サナ姫が僕に嫁ぐことで紫雲公国が得をすることが何もないと思うのだけれど」
「結婚とは損得だけで決めるものなのですか?そのように言われると、サナは寂しゅうございます」
「よいではありませんか。サナ様もこうおっしゃっているのですし、お二人は利害を超えた真実の
「真実の縁……」
アリオスは急に頬を赤らめた。サナは目を細めてその様子を眺めている。
(そうは言っても、紫雲公国ではこの婚姻が何らかの利益をもたらすと考えているはずだ。なぜ、わざわざ一領邦の公子に姫を嫁がせるのか……)
クロタール王の二人の娘は、王妃パリサが反乱を起こしアストラ城が落城した時に行方不明になっている。城と運命をともにしたとも、まだ生きているとも言われているが、いずれにせよ王にはいまだ後継者はいない。
だからといって一領邦の公子に大事な姫を嫁がせるというのは、あまり将来性のなさそうな賭けだ。アリオスがいずれエルタンシア公の地位を継ぐのだとしても、その妻の地位にどれほどの価値があるというのか。
「私は父上の決めた縁には逆らえない身の上ではありますが、アリオス様のようなお優しい方と夫婦となれるのであればむしろ本望です。動物と心を通わせる力は、民を慈しむ心にも通じましょう。そのような方こそ、いずれ立派な王となられ……」
そこまで話して、サナははっと口元をおさえた。
「いえ、立派なエルタンシア公となられましょう」
サナは少し目を泳がせたが、慌てて笑顔を作った。いかにもその場を取り繕おうとしている様子だ。
「サナ姫、僕が王になどなれるはずがないよ。そもそも父上のあとを継げるかどうかすら怪しいのに」
「いえ、アリオス様は優れた資質をお持ちです。その証拠にアリオス様……は……」
急にサナの身体が小刻みに震えだした。その目は虚空の向こうに何かを見ているようだったが、急に身体から力が抜け、ぐらりと背中から倒れ込もうとする。アリオスは急いでその背を抱きかかえた。
「どうしたのです、サナ姫?」
アリオスの手の中で、サナは唇をわなわなと震わせていた。
何かに怯えるように空の彼方を見つめる細い目の上に、まばゆく星型の紋様が浮かんでいる。
(夢見の聖紋か)
ウィルは久しぶりに、サナの聖紋が光るのを目の当たりにしていた。
「……いけない、アリオス様……戻って、来て……」
うわ言のように言うと、サナの首から力が失われ、アリオスの腕の中で細い目が閉じられた。
「サナ姫!」
アリオスの顔がさっと青ざめる。
「アリオス様、これは夢見の聖紋が働いた結果ですので、姫君のご体調は心配は要らないかと存じます。ですが今は安静にさせておくのがよろしいかと」
ウィルはアリオスを安心させるよう、努めて穏やかに言った。
アリオスは親しい友人に語りかけるように、肩のうえの鷹に目を向ける。
「ニエヴァ、すぐに医師団を呼んできてくれ。サナ姫を寝台へお連れしないと」
アリオスの言葉を理解したのか、ニエヴァは素早くガレア城へと飛び立った。
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