兄と弟と

「お前は……」


 巨大な人狼へと姿を変えたガラを呆然と見つめながら、レグルスは剣を構え直した。


「カイザンラッドはついにこんな邪法にも手を染めやがったのか!」


 レグルスがそう言い終わらぬうちに、ガラはレグルスの頭上に巨大な爪を振り下ろした。レグルスが素早く飛び退ると、ガラの右腕が爪から地面に食い込み、その勢いに地面が揺れる。


「お前の力がどれほどのものか知らんが、俺に敵し得るとは思えんな」


 レグルスの額の聖紋が光を放つと、ガラは何者かに押されたように背中を丸め、やがて地に膝をついた。四つんばいになり、体を震わせつつ起き上がろうとしているが、どうしても果たせない。聖紋で形成された力場の力に押されている。


「こんなちっぽけな力で僕を止めたつもりかい?」


 ガラが大口を開けて牙を剥くと、突き出した右手の先の爪が針のように長く伸び、レグルスに迫った。レグルスは急いで脇に避けたが、間に合わずに爪の一本が二の腕の皮膚を切り裂いた。


「アリオス様、このままではレグルス様が危険です!すぐに攻撃命令を」


 ナターリアの焦りを含んだ声を聞き流すと、アリオスは右手を高々と掲げ、


「ニエヴァ、あいつを止めろ!」


 その右手を振り下ろした。その動きに応じ、アリオスの肩の鷹が素早く飛び立ち、ガラの背中に迫った。ガラが後ろを振り向くと、左手の爪をニエヴァの身体へと伸ばしてきたが、ニエヴァは素早くその一撃を避け、ガラの額の紋章をくちばしで突いた。


「ぐっ……なぜこんなにも熱い?」


 ガラは両手の爪を引っ込めると、額を抑えながらうめいた。


「生命のことわりに反する邪紋と、生命の力を増す聖紋とでは相性が悪くてあたり前だよ。ニエヴァには僕の力を分け与えてある。人が人の分を超えた力を持つのなら、それを抑える力もまたこの世には存在するんだ」

「小賢しい真似を……」

「今ならまだ間に合う。どうか悔い改めてくれ。もう二度とここを襲わないと誓うなら、その狼たちを貴方に飛びかからせたりはしない」


 アリオスの聖紋が鈍く光ると、まだ生き残っている狼たちがグルルル……と喉を鳴らしながらガラをにらみつけた。どうやらこの狼たちはガラよりもアリオスに従いたがっているようだ。


「アリオス、お前はまだそんなぬるいことを言ってるのか!」


 レグルスの叱声が飛ぶと、ガラはいきなり立ち上がってアリオスに向かって突進してきた。レグルスの集中が切れた隙を突いたのだ。両腕を前に突き出すと、十本の爪が恐るべき速さで伸びてくる。ナターリアは急いで弓に矢をつがえると、狙い過たずガラの額に矢を突き立てた。


「ナターリア!」


 アリオスの咎める声にも構わず、ナターリアは後ろを振り向くと、背後の兵に目で合図を送った。真紅の甲冑をまとう兵たちが一斉にガラに矢を放ち、ガラの身体は針鼠のような姿になる。ガラの爪はアリオスとナターリアの寸前で止まり、虚しく宙を掻いただけだった。

 鮮血が石畳の道路を濡らし、やがてガラの身体はどうと前倒しになった。周囲の狼たちも残らず射殺され、死骸が累々と地に転がる。


「──まったく、手間を取らせやがって」


 ガラに歩み寄ったレグルスは、ガラが動かなくなったことを確認すると、大股でアリオスに歩み寄った。アリオスは馬を降り、レグルスに駆け寄る。


「ご無事ですか、兄上」

「大丈夫か、じゃないだろうが、この大馬鹿野郎!」


 アリオスの配下の兵が見守るなか、レグルスはアリオスの頬に拳を叩き込んだ。

 たまらずにアリオスはふらついたが、唇の血を袖で拭い、兄をにらみ返す。


「兄上……」

「いいか、いくらお前に動物を使役する力があろうが、こいつが罪を悔い改めるわけがないんだ。話し合いの余地が無い奴とは戦うしかない。なぜそれがわからん」

「ですが、最後まで話し合う望みを捨てては」

「ここは戦場だ。お前がさっさと攻撃命令を出していれば、こいつはもっと早く片付けられていたはずだ。お前の判断が遅れたせいで、お前は俺達も、そしてお前の部下も危険にさらした」


 唇を噛んで黙り込むアリオスに、ナターリアがそっとささやきかける。


「アリオス様、命令を待たずに勝手に攻撃を仕掛けたこと、どのような罰でも受ける覚悟です」

「いや、いいんだ、ナターリア。きっと仕方がなかったんだろう」


 力なく微笑んでみせるアリオスの表情は、それでも凄惨な戦場に咲いた一輪の花のようだった。目鼻立ちが整っているだけに、憂いを含んだ目の光が余計に寂しげにみえる。


「ナターリア、今回はよくやってくれた。今後もこいつを支えてやってくれ」

「はっ」


 ナターリアは短く答え、頭を下げた。その隣でアリオスもまた一緒に頭を垂れた。



 ◇



「しかしなあ、一体何を話してるんだ、あの兄弟は」


 狼の死体を片付け、空の荷車を引いてオルバスがレイダス城の門前に戻ってきた。

 レグルスはアリオスと話があると言って、ふたりで城の中に入ったまま戻ってこない。ウィルがその問いに答えずにいると、代わりに話しかけてくるものがいた。


「アリオス様がレグルス様とお会いになるのも久しぶりだからね。積もる話もあるんだろう」


 アリオスの脇にいたときとは打って変わって気さくな調子で声をかけてきたのはナターリアだった。


「ひとつ訊きたいのだが、アリオス様は鉄槌公の嫡男だとうかがった。ということは、レグルス様はアズラム様の長男ではあっても嫡男ではないということになるのだろうか」


 ウィルが尋ねると、ナターリアは陽気な笑みをみせた。

 黒曜石のような光沢を放つ大きな瞳は沿海州人特有のもので、軽くウェーブする黒髪を色とりどりの飾り紐で一房に束ねて背に垂らしている姿は、武人らしい簡素な出で立ちの中にも独特の華を添えている。


「ん、あんたは護国隊の隊士だろう?それくらい知らないのかい?」

「実は、私は最近入隊したばかりなのでね。そのあたりの事情は知らないんだ」

「じゃあせっかくだから教えてあげようか。これはもう二十年も前の話なんだけど、陛下のアストレイアの山岳エルフとの婚姻政策でレイラ様がアズラム様の正妻になったものだから、先妻のタニア様は正妻の座を降ろされてしまってね。その時点でタニア様のお子のレグルス様も嫡男ではなくなったというわけさ」

「なるほど。ではアリオス様は後妻のレイラ様のお子だと」

「その割には山岳エルフの特徴は出てないけどね。尖り耳になるかは人にもよるらしいんだ。イリア様はかなりレイラ様に似ておられたけど」

「イリア様とは?」

「アリオス様の姉君さ。もうお亡くなりになって一年ほどになるよ」


 ナターリアはわずかに表情を曇らせた。


「イリア様は母親のレイラ様に似て、お身体が弱かったからね。身体が弱い、というか、エルタンシアの気候がエルフにはあまり合っていなかったのかもしれない。それに、ファルギーズの敗戦以来、この国ではエルフは居心地が悪くなってしまったってのもある。レイラ様は七年前にパリサ様が亡くなって以来体調を崩していて、ついに去年お亡くなりになったんだけど、イリア様も後を追うように逝ってしまわれたよ」


 七年前といえば、アスカトラ国王クロタール二世の王妃パリサが白銀協定に反対し、カイザンラッドとの戦争継続を求めてアストレイア領邦の居城に二人の娘を連れ去った年だ。パリサは弟であり、アスカトラの大将であったトゥーラーンをファルギーズの野で殺したカイザンラッドをどうしても許せず、王が和平条約を結ぶのなら娘のどちらかに王位を継がせ、新しい王のもとで戦いを続けるとまで主張したのだ。山岳エルフの「二粒の宝珠」の双子の姉は、炎のごとき気性の持ち主だった。このパリサの妹がアリオスとイリアの母、レイラである。

 

 娘二人を人質に取られた格好になった王は、それでも宰相ダリルの進言に従い、アストレイアを攻めた。アスカトラをふたつに割り、和平条約を滞らせるわけにはいかないと判断したのだ。名将ダインベルトに攻められたアストル城は陥落し、パリサは炎上する城と運命をともにした。王の二人の娘、アルティラとディリータはいまだに行方が知れない。


「もうひとつ訊いてもよいだろうか」


 ウィルは遠慮がちな問いを向けた。


「なんだい?」

「貴方がたの援軍がここに到着したということは、エルタンシア公はレグルス様のなさっていることをご存知なのだろうか」


 鉄槌公アズラムの嫡男であるアリオスの軍がここレイダス城まで出張ってきたということは、鉄槌公は息子がここを根城に平和税を奪取する活動をしていることを知っている可能性がある。護国隊の活動を知っていてレグルスを助けたのなら、これはアスカトラに対する重大な反逆行為だ。


「あたし達がここに来たのはアリオス様のご意思だ。鉄槌公のご命令じゃないよ」

「と、いうことはアリオス様もレグルス様の活動を認めていると?」

「そいつは違うね。アリオス様は、あまり護国隊の活動には乗り気じゃない」

「それでも、兄であるからにはレグルス様を助けないわけにはいかなかったというわけか」

「ああ、そうだ。護国隊の活動をしているからこそ、今回みたいにカイザンラッドの連中に目をつけられることにもなる。こういう事態をアリオス様は心配しておられたってわけさ。おそらくは今もあの城の中で、もう平和税に手を出すのはやめてくれって兄君を説得しておられるんだろう」


 ナターリアはレイダス城の城門へ首をまわした。兄弟で何を話しているのか、まだふたりとも一向に中から出てくる様子がない。ナターリアの後ろで休憩をとっている真紅の甲冑の騎士たちも、そろそろ退屈しているようにみえた。


「しかし、レグルス様はアリオス様の言い分など聞かないのではないか」

「そうだろうね。あの方はあの方で信念を持って護国隊をやってる。アリオス様とはご気性もだいぶ異なるし」


 ウィルはアリオスができるだけガラとの戦闘を避けようとしていたことを思い出した。なるべく穏やかに事をすませようとするあの性格では、武張ったレグルスとはそりが合わないだろう。


「おや、あのお坊ちゃんが出てきたぞ」


 オルバスがレイダス城の正門から出てきたアリオスに目を留めた。レグルスは連れてきていない。アリオスの背後にはオトーが従っている。


「待たせてしまったね、ナターリア」


 アリオスは伏し目がちにねぎらいの言葉をかけた。長い睫毛の下の瞳には疲労の色が濃い。


「やはり、兄君はお話を聞いてくれませんでしたか」

「ナターリアにはなんでもお見通しだね。その通り、兄上は護国隊の活動をやめる気はないらしい」


 軽くため息をつくアリオスを前に、ナターリアは少しの間沈黙した。


「やっぱり僕は甘いのかな、ナターリア」

「そのようなことはございません。これはアリオス様の信念とレグルス様の方針が相容れないというだけのことです」

「しかし、今のままではまずいよ。いずれこの場所も特定されてしまうかもしれないし、アスカトラ軍が本腰を入れてここを攻めてきたら、いくら兄上でも太刀打ちできるはずがない。そうなってからでは遅いんだ」


 ウィルは思案顔になっていたが、しばし間を置いてから口を開いた。


「恐れながら、アリオス様におたずね申し上げます。レグルス様の説得なら、お父上のエルタンシア公に頼んでみてはいかがでしょうか」


 アリオスの顔に、さっと驚きの色がさした。しかしアリオスはすぐにその表情を消し、それは無駄だ、といった風にかぶりを振った。

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