マーセラスの黒き翼

「おびき出すって、一体何をするんだ」


 レヴィンが訊くと、司祭は真顔に戻った。


「雪フェネックには、香木の匂いを好む性質があります。ここで香木を焚けば、あの狐をもう一度こちらに呼び寄せることもできるでしょう」


(はて、あの狐にそんな性質があったかな)


 レヴィンは訝しんだ。光明大典の雪フェネックの項目には、そんな情報は書かれていない。


(まあ、三年の間に情報が更新されたのかもしれんな)


 そう思い直すと、司祭がふたたび口を開いた。


「しかし、おびき出されるのは別の雪フェネックかもしれないだろう」

「いえ、雪フェネックの数は限られています。ここにおびき寄せられてくるのは、同じ個体でしょう」

「そういうものかな。仮に来たとしても、あの赤ん坊も連れて戻るとは限らないと思うが」

「いえ、これでいいのです。きっと赤ん坊をくわえたまま戻ってくるでしょう」


(どうも話にならんな、これは)


 司祭の言い分はどうにもうさん臭いようにレヴィンには思われた。なぜ、そこまで確信に満ちた物言いができるのかがわからない。


「そのやり方でうまくいくとは思えん。俺はこれで失礼する」


 そう言い置くと、レヴィンは踵を返した。



 

 ◇



 

 レヴィンがそのまま宿へと戻り、部屋の扉を開くと、ミラは床に座ったまま、退屈そうに擦りガラスの窓を見つめていた。窓からは西陽が差し込み、床に四角い光を投げかけている。


「ミラ、座るなら椅子に座れ。服が汚れるだろ」

「遅いよ、レヴィン。もう日が暮れちゃう」


 ミラはあくびをすると、ズボンの埃を払って立ち上がった。


「実はちょっとした事件が起こってな」

「なにがあったの?」

「赤ん坊がさらわれた。さらったのはどうやら人間に化けていた雪フェネックらしい」

「そうなんだ。さっきからずっと大きな悲愴の霊光オーラを感じていたんだけど、あれはその子の母親のものだったんだね」


 ミラは床に視線を落とすと、少し声の調子を落とした。


「そういうことだ。司祭が子供に祝福を与えている間の出来事だったんだが、どうも妙なんだ」

「妙って?」

「急に子供をさらわれたにしては、司祭がやけに落ち着き払ってる。それにあいつは、さらった男を追いかけようとする俺を止めようとした」

「赤ん坊がさらわれたのに、放っておくの?」

「あいつが言うには、魔獣の多い森に入っても危険だからこっちから雪フェネックをおびき出したほうがいいんだそうだ。だが、それが仮に上手くいったとしても、赤ん坊まで連れてきてくれるとは限らない」

「そうだね……こんなことしてる間にも、その子がもう食べられちゃってるかもしれないし」


 ミラは一度レヴィンと目を合わせると、悲しげに目を伏せた。


「冷静に考えれば、俺が一人で奴の後を追っても追いつけたとは思えない。だが、このままここで手をこまねいていていいものか……」

「ねえ、もし本当にその雪フェネックを追う気なら、僕も協力するよ」

「協力って、お前に何ができる?」

「もしその子がまだ生きているなら、雪フェネックが逃げ込んだ森のなかで悲愴の霊光オーラを探せば見つけられると思うよ。その子、お母さんと離れて心細いだろうし」


 そう言うと、ミラは頭頂の髪をぴんと逆立ててみせた。


「そうか、そいつで悲しみのありかを探し当てることができるんだったな」

「うん、この髪は1500メルタくらいまでの霊光オーラなら感じ取れるから、今から探せばなんとかなるんじゃないかと思う」

「もう日が暮れそうだが……まあ、導きの光を使えばいいか」


 一人うなづくと、レヴィンは強く拳を握った。


「よし、そうと決まれば早く出立しよう。夜までに戻れなければ宿代が無駄になるが、まあ仕方がない。今夜は徹夜になるかもしれんが、覚悟してくれ」

「うん、わかったよ」

「これからお前の力を借りる。頼むぞ」

 

 レヴィンがミラの肩に手を置くと、ミラの琥珀色の瞳が輝きを増した。

 どうやら頼られて嬉しいらしい。


(上手くいくといいんだが)


 司祭がいっていた通り、森のなかには魔獣が多い。それでも、神兵隊ですら手こずったミラなら自分の身くらいは守れる、という確信がレヴィンにはあった。




 ◇




「神の灯火よ、我が行く手を照らし出せ」


 レヴィンが聖句を唱えると、掌のうえにまばゆい光球が現れ、辺りを照らし出した。ミラの橙色の髪が闇の中に照り映え、普段より一層神秘的にみえる。


「あっち側に強い悲愴の霊光オーラを感じるよ」


 ミラの頭頂の髪が右斜め上を指した。その方向に向けて、二人は足を踏み出す。

 針葉樹の多い森の中を、柔らかい下土を踏みながら歩いていくと、方方から梟の鳴き声が森閑とした森に響いた。


「まだ、危険な生き物はいないみたいだね。シマリスや牙カモシカの気配なら感じるけど……」


 そいつもけっこう危険な生き物なんだがな、という言葉をレヴィンは飲み込んだ。

 人間ではないミラの感覚は、自分とは異なっているかもしれない、と考えたのだ。


「待って、なにか来る」


 ミラが声をひそめると同時に、レヴィンの肌も粟立った。

 闇夜の中に、なにか獰猛な生き物が潜んでいる気配を感じる。


「──ブチオオカミだよ、レヴィン」


 レヴィンが腰の剣を抜こうとすると、ミラはその手をそっと押さえた。


「なぜそうする?あいつらは危険だ。やらなきゃこっちがやられる」

「だいじょうぶ、僕にまかせて」


 白い体毛に黒の斑点が全身に散る狼たちに、ミラはそろそろと近寄る。

 何かあったらすぐ飛び出せるよう、その背後からレヴィンも続いた。


「そんなにこわがらないで。僕たちは訳あって君たちの世界にお邪魔しているだけで、決してこの森を荒らしたりはしないから」


 ブチオオカミのなかの一匹が低い唸り声をあげていたが、ミラがかがみ込んでオオカミと目線を合わせると、驚いたことにブチオオカミがミラの頬を舐めはじめた。残りの二匹も体をこすり付けてきたので、ミラはくすぐったそうに身をよじる。


「ふふ、ありがと。君たちのなわばり、ちょっと通らせてもらうね」


 そう言うと、狼たちはまるでミラの言葉を理解したかのように身体を離し、森の奥へと姿を消した。


「ミラ、お前は一体……」


 何者なんだ、と言いかけ、慌ててレヴィンは黙り込んだ。

 ミラ自身が一番知りたいことをミラに問いかけても仕方がない。


(まさか、ブチオオカミがあいつになつくとはな)


 光明大典に記されている魔獣の中でも、ブチオオカミは特に危険な部類だとされている。その獰猛な獣を、ミラはまるで犬のように扱ってみせた。


「レヴィン、どうしたの?僕、なにか変なことした?」

「いや、そうじゃないんだが、まさかブチオオカミがお前になつくとはな」

「あの子達がとても怖がっていたから、安心させてあげただけだよ。こっちが警戒するとその気分が向こうにも伝わるから、まずはこっちが心を開かないとね」

「そういうものか。おかげで助かった。戦わずにすむならそれに越したことはない」


 釈然としないものの、ミラに助けられたことは事実なので内心、レヴィンは安堵していた。ここで狼たちを血祭りにあげれば、血の匂いを嗅いだ雪フェネックが遠くへ逃げてしまうかもしれなかったのだ。


「ミラ、まだ悲愴の霊光オーラは感じ取れるか?」

「うん、北西の方にあと300メルタくらいかな」

「よし、じゃあ行くとしよう。案内を頼む」


 ミラの先導に従いしばらく歩くと、やがて辺りに何者かの気配を感じた。

 目の前の地面には土が小高く盛り上がっていて、横合いに小さな空洞が顔を出している。


「たぶん、ここが雪フェネックの巣穴だね。きっとこの中に、さらわれた赤ちゃんがいるはずだよ」


 レヴィンは唾を飲んだ。赤子が生きているのは一安心だが、どうやってこの小さな巣穴から赤子を取り出せばいいのか。


「しかし、こいつはちょっと難儀だな。雪フェネックがこの巣穴から赤ん坊をくわえて出てきてくれりゃいいが、そういうわけにもいかんだろう。この穴の小ささではお前でも入れないだろうしな」

「僕が中まで髪を伸ばしてみるよ。フェネックがおとなしく子供を渡してくれるといいんだけど」

「ああ、頼む」


 ミラはそろそろと、橙色の髪を巣穴の中に伸ばしはじめた。

 導きの光に照らし出された半透明の髪は、闇夜の中では一層鮮やかに照り映える。


「あ、ごめんね、驚かせちゃって」


 雪フェネックの気持ちがわかるのか、ミラはつとめて穏やかな口調で話しかけた。

 雪フェネックはどうやら襲ってくる様子はない。


「レヴィン、やっぱりここだった。赤ちゃんは無事だよ。もう少しでこっちに……」

「ほう、ずいぶんと興味深いことをしていらっしゃいますね」


 突然背中から降って湧いた声に、レヴィンは驚いて振り向いた。

 そこには、「導きの光」を頭上に連れた、痩身の司祭の姿がある。


「なぜ、貴方がここにいる?」

「失礼ながら、貴方がたの後をつけさせてもらいました。私よりも、貴方がたの方がその赤子を探す能力に長けているようでしたので」


 司祭は穏やかな微笑を浮かべたまま言う。

 闇夜の中にあっては、その笑みの下には鋭利な刃が隠れているようにレヴィンには思えた。


「ただの司祭が、俺に気配を感じさせずに後をつけてこれるとは思えないが」

「そういう貴方こそ、法術の心得があるあたり、ただの旅のお方とも思えませんが」

「まず、貴方が何者なのかをうかがいたい」

「マーセラスの教主様は決してその手を血で汚すことは許されない。代わって、私のような者が神に仇なす者を始末しなければならないのです。教主様の歩む道を掃き清めるためにね」

「なるほど、黒翼衆か」


 「教主の黒い翼」と呼ばれる特殊部隊がマーセラスに存在しているということは、レヴィンも噂では知っている。だが、その実態が外に漏れることは決してない。黒翼衆がその名を名乗るのは、相手を死に至らしめる時だけだからだ。


「俺たちが、なにか神の怒りに触れるようなことをしたのかな」

「貴方がたには、ここで果ててもらわないと困るのですよ。雪フェネックの毛皮は、我がマーセラスに大いなる富をもたらしてくれるのでね」

「なぜ俺たちが死ななきゃいけない?」

「雪フェネックの真の姿を知られては困るのです。あの狐たちにはあくまで子供をさらう、危険な存在でいてもらわなくてはいけない」


 レヴィンの背筋を冷たい汗が流れた。


「……お前、あの赤ん坊を殺すつもりだな。そして、その罪を雪フェネックになすりつける気なんだろう」

「その通り。怒り狂ったペラの住民が雪フェネックを狩るようになったら、我がマーセラスは毛皮を高価で買い取る。そうすればこの神に見捨てられた街も富むことになるのですよ。互いに手を携えともに歩む、これこそ神の道というものではありませんか」


 司祭は微笑を顔に貼り付けたまま、そう言ってのけた。


「だが、その計画には穴がある。お前は人相手にひけは取らないだろうが、人ならざるものを相手にできるかな」


 レヴィンが目配せすると、ミラの橙色の髪が輝きを増し、恐るべき速さで司祭に襲いかかった。

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