魔女と追跡者
蛍火
ラサーナ修道院を出た先の街道は緩やかな勾配の下り坂が続き、その道のりは苦しいものではなかった。冷涼な山の空気は肌に心地よく、道の脇に咲く高山の花もしばしば目を楽しませてくれた。
山道を下る途中で巡礼者のための宿に一泊したのち、昼過ぎまで山道を歩き続けたレヴィンとミラは、小休止のため街道脇の林に少し入り、腰を下ろして杉の木に背をもたせかけていた。
「ここ最近、ずっと雨は降らないね」
ミラが木々の間から漏れ入る陽光に目を細める。
「あんまり日照り続きでも困るがな。ま、巡礼宿がある限り、水の補給には困らんだろうが……」
レヴィンは水筒の水を一口飲み、喉を潤した。
ラサーナ付近には巡礼宿が多く、立ち寄れば修道士たちが祝福を与えた水を無料で与えてくれる。
「ねえレヴィン、もし旅の途中で水がなくなっちゃったらどうするの?」
「どこかの将軍がキャベツの酢漬けを想像すればいいと言っていたらしいが、机上の空論だな」
「自分の唾を飲んでもダメってこと?」
「そんな程度のことで乾きが癒せるはずがない。本当にそんなことをいう将軍がいるなら、そんな奴の部下にはなりたくないな。どうせどこかの三流作家の作り話だろうが」
水筒の蓋を閉めると、レヴィンはそれを鞄の中にしまった。
「で、役に立たない将軍でも三流作家でもないレヴィンは、水の補給法くらい知っているよね?」
「このあたりは、近くに川があるかもしれないな。ちょっと探してみるとするか」
「神の光よ、我に獣の耳を与えたまえ」
聖句を唱えると、レヴィンの聴覚が研ぎ澄まされ、急に木々の葉擦れの音や小鳥のさえずる声、小動物の足音などが騒がしく鼓膜を震わせてきた。それらに混じり、遠くから小川のせせらぎが聞こえてくる。
「水音が聞こえる。北からだ。それほど遠くはないな。このあたりなら水質もいいだろう」
そうあたりをつけると、レヴィンはさっそく林の奥へと歩き出した。ミラもすぐ後をついてくる。しばらく歩くと、二人の周りを無数の碧色の光の粒がとり巻いた。
「うん?こんな昼日中から碧玉蛍か」
何度か目をしばたくと、レヴィンの視界に碧玉蛍の情報が表示された。
(碧玉蛍……ノストマルク西部からマーセラス東部にかけて分布する夜行性の昆虫。主に小川に生息する貝を食べる。警戒心が強く、ときに強い光を発し人を追い払おうとするが、基本的に無害な生物)
「きれい。なんだか宝石みたいだね」
「こいつらがいるってことは、近くに川があるってことだ。しかし碧玉蛍は夜行性のはずなんだが……」
そこまで言いかけた時、レヴィンは首筋にちくりと刺すような痛みを感じた。
(うん?虻でもいるのか)
首の後ろを手で払うと、今度は額や手の甲を何ものかが刺した。
手の甲に目を落とすと、何匹かの碧玉蛍がとまっている。
「こいつらが人を刺すのか?しかし、光明大典にはそんな情報は……」
なかったはずだ、とは発声できなかった。急激に眠気が襲ってきたからだ。
「レヴィン、しっかりして!レヴィン……」
遠のく意識のなかで、レヴィンはミラが叫ぶのを聞いた。視界がぐるりと回転し、背中を近くの木にぶつけたのを感じたのを最後に、意識が闇に沈んだ。
◇
「──えるかい?」
額にひんやりとした感触を感じ、レヴィンは薄目を開けた。
ミラともう一人、30代半ばくらいの長い銀髪の女が、こちらをのぞき込んでいる。
「あたしの声が聴こえるかい?」
今度はその女の声を最後まで聞き取れたので、レヴィンはうなづいた。起き上がろうとすると、身体の節々が痛む。どうやら熱にうなされていたようだ。身体の上には毛布が掛けられていた。どうやらしばらくここで眠っていたらしい。
「無理するんじゃないよ。じっくり身体を休めないとだめだ」
女が軽く笑うと、細い目の端に細かいしわが寄った。朱を塗った口元は艶めいていて、いくぶん蠱惑的にもみえる。
「ここはどこだ。そしてあんたは」
「あたしの許可を得るまで喋らないでほしいね。あんたはまだ病人なんだ。でも質問には答えてあげるよ」
真顔に戻ると、女は言葉を続けた。
「ここは双子の滝のすぐそばだ。深山幽谷、ってやつだね。そしてそんなところに一人で住むような女を、世間はこう呼ぶ」
なまめかしい仕草で髪をかき上げると、カヤの額に小さな蝶の刺青がみえた。
「黒蝶の魔女カヤ。それがあたしの名だよ」
「魔女……か」
顔を右へ傾けると、壁際の棚には木の根や香草、鹿の角などが何段にもわたって並べられていた。首を戻すと、小さな窓から入ってきた光に照らされ、銀髪をきらめかせているカヤの姿がある。革のスカートと胴衣をまとったその姿は、魔女というには地味だ。
(民間の治癒師、といったところかな)
カヤは危険な人物とは見えなかった。それなら自分を助けるはずがない。そう考えたレヴィンはもうしばらく休むことにし、目を閉じた。もう一度眠りに落ちようとしていると、何やらあわただしい羽音が聴こえた。
「どうしたんだいナハト、そんなに慌てて。──え、アルベルトが審問官に?……ふん、そうかい」
薄目を開けると、カヤが極彩色の小鳥と話しているのがみえた。カヤは明らかに落胆している様子だ。
「あたしはちょっとここを留守にするよ。夫婦の滝まで水を汲みに行ってくるからね」
そう言うと、カヤはそそくさと家の外へ出て行ってしまった。
「ねえレヴィン、あの人はほんとうに魔女なの?悪い人にはみえなかったけど」
カヤの背中を心配そうに一瞥した後、ミラは訊いた。
「この国の連中がそういっているだけだろう。鳥と話せるあたり、多少の魔術の心得はあるだろうが」
「魔術が使えるなら魔女じゃないの?」
「ふつうに考えればそうだが、教会側が魔女とみなせば、魔術が使えなくてもその女は魔女ということにされる。結局、向こうから見て都合の悪い存在が魔女だ」
「カヤさんがいると、どうして教会は困るの?」
「教会には治癒の法術がある。そこの棚に並んでいるものを見る限り、カヤは医術の心得があるようだ。そういう知識を持つものは、教会からすれば商売敵になる」
「ラサーナの修道士さんたちは宿にもただで泊めてくれたのにね」
「敬虔で修行に熱心な修道士と、金の匂いが大好きな教会の連中とは違う。だいたい国の中枢に近くなればなるほど教会は腐っていると思っておけばいい」
「そうなんだ」
ミラは椅子に座ったまま大きく伸びをした。
「でも、魔女扱いされているのに、こんな山奥までカヤさんを訪ねてくる人たちがいるんだよね」
「魔女の世話になるようなのは、たいがい貧しい連中だ。教会に払う金がないような奴はこういうところに来る。麦だの林檎だので治療費を支払ったりするのもいるらしいな」
「いいことをしているのに捕まえられるなんて、おかしいよね」
「まあ、魔女といわれる連中のなかにもいかがわしいのは少なくないからな。媚薬を作ってみたり、相談に来た男をたぶらかしたりするようなのもいる。もっとも、教会側でそういいふらしてる場合もあるが」
カヤはどうだろうか、とレヴィンは思案する。30代をむかえてなお衰えない美貌はその気になればいくらでも使い道がありそうだが、少なくともこちらに何かしてくる気はないらしい。ならどうでもいいのだ。アルベルトという男との関係は、今ここで考える必要もないだろう。
「しかし、まさか碧玉蛍に刺されるとはな。ミラ、お前は無事だったのか?」
「あちこち刺されたけど、特になんともなかったよ」
「そうか……しかし、光明大典はほんとうに当てにならんな」
碧玉蛍は無害な生き物だと書かれていたのに、レヴィンはこの虫の毒でしばらく眠らされていたのだ。この昆虫のことを調べた武装書記官はいったい何をしていたのか。眠らされるだけなら害などないとでもいうつもりなのか。
「そういえばカヤさん、審問官がどうこうとか言ってたけど……」
「審問官ってのは異端の者を取り調べるやつのことだ。当然、魔女もその対象になる」
「カヤさん、アルベルトさんって人につかまっちゃうの?」
「まだそうと決まったわけじゃない。今のノストマルク王が異端をどう扱うつもりかわからないからな」
現ノストマルク王は黒の森のエルフを白狼隊に入れるほど開明的な王だが、魔女という存在をどう考えているかはわからない。「神の救いから漏れた種族」とされているエルフにも寛容な王なら魔女にも寛容だと思いたくなるが、レヴィンは会ったこともない為政者にそこまで期待はしていなかった。
「カヤがここで暮らせている以上、今のところ魔女狩りはそれほど厳しくはないはずだ。だが、今後もずっとそうだとは限らん。だからカヤもあの鳥を放って、この国の様子を探っているのかもな」
レヴィンが顎をしゃくると、ベッドの脇の椅子に極彩色の鳥がとまっていた。
鳥は何か言いたげに、じっとミラに視線を据えている。
「この子はなにか言いたそうにみえるね。僕には鳥の言葉はわからないけど……あっ」
その時、ミラの頭頂の髪がぴんと立った。
「どうした?」
「北のほうから、大きな悲嘆の
「カヤは夫婦の滝に行くといっていたな。まさか」
滝壺に身でも投げるつもりなのか。だとすれば、あの鳥が伝えてきたアルベルトという男のことが原因か。レヴィンは筋肉痛にも構わず、ベッドから跳ね起きた。
「ミラ、カヤの後を追うぞ。あいつを一人にしておいては危ない」
無言でうなづくと、ミラは急いで魔女の家を出たレヴィンの後を追った。
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