獣の涙

「遅い!」


 無数の針のように襲い来るミラの髪を、司祭は素早く横に飛んでかわした。信じられないほどの反応の速さだ。

 

「何者かは知らないが、教主様の一の翼、ハドリアンに奇襲など通用しませんよ」


 不敵に笑うと、ハドリアンは胸の前で両手を交差させ、拳を握った。

 両手の指の隙間から、六本の細い針が顔をのぞかせている。


「そんなものでふたりも相手にする気なのか」

「黒翼衆の戦い方を知らなければ、なんとでも言えるでしょうね」


 言い終えるやいなや、ハドリアンはミラめがけて駆けてきた。

 ミラが素早く体をかわし、がら空きになった背中に抜剣したレヴィンが斬りかかる。しかしその瞬間、ハドリアンの身体は闇に溶け込み、剣は空を切った。


「確かに貴方がたは並の人間よりはるかに手強いようだ。しかし、目に見えぬ翼を斬ることができますか」


 嘲るような声が闇夜に響く。その声は、四方八方から同時に発せられているように聞こえた。


(気配を散らしているな。果たしてどれが本物か……)


 レヴィンは目を閉じ、できるだけ視覚情報に惑わされずにハドリアンの本体を探り当てようとする。

 しかしハドリアンはさすがに一流の隠密で、どの気配が本当か見当もつかない。


「さて、あまり遊んでいるわけにもいきませんね。このあたりで片を付けるとしましょう」


 なぶるような声が響き、続いて右方向から遅い来る一撃を、レヴィンはかろうじて頭を引いて避けた。熱風が鼻先を通り過ぎたように感じる。しかし次の瞬間、ハドリアンの裏拳がレヴィンの頬をしたたかに打った。

 レヴィンは体勢を崩しかけたが、素早くハドリアンの気配を感じる方向へ斬りかかる。しかし、その一撃もハドリアンの体を捉えることはできなかった。


「悪くない反応ですね。貴方が敵でなければ、我が弟子にしたいくらいです。カシアという娘はあまりできが良くなかったのでね……」

「カシアがお前に入門していたと?」


 レヴィンは虚空に向かって叫んだ。


「ちょっと稽古をつけてあげただけのことですよ。影走りだけはどうにか身につけましたが、犬戎犬戎ではしょせんあれが限界なのでしょうね」

「お前がカシアの力を引き出せなかっただけじゃないのか」

「さあ、どうでしょう」


 くつくつと笑う声が不気味に辺りの空気を揺らす。

 レヴィンは身構えつつ、次の一撃がどこから来るかをはかりかねていた。


「さて、どちらから先に始末しましょうかね」


 冷たい汗がレヴィンの背を流れた。しかしそのとき、ハドリアンが短い悲鳴を上げた。


「ぐっ、お前は……」


 何者かが草むらを揺らす音が聞こえ、次の瞬間、小さな影が跳躍するのがみえた。

 その影が人影ともつれ合い、地に倒れ込んだ。


「レヴィン、今だよ」


 ミラの声に無言でうなづくと、レヴィンは姿を現したハドリアンの背に斬りつけた。ハドリアンは地を転がって避けようとしたが、避けきれず二の腕を少し切り裂かれた。


「さあ、もう逃げられんぞ。観念しろ」


 起き上がろうとするハドリアンの首筋に雪フェネックが噛みついた。その隙に、とレヴィンは渾身の力で胸に剣を突き立てた。しかし、剣は法衣を突き抜けて地中にめり込んだだけで、衣服の中は空になっていた。


「私としたことが、思わぬ伏兵に虚を突かれました。今宵はここまでのようですね」


 頭上からハドリアンの声が降ってきた。驚いてレヴィンが頭を上げると、黒装束を着込んだハドリアンが杉の枝の上に立っていた。


「機会があれば、またお会いしましょう」


 そう言い残すと、ハドリアンは闇の中へと音もなく跳躍し、そのまま姿を消した。


「おい、だから言ったじゃないか、トビー!こんなところに来てもろくなことにならないって」

「そうは言っても、あの赤ん坊を連れ帰ることができれば、もしかしたら故郷に帰れるかもしれないし……」


 何事か言い交わしながら、松明の灯とともに二人の人影が近づいてきた。

 レヴィンが目を凝らすと、片方はよく見知った顔だった。


「なんだ、トビーじゃないか。どうしてこんなところまで来たんだ」

「ええ、実は連れ去られた赤ん坊を探しに来たんです。これでも私はこの町の守衛ですし、今日は非番ですけど赤ん坊を連れ帰れれば手柄になりますし……」

「お前って、勇気があるのかないのかわからんやつだよなあ」


 トビーの脇のはしこそうな男が、トビーを肘で小突いた。男はトビーとともに腰に剣を佩いている。どうやらこの男も守衛らしい。


「ああ、俺はレバスって言います。どうしてもって言われてこいつと一緒に連れ去られた赤ん坊を探しに来たんですが、こっちに光が見えたもんで。貴方がたは?」


 男は闊達な口調で話しかけてきた。レヴィンは呼吸を整え、口を開く。


「旅の者だ。同じく赤ん坊を探しに来た」

「わざわざこんなところまで?で、赤ん坊は見つかったんですか」

「みんなこっちに来て。雪フェネックが出てきたよ」


 ミラにそう言われ、一同が巣穴に目を向けると、雪フェネックが産着ごと赤ん坊をくわえて出てきた。


「無事だったか。良かった」


 レヴィンが赤ん坊のそばに身をかがめると、寄ってきた雪フェネックが赤ん坊の額を舐めはじめた。さっきハドリアンに噛み付いた一匹もそろそろと寄ってきて、悲しげな鳴き声を漏らす。


「しかし、どんな恐ろしい化物かと思ってましたが、意外とかわいらしいですね」


 トビーが二匹の雪フェネックを交互に眺めつつ、小さな目を細めた。


「あの司祭はこの子を雪フェネックがさらったと言ってましたけど、なんだってそんなことをしたんでしょうね。この子をとって食う様子なんてないし、むしろ可愛がってるじゃないですか」


 レバスが不思議そうに言うと、ミラも無言でうなづいた。


「そのことなんだが、俺にはだいたい想像がつく」

「どういうことなんです?」

「俺はあの司祭がその赤ん坊に祝福を与えるところを見ていたんだが、あの司祭は掌から微弱な熱を額に浴びせていた。おそらくは『神火』の出力を最小限に抑えたものだろう」

「ええっ、まさか赤ん坊を傷つけようとしていたんですか」


 トビーが小さな目を限界まで見開いた。


「司祭は、人間に化けた雪フェネックがそばにいるのを知っていたんだ。そして、赤ん坊の危険を察した雪フェネックが、司祭の手から赤ん坊を奪い取った。森の中に逃げ込んだのは、安全なところまで連れ去るためだろう。だからこうして巣穴の中に連れてきた」

「でも、どうしてわざわざそんな真似を?」

「この狐たちを人さらいに仕立て上げるためだ。そうすれば、ペラの住民は雪フェネックを敵視するようになる。その上で、あの白い毛皮を高値で買い取ると持ちかければ、皆張り切ってあいつらを狩るようになるだろう」

「高値で買うって、誰がです?」

「マーセラスの毛皮商人だ。やつらは危険を犯して自分で魔獣のうろつく森に踏み込むより、ペラの住民に狩りをさせる方が安全だと考えたのさ。マーセラスの貴族の間では雪フェネックの毛皮が流行してるから、高値で買っても割に合うはずだ」

「つまり、あの司祭がその商売の片棒をかついでいたと?」


 問いを重ねるトビーに、レヴィンはハドリアンの話したことをすべて語って聞かせた。


「……そんなことがあったんですか。なんの旨味もないのに、この町に司祭が来てくれるわけないですからね。やはりここは神に見捨てられた町ってことでしょうか」


 大きく溜息をつくトビーの肩を、レバスがなだめるように叩いた。


「そうでもないぞ、トビー。そいつを見てみろ」


 レヴィンが指さした雪フェネックにトビーが目を向けると、なんと雪フェネックが涙を流している。そのそばで、赤ん坊は安らかな寝息を立てていた。


「涙……この狐が、人間のために……」

 

 赤ん坊を見守る二匹の雪フェネックは、母親が我が子を見つめるように、慈しむような眼差しを向けている。


「この子達がこういう生き物だと知っていたら、ペラの人たちも狩れなくなっちゃうもんね。だから祝福を与えるふりをして、この子達を悪者にしなくちゃいけなかったんだ」


 ミラは少し悲しげに目を伏せ、誰にともなく言った。


「確かに、この狐たちが慈悲深い生き物だと知れただけでもよかったのかもしれません」

「トビー、俺が言ってるのはそういうことじゃない。地面をよく見るんだ」


 トビーが地面に目を凝らすと、草むらのなかにかすかに輝きを放つものがあった。

 そこに手を伸ばし、光を発する小さな物体を拾い上げると、トビーは目を丸くした。


「これは……月光石?」


 トビーの掌のなかで、小さな石が月明かりを閉じ込めたような青白い光を放っていた。


「おそらく、その雪フェネックの涙が固まったものだろう。こんなふうにしてできるとは知らなかったな」

「これ、もしかしてすごく希少価値のあるものだったりしませんか?」

「そのひとかけらで2000ギルダスはくだらないぞ」

「ひっ」


 トビーは思わず月光石を取り落としそうになり、慌てて手の中に握り込んだ。


「こ、これ、どうしましょうか」

「あんたが持ってればいい。この森で見つけたものはこの町の住人のものだ」

「でも、こんな高いものをどう使えばいいのか……」

「もて余すようなら、まずは町に寄付したらどうだ?そいつを売った金でペラに教会を建てるなり、王都から高名な農学者を呼んだりできるかもしれないぞ」

「いや、でもせっかくこんな高いもんを見つけたのに……」


 表情を曇らせるレバスの前で、トビーがゆっくりと首を振る。


「この町でこんな高いものを持っていると知れたら、誰かに盗まれるかもしれない。それに、持っていたところでこの宝石を換金できるところなんてここら辺にはないじゃないか。この町で兵役に縛られている以上、これを持っていてもなんの意味もないんだ。それならいっそ町に寄付してしまったほうがいい。うまく行けば兵役の期間を短くしてもらえるかもしれないぞ」

「……そうだな。町長も金には困ってるし、恩を売れば俺たちも早くこの景気の悪い町を出られるかもしれないな」


 レバスは表情をゆるめた。貧しいものの多いペラでは、富を持つものはすぐ目をつけられてしまうのだろう。


「それにしても、まさか月光石が雪フェネックの涙だなんて思いませんでしたよ。『雪フェネックに嫁いだ娘』では、娘の涙が月光石になっていたのに」

「トビー、その話を知っているのか?」

「ええ、司祭様が語って聞かせてくれたんです。マーセラスでは有名な話なんだそうですね」

「いや、そうじゃない。俺はあの国から来たんだが、そんな話は聞いたことがない」

「ということは、それもあの司祭様の作り話か……もう、本当に何も信じられないなあ」


 トビーは肩を落とした。レヴィン達が宿で読んだ立派な装丁の本も、あの司祭が置いていったものなのだろう。


「そうだトビー、この子はあんたが連れて帰ったらどうだ?この町の守衛が見つけたことにしたほうが、皆も鼻が高いだろう」

「そんな、先に見つけたのは貴方たちじゃないですか。貴方たちの手柄ですよ」

「俺たちはもうすぐここを発つつもりだ。それに故あってあまり目立ちたくない」

「そうですか……でも嘘をつくのも気が引けますし、皆には名も知らぬ旅人が助けてくれたと言っておきますよ」


 レヴィンは苦笑した。確かに、この男では嘘はつき通せないだろう。


「じゃあ、町までこの子は僕が抱いていくよ」


 ミラは産着ごと赤ん坊を抱き上げた。赤ん坊はまだ静かな寝息をたてている。


「その子は落ち着いているようだな。雪フェネックが世話してくれていたおかげだ。今回はの機会を失ったか」

「そうだね。でも、それはいいことだよ」

「え、それはどういう意味です?」

「いや、こっちの話だ。さあ、行くぞ」


 怪訝な顔をするトビーを一瞥すると、レヴィンはペラへと引き返した。

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