第3話 子なし孫なし、わしは老人

 突然、息ができなくなった。空気を吸っても吸っても、苦しいのである。目の前がゆがんだと思うと、景色が真っ黒になった。


 ピーポーピーポーという救急車の音が聞こえた。

 ここはどこなんだ?と思い、目を開けると、白い景色が映った。

「白井さん? 聞こえますか? 白井さん」

誰の声なのかわからず、顔を動かしてみる。何度も名前を呼ばれるが、このような白い服をきた若い女など、知り合ったこともない。

「ここは?」

「病院ですよ」

それでわかった。ここは病院、この女は看護師なんだと。

「白井さん、救急車で病院に運ばれてきました。わかりますか?」

わしが救急車で運ばれてきた?このわしが?わしは、80年間病院に世話になったことなどなかった。健康だけが生きがいのわしが、救急車で運ばれただと?

「早く元気になって、退院しましょうね」

早く元気になって?退院?わしは、もしかして入院しているのか?

「なんの病気なんだ?」

「肺気腫です」

「肺気腫?」

「タバコ、よく吸われていたんじゃないですか? 呼吸が苦しくなったり、動悸がする病気です」

わしが病気だと?

「知らん。そんなことで病気になってたまるものか」

わしは起き上がろうとした。

「うっ……」

苦しい。胸が苦しい。

「今は安静にしていてください」

 呼吸が治まると、わしはまた起き上がろうとした。先ほどのは偶然だ。

「うっ……」

ダメだ。体が言うことをきかない。

「白井さん。急に起きると、苦しくなります。起きたいときは言ってください」

なんと情けないことなのだ。わしは、年を取ったようだ。

 「白井さん、ご家族はどちらに?」

「家族はみな死んでしまった」

「お子さんやお孫さんはいらっしゃらないんですか?」

「わしは子なし孫なし、ただの老人だ」


 集中治療室から、わしは一般病棟に移った。

 そう、わしは子なし孫なし、ただの老人だ。面会時間になれば、同じ病室に皆の家族が見舞いに来ている。前の老人は息子、隣の若者は兄弟、斜め向かいの老人は、息子とその嫁に孫であろう。しかし、わしは子なし孫なし、ただの老人だ。見舞いに来てくれる人など、誰もいない。妻も兄弟も先に逝ってしまった。

 子がいないことなど、わしは何も気にしていなかった。養子をとろうなどと妻が言っていたこともあったが、そんな子などに悩まんでもいいと、わしは反対したのだった。子がいないわしたちは、金もかからんし、手をかけることもない。子などいなくても、平凡に暮らしていた。妻に先だたれた後は、わしはひとりで強く生きてきたと思っている。独り身の老人は、健康が第一。つい3年ほど前までは、毎朝ジョギングをしていたものだ。


 「おじいちゃーん」

と、前の老人の孫がやってきた。幼稚園、いや、小学生だろうか。

「これ、折り紙」

「ほう。いっしょに折るか」

そんなほほえましい姿が目の前で繰り広げられている。病室の中でただひとり、わしだけが暗いベットの中に佇んでいた。


 カーテンを閉めたい、が閉められない。トイレがしたいとき、物を取ってほしいとき、わしは看護士を呼ぶ。わしはもう、ひとりで何もできないのだった。

 ふと、わしの中で若いころのわしの声がよみがえる。

「わしは一生健康、だれにも頼らないで生きていくんだ」

昔のわしが今のわしに勇気を与えてくれる。わしは起き上がり、ベッドから立った。手すりにつかまり、トイレに行こうとした。すると、またあの苦しみが湧き出てきた。

 胸を押さえ苦しんでいると、駆けつけた看護士たちに運ばれる。わしは、もうひとりで動くことはできないのだろうか。苦しさ以上に、病気と素直に向き合えない自分との葛藤のほうが、つらかった。


 ある日、わしはベッドを起こし、本を読んでいた。すると、前の老人の家族の息子と孫が見舞いにきた。しかし、前の老人は今リハビリの部屋に行っていて、ここにはいない。孫はつまらないのか、だだをこねはじめた。

「折り紙でもしてなさい」

と叱られると、静かに何かを折り始めた。

 前の老人が戻ってくると、孫は喜び、老人と手遊びなどをして遊んでいた。わしは、本を読むことを忘れ、その様子をただ見ていた。

 その親子の帰り際、その孫がわしに寄ってきた。わしは、子なし孫なし、ただの老人だ。どう接してよいのかわからず、その孫の顔を見つめた。

「これあげる。無理しないように鶴さんが見ていてくれるの」

 その孫は、わしの手に、鶴を置いた。そして、さっさと行ってしまった。わしは、嬉しかった。声をかけられたことが嬉しかった。物をもらうことも嬉しかった。なんだかよくわからんが、とにかく嬉しかったのだ。

 わしはそれから、リハビリに励んだ。あまり長く歩くと、呼吸が苦しくなる。近場をゆっくりと歩く。無理をしないように、鶴がそう言っているから、ゆっくりゆっくりと。


 そして、退院となった。家に戻り、一人暮らしをしている。酸素療養を進められたが、わしはこのまま生きていく、そう決心したのだ。

 わしは、妻の仏壇の前で息をはかはかしながら手を合わせた。

 わしがこうして家に戻ってこれたのは、あの孫のおかげだ。よくわからんが、あの時、元気、やる気、根気というような、いろいろな気が湧いてきたのだ。この仏壇に飾った鶴は、今でも私を頑張らせてくれる。きっと、あの孫は、妻のよこした天使、いや、妻が欲しがっていた子なのかもしれない。


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