ラサーナ修道院
「うわあ……なんだか修道院というより、城下町みたいだね」
目の前にみえてきた建築群の威容をまのあたりにして、ミラは感嘆の声をあげた。
ラサーナ修道院は切り立った山の頂に君臨し、中央の尖塔が天を衝くようにそびえ立っていた。周囲には小さな窓が空いているだけの石造りの無骨な寺院を七つほど従えており、神の栄光を存分に訪れるものにみせつけている。
そこから坂道が山の中腹へとくだり、その周囲にへばりつくように長方形の僧坊がいくつも立ち並んでいた。いざというときには籠城すらできそうな堅牢な建物を横目に見ながら、レヴィンとミラは坂道を登っていく。
「教会とか修道院ってのは、どこでも金には困ってないものさ」
レヴィンは先を歩くゲルダに聞こえないよう、小声でミラにささやいた。
「どうして?修道士さんって、お金とは無縁なんじゃないの?」
「たいていの王侯貴族は戦争で多くの命を奪ったり、大した罪もない領民を処刑したりしてるんだ。当人にも罪悪感があるもんだから、こういうところに寄付して少しでも来世の罪を軽くしようとする。金を儲けすぎた商人も同じだ。天に徳を積むことで、私利私欲を追求した生を清めようとする」
「じゃあ、お金を持っていれば、たくさん悪いことをしても許されるの?」
「そういうわけじゃないだろうが、こういうところに金が流れるのは悪いことじゃない。修道院に金があれば貧しい連中や病人を助けることもできるし、孤児を引き取って育てることもできる。上の連中が不正に使い込んでなければ、うまい具合に金が回るというわけだ」
レヴィンがそこまで話すと、ゲルダが急に後ろを振り向いた。
「ラサーナは今の院長が赴任して以来、かなり規律は厳しくなっております。私をここに呼んだのも、院長のはからいです」
レヴィンはごくりと唾を呑んだ。どうやら全て聞こえていたらしい。
「不正を行うものはその棒で叩きのめされるとなれば、確かに皆緊張で身が引き締まる思いだろう」
「私は必要もないのに棒を振るったりはしません。ただし、ラサーナの秩序を乱す者あらば、たとえ宿泊客でも容赦はいたしません」
「心しておくとしよう」
ゲルダの吊目がちの目が、一瞬刃のような光を宿した。やはり彼女は修道女というより、武人に近いらしい。レヴィンが内心舌を巻いていると、ミラがそっとレヴィンの手を握ってきた。
(ねえ、あの人、悲愴の
ミラがやっと聞き取れるほどの声でささやいてくる。ミラと目を共有したレヴィンにも、ゲルダの身体には悲しみを見出すことはできなかった。身体を鍛え抜いている武人は、心もまた壮健なのだろう。
「ところで、俺たちが宿泊するところはどこなのだろうか」
道の両脇にみえてきた石造りの長い建物に目を配りつつ、レヴィンは訊いた。
「今空いている宿坊は、ここを道なりに進んで左に折れ、坂を登って最初に右側に側みえる建物になります。入り口の修道士に一言声をかけていただければ、無料で三日までの滞在が認められます。それ以上は浄財を寄付していただければ、滞在を延長することもできます」
「了解した。ここまで案内していただいて感謝する」
「こちらこそ、久々に強い気を放つ方と出会えて幸運でした。もし機会があれば、貴方がたとは一度立ち会ってみたいものです」
「神の導きがあれば、いずれは」
軽く頭をさげると、ゲルダは早足でラサーナの尖塔へつづく坂道をのぼっていった。三時間ほど歩き通しだったのに、全く疲れる様子もみせていない。
「ゲルダさん、貴方がたと立ち会ってみたい、って言ってたよね」
ミラがゲルダの背を見送りながら言う。
「何か気になるか?」
「貴方がたって、僕も含まれてるってことだよね。僕と戦う気なのかな」
「あれ程の武人だから、お前にも戦う力があることを見抜いていたんだろう」
「……僕って、そんなに怖くみえるのかな」
ミラが少し声の調子を落とした。
「そうじゃない。本当に怖い相手なら、武人は立ち会ったりはしない。逃げるだけだ」
「本当?僕、怖くないんだよね?」
「ああ、心配しなくていい。誰が見たって、お前はただの人間にしか見えないからな」
「良かった。僕ね、ずっと心配だったんだ。僕が普通じゃない力を持ってることが、実はみんなにバレちゃってるんじゃないかって」
ミラが安堵の表情をみせると、レヴィンの心の奥が小さく疼いた。
「そんなことはない。俺だって、最初はお前のことをただの人間だと思ってたくらいだ」
「じゃあ、イリーナって子のことも怖がらせずにすむね」
「心配しているのはそっちか」
レヴィンはミラに微笑を向けた。ミラは自分があやかしだと見られるのが怖いのではなく、あくまで人を傷つけてしまうのが怖いのだ。ここまで他人のことを思いやれる子が、魔女などであるわけがない。
「そう言えば、イリーナって子のことは訊き忘れていたな」
そこまで話したとき、二人はすでに宿坊の前までたどり着いていた。杖を片手に入り口に立っていた修道士に事情を説明すると、修道士は喜んで中へと招き入れてくれた。目の前に差し出された紙片に名前を書き込むと、二人は二階の宿泊部屋へと案内された。
「食事の時間は夜七の刻となります。具材には肉や魚は用いませんので、あらかじめご了承ください」
痩せぎすの修道士はそう告げると、階下へと降りていった。
辺りを見回すと、三十床ほどのベッドが横二列に並べられており、十人ほどの旅行客がベッドに腰かけ、隣のものと言葉を交わしているものもいる。
聖域の中ゆえ皆一様に小声だが、ささやくような声に混じり、時おりうめき声が聞こえた。
「どうした、大丈夫か」
チュニックの袖のうえから右の肘のあたりをさすっている男に、レヴィンは声をかけた。男はかなり生え際の後退している頭を振りつつ、答える。
「昨日から、どうにもここが傷んでねえ……今夜は眠れそうにないんだ」
苦痛に顔を歪めつつ、男は継ぎの当たった肘を撫でた。
「少し見せてくれないか。俺には多少、法術の心得がある」
「本当かい?もし治してくれるなら、治療代ははずむよ」
「今は金のことは考えなくていい。まずは服を脱いでくれ」
男は言われたとおり服を脱ぐと、レヴィンに裸の腕をみせた。右肘の少し上に切り傷があり、周りが紫色に変色している。しかも傷口からは毒々しい赤紫色の筋が周囲に伸び、妖しく脈打っていた。
「誰にやられたんだ」
「シルダリアから来る途中、賊に斬りつけられてね。かすり傷だったんだが、毒でも塗られていたみたいだ」
とぎれとぎれに言う男の傷に、レヴィンは目を凝らした。
(これは毒ではないな。タロイムの蛮族の呪術に近いようだが、なぜここらの賊がこれを……)
ノストマルク南方の多島海をさらに南へと下り、十日の航海を経てようやくたどり着ける
「少々手荒なやり方になるが、早く対処しないと危ない。こいつに体を乗っ取られる前に引きはがさなければ」
「何でもいいから早くしてくれ。ここで足止めを食らって荷の到着を遅らせたら、俺は商売あがったりだ」
「よし、わかった。今からこの傷の浄化を行う。少し苦痛を伴うかもしれんが、我慢してくれ」
不安が男の顔をよぎったが、それでも男は黙ってうなづいた。
「邪なる魂よ、汝のあるべきところへ還れ……」
レヴィンが聖句を唱えはじめると、傷口の中から小さな目玉が現れ、こちらをにらみつけた。男が苦痛に身をよじるので、レヴィンは周りにいる者たちに手足を押さえつけるよう指示する。
(
レヴィンの意識に埋め込まれた光明大典が、目の前の禍々しい生命体の情報を表示した。まずはこいつを商人から引きはがさなくてはならない。
「聖なる
レヴィンが傷口にかざした掌からまばゆい光が放たれると、ギィィィィ……という耳障りな鳴き声とともに
六本の足を不気味に
「もう大丈夫だ」
そう声をかけると、男は首筋をびっしょりと汗で濡らし、肩で大きく息をついていた。
「やれやれ、助かったよ。礼ははずむぞ」
「いや、礼ならいい。これでも元聖職者なんでね、法術と引き換えに金は受け取らないことにしてる」
「しかし、それじゃあこっちの気がすまない。なにか役に立つことができればいいんだが」
「それなら、あんたを襲った賊のことを詳しく聞かせてくれるか?」
「もちろんだ。奴らはラサーナの東門の少し手前で三人一組で襲ってきたんだが、弯曲した剣を持っていて、顔には奇妙な紋様の入った仮面をかぶっている。動きは鈍いが、とにかく退くことを知らない」
「そんな奴ら相手にかすり傷ですんだのか」
「それが、必死で峠道を走って逃げていたら、ラサーナの方からふしぎな女の子が現れてね。聞き慣れない言葉をつぶやきながら歩いてきたんだが、そのとき急に突風が吹いて、たちまち賊が吹き散らされちまったんだ」
「急な突風……か。その女の子にはなにか特徴があるか」
「若草色の服を着てて、髪は金色だったな。耳が尖っていて、無愛想だった」
(耳が尖っていて、無愛想……もしかして)
ゲルダから、ラサーナの孤児院にはイリーナという決して笑わない
「その子がどこに行ったかはわかるか」
「賊が逃げていったら、すぐに来た道を戻っていったよ。華奢な体に似合わず早足だった。ラサーナのどこかに住んでるんだろうが、どこにいるのかまではわからないな」
「それだけわかれば十分だ。あとは自分で探せる」
「その子に何か用があるのかい?」
「俺の連れがその子に会いたがっていてね」
「そうなのか。その用事をすませたら、俺と一緒に来てもらえないかい?あんたがマーセラスに向かうなら、護衛として雇いたい。あんたは腕が立ちそうだ」
「残念だが、俺たちはこれからナルヴァに向かうところでね。方向は真逆だ」
「へえ、学芸の都で楽士のお守りでもするつもりかい?あの女たらしどもはあちこちの寝取られ男に恨みを買ってそうだからな」
「いや、そういうわけじゃない。あの子が上京するまで付き添ってるだけだ」
レヴィンが顎をしゃくると、ミラがきょとんとした様子でこちらを見ていた。
「ほう、かわいらしい娘さんだ。確かにその子には一人では旅はさせられんな」
一人で旅をしたらいつ賊に手籠めにされるかわからない、と男は言いたげだった。ミラは賊の襲撃などものともしないだろうが、表向きはレヴィンがミラを守って旅をしているとみせかけなければいけない。
「そういうわけだ。もし傷口が痛むようなら呼んでくれ。力にはなれるはずだ」
そう言ったとことで、階下からベルを鳴らす音が聞こえた。夕食の時間になったのだ。もうだいぶ腹も空いている。
(食事のついでに、扉の入り口に清めの塩を撒いてもらうとするか)
武装書記官を辞めても、やはり聖職者の癖が抜けないレヴィンだった。ミラを連れて階段を降りると、二人で食事をすませ、その日は清潔なベッドで快適な眠りに落ちた。
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