第4話 コーヒーには、はちみつを。
付き合っていた彼女と別れて一週間。そんなこと忘れてしまおうと、いつも以上に仕事に熱心だった私は、ついに心が折れてしまった。それは、取引先でのある一件。「申し訳ないね」と言われて契約を打ち切られた案件を上司に報告すると、フロアに「バカ野郎!」という怒号が響き渡った。たちまち、社内は私を異端児のように扱い、しだいに私はそこに存在しないような亡霊人間になった。誰もが、私を見ていない。見ていないのではなく、見ないようにしていた。冷房の効いていない暖かい春の日だが、そこはまるで北極で冷房をかけているかのような異世界が、私を包んでいたのである。
契約を切られたのは、明らかに取引先の営業不振によるものだった。「いっしょに立ち直っていきましょう!」というすがすがしい言葉は、もうこの口から出そうにない。いっしょにというどころか、自分ひとりを立ち直すこともできないでいた。
私は、途方に暮れる中、目の前にふわっと浮かび上がったカフェに立ち寄った。一階建てで、入口から奥の席までもが見える広い店内。黒を基調としたシックな雰囲気が、今の自分に合うような気がして、とても心地よいものに感じた。私は本日のコーヒーというものを注文し、奥の窓側のカウンター席に座った。窓越しに見えるサラリーマンの姿を追いながら、彼らの寂しい背中を感じる。仕事なんて楽しくない。仕事なんてやりたくてやっているんじゃない。そんなことを多くの背中が語っているようだった。
香ばしい香りが漂ってきたと思うと、予想は的中、注文したコーヒーが運ばれてきた。カップの中で揺れるコーヒーを見つめ、香りを味わう。すると、どこか懐かしい感じがした。私の表情がコーヒーに映ると、その虚しさとともにコーヒーを飲み込んだ。
「この味、どこかで」
温かいコーヒーが掌に伝わり、カップから口へ、口から身体中を包みこんでいく。その温かさは、私の過去を思い出させた。
「なーに疲れた顔して。ほら、コーヒーでも飲んで」
「元気ないなあ」
そう言って彼女は、コーヒーにはちみつを入れたんだ。そうだ、この香りにこの味わい。はちみつが入っている。あのときと同じ味だ。まさか、と思い店内を見渡した。何を考えてるんだろう。彼女がいるはずない。私はまた一口、コーヒーを飲んだ。やはり同じ味。あのときと、同じ味がした。
「お待たせいたしました。本日のコーヒーでございます」
運ばれてきたのは、注文したコーヒーだった。しかし、私の手元にはすでにコーヒーが届いていた。
「失礼いたしました」
私は間違えて持ってきたコーヒーを下げ、立ち去ろうとする店員を呼び止めた。
「本日のコーヒーには、はちみつが入っているのですか?」
「いえ、ブラックでお作りしています。ご希望でしたら、はちみつをお持ちいたします」
「あ、いや、大丈夫です」
ん、となると、これは本日のコーヒーではない。もしかしたら、このはちみつ入りコーヒーは別の客が頼んだものなのかと席を見渡すが、頼んだコーヒーが手元にない人はいなく、これといった問い合わせもないようだった。だとしたら、店員が間違えて作ったのだろう。
私はボーっと外を見ていた。窓に自分の姿が映るころ、不思議なことが起きた。
ふと見た交差点で信号待ちをしている彼女を発見したのだ。肌寒い夜だ。彼女は手をさすりながら待っていた。そして、信号が青になると、なんと、このカフェに向かって入ってくるのだった。
私は、動きもせず彼女が中に入ってくるのを待っていた。
これは、運命なのだろうか。彼女は、私の隣の席に座った。彼女の手、彼女の匂い、コーヒーの香りが、このふたつの席だけに漂っている。
私は、ゆっくり彼女に顔を向けた。すると、彼女は、私の方を見ていた。目が合うと、私たちはにっこりと笑った。
「久しぶり」
「うん、久しぶり」
驚きながらも、彼女の物静かなトーンは、全然変わっていなかった。
「今、来たの?」
「うん。なんか、偶然。このカフェが、ふわっと浮かび上がったきたの」
「それ、同じ」
「そうなんだ。私、仕事で失敗しちゃったの。すごい怒られて、みんなにも遠ざけられて、孤立しちゃった。今日、退職したの。もう行くとこない」
これは神様のいたずらなのだろうか、あまりに状況が似すぎている。
「それ、俺も」
「え?」
私たちは、笑うしかなかった。だって、すべてが似ているんだから。
彼女は、コーヒーを飲んだ。
「おいしい」
「それ、はちみつ入ってる?」
「うん。本日のコーヒーって、はちみつコーヒーなんだね」
「本日のコーヒー頼んだの?」
「うん」
「たぶん、本日のコーヒーはもうすぐ運ばれてくるよ」
私の予想通り、店員が彼女の注文した本日のコーヒーを運んできた。
「間違えたのかな? でも、なんでわかったの?」
「さっき、同じ目にあったから」
「変なの」
その偶然は、私たちの再スタートを祝ってくれた。
彼女は、私の妻となり、主婦として新たな一歩を踏んだ。私は、会社にしがみつき、打ち切りとなった契約を取り戻した。それでも上司や同僚からの冷たい視線は続いていたが、今となってはそんなことなど、どうでもいい。私には、守るものがある。大切な人がいる。
家に帰ると、その大切な彼女が待っていてくれる。
「疲れた?」
「うん」
「はい」と渡されたのは、はちみつ入りのコーヒー。この甘さが、疲れた身体だけではなく、心にぐっとくるんだ。あのときのどん底から抜け出せたように、これっぽっちの困難などすぐに立ち上がれる。そんな『気』が、このコーヒーには含まれている。
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