破られた誓い
カヤの家を出て、ミラの髪が向く方向へ向けてレヴィンは駆けた。
人一人がようやく歩ける程度の小道を走り、針葉樹の林の中を進むと、次第に水飛沫の音が近くなってきた。
ようやく開けた場所に出たレヴィンの目に映ったのは、二筋の滝がはるか山上から滝壺へと流れ落ちてくる光景だった。滝壺の表面では白い飛沫が弾け、そのなかに小さな虹がかかっている。そして、清い水流に半身を浸しているその姿にレヴィンは目を見張った。
「だめだろう、起き上がっちゃ。あんたは病み上がりなんだから」
裸の背を見られたのを機にする様子もなく、カヤは言った。
背にまとわりつく濡れた銀髪が午後の陽の光を浴び、いっそう鮮やかに輝いている。
「ここで何をしているんだ」
「水浴び以外のことをしてるように見えるのかい?」
「それは、そうだが」
レヴィンは言葉に詰まった。カヤが動揺していないからいいものの、これでは水浴を覗きに来たようなものだ。
「女の子連れであたしの裸を見に来るはずもないし、なにかわけがありそうだね。話してもらおうか」
「実を言うと、さっきあんたが小鳥と話をしたあと、落ち込んでいたようだから気になってな。それで様子を見に来た」
「はは、もしかしてあたしが滝の上から身を投げるとでも思ったのかい?あそこにのぼる道があるとでも?」
カヤは滝の上を指さした。あたりを見渡しても、あの上まで登る道はどこにもなさそうだった。
「ま、登る気になりゃ登れないでもないけどね。これでもあたしは魔女だからさ」
艶然と微笑むカヤからレヴィンは視線をはずした。
「邪魔したな。どうやら余計な心配をしてしまったようだ。俺たちは戻るとするよ」
「ちょっとお待ち。あんたたちに見てもらいたいものがあるんだ」
カヤの背中に翼のような模様が浮かび上がり、それが剥がれるように立体の羽を形作った。二、三度はばたくと、カヤは水滴を滴らせつつ、宙へと浮かび上がった。
「……こいつは驚いたな」
裸のカヤのしなやかな肢体のすみずみまで、複雑な紋様が刺青のように這っていた。黒曜石のような光沢を放つ蝶の羽を羽ばたかせつつ、カヤは宙に静止している。
「どうだい、旅の人。あんたにあたしはどう映る」
「俺の知人に絵描きがいるんだが、そいつがあんたを見たら格好の画題ができたと喜ぶだろうな」
「あたしが化け物に見えないのかい」
「化け物というには少々美しすぎる」
「口説いてるつもりなのかい?……いや、まさかね」
自嘲気味に笑うと、カヤはレヴィンに背を向けた。
「あたしを見ても驚かないところを見ると、どうもあんたもその子もわけありのようだね」
「職業柄、妖魔の類は見慣れてる。あんたは危険だとは思えない」
「そうかい、あんたもあの人と同じことをいうんだね。もし10年前に会っていたら、あんたともどうにかなっていたかもしれない」
あの人というのは誰のことか、もうレヴィンには察しがついていた。
「あの人というのはアルベルトのことか」
「ご明察。10年前に牙カモシカと戦って怪我をしたあの人をここに連れてきて、治療をしたんだよ。あの頃はまだノストマルクの平騎士だった。害獣の退治に駆り出されていたんだろうね」
「アルベルトにもその姿を見せたのか」
「どうしてもあたしと夫婦になりたい、っていうもんだからね。魔女と結婚なんてしようものなら、その男まで異端とみなされてしまう。だからあたしを諦めてもらおうとした」
「でも、諦められなかったんだな」
「その通りだよ。あの人はこの羽を見て、美しいと言ってくれた。そうまで言われたら、なんだか拒みきれなくなっちまってね」
少し頬を上気させ、カヤはうつむいた。
「夫婦になったのか」
「魔女と堅気の男じゃ結婚式なんて挙げられやしないよ。でもまあ、事実上の夫婦だ。しばらくはここで一緒に暮らしたけど、やっぱりここに引き留めちゃいけないと思えてきたんだ」
「好きなのに、一緒に暮らしちゃいけないの?」
ミラが不思議そうに眼をしばたいた。カヤが慈しむような私選をミラに向ける。
「魔女と一緒に暮らしてたら、いずれそいつは堅気の世界には戻れなくなる。そうなる前に出て行ってもらうのが、あの人のためだったんだよ」
「アルベルトに納得してもらうのは大変だっただろうな」
「この羽を見ても夫婦になりたいって言ったくらいだからね。最後は未来を占うふりをして、あたしと一緒になったら10年後には審問官に拷問されて殺されることになる、って言ってようやく出て行ってもらったんだよ」
「つらい思いをしたな」
「まったくだよ。まあ、それだけならまだいい。生きてりゃいずれ必ず別れはやってくるからね。でもなんだい、ナハトの話だとあの人は審問官になって、自分が魔女を追い回してるっていうじゃないか」
カヤは地上に降りると黒蝶の羽を背中にしまい、滝壺の岸に置いていた衣服を着た。黒蝶の魔女が、再び人間らしい姿にもどった。
「この世の中ってのは、あたしみたいな女にはどこまでも冷たくできてるらしいね。あたしがこういう身体になったのも、祖先の誰かが悪魔と契ったせいだというけれど、その報いなのかね」
「それは教会の連中の言い分だ。誰も傷つけていない力が悪魔の力であるわけがない」
「じゃあ、この力はいったいなんの血のせいなんだ」
「俺はラサーナ修道院で、人の悲しみが見えるエルフの少女に会った。その子はそれは精霊王の血を引いているせいかもしれないと言っていた」
「精霊、ね。天神教から見れば、どのみち悪魔みたいなもんだ」
唯一神をあがめる天神教の立場からすれば、火や水などに宿る精霊の存在など認められない。精霊信仰は唯一神の権威をおびやかすため、教会側は迷信としてこれを全面的に否定している。
「そう卑下したもんでもないだろう。碧玉蛍に刺されて眠り込んだ俺をここまで運んでこれたのは、その羽があるおかげじゃないのか」
カヤは少し疲れたような笑みを見せた。
「ずいぶんとあたしの肩を持つんだね。教会が嫌いなのかい」
「実はな、この子も魔女だと言われてる」
カヤにはそのことを話してもいいだろう、という気がした。この魔女なら、ミラのことを外の世界に漏らすこともないだろう。
「まあ、どうも普通の人間とは違うと思ってたけれどね。碧玉蛍に刺されても平気だったし。でも、魔女だというからにはそれなりの力が……」
そういい終える前に、ミラは橙色の髪を伸ばし、カヤの身体に絡みつかせていた。
「この髪は……」
カヤは初めは驚きに目を見開いていたが、やがて眼を閉じ、ミラの髪に身をゆだねていた。ミラに悪意がないことをすぐに悟ったらしい。
「なんだかずいぶんと気分が軽くなった気がするね。ありがとうよ、お嬢ちゃん」
「どういたしまして」
ミラが髪を戻すと、カヤの顔から翳りが去っていた。
「あんたもご同類、ってわけか。案外世の中は狭いもんだね。あたしみたいな女はほかにいないんじゃないかって思ってたんだけど」
「そう、だからこそ俺にとってもアルベルトって男のことは他人事じゃないんだ。あまりこういうことは言いたくないが、その」
「わかってるよ。あの人がここに踏み込んでくるかもしれない、ってことだろ?」
レヴィンは無言でうなづいた。アルベルトが異端審問官になったのなら、真っ先に狙いをつけるのはこの場所だろう。カヤをよく知る自分こそが彼女を捕縛する役としてふさわしいと考えるに違いないのだ。
「ノストマルク王は、魔女狩りには熱心なのか」
「即位したころはそうじゃなかったけど、最近はそうだね。そして、審問官の中でもアルベルトはとりわけ熱心で、優秀なんだそうだよ。だから王からの信頼も厚い」
「しかし、妙だな。ノストマルク王は神の救いから漏れた6種族には寛容なのに、魔女は狩るのか」
「そこはね、政治ってやつだよ。エルフや犬戎を公職に登用する王の政策には反発が強い。あまり国内に敵を作りすぎても困るから、時には貴族や教会と妥協しなきゃいけないんだ。そこで標的に選ばれたのがあたしたちってわけさ」
「向こうの都合で狩られるんじゃたまったもんじゃないな。王なんてのはしょせんどこでもそんなもんか」
「魔女はだいたい一匹狼だし、6種族みたいに団結して戦ったりもしないからね。標的にするには都合がいいんだろうよ」
「かといって、黙ってやられるわけにもいかない。あんたには魔術の心得はあるんだろう」
「あるけど、あたしはあの人と戦いたくはないね」
正気か、とレヴィンは思ったが、カヤの心中を思うと戦えと無理強いする気にもなれなかった。
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