差し伸べられた手

「……なるほど、こうして娘と雪フェネックは最後まで添いとげた、というわけか」


 気がつくと、レヴィンはその物語を最後までミラに語って聞かせていた。

 一匹の雪フェネックが人間の男に化けて若い村娘をたぶらかし、森の奥に引き込んで殺そうとしていたが、かいがいしく尽くす娘の情にほだされ、やがて人里離れた森のなかの狩人の小屋で娘と二人で暮らしはじめた。

 しかし、それを裏切りと感じた雪フェネックの長は手下を遣わし、二人を始末することにした。その時娘は襲撃者の前に身を投げ出し、夫をかばう。夫は傷を負った娘に駆け寄り、なぜこんな真似をしたと問いただす。娘は本当はすべてわかっていた、でも最後まで人間の姿の貴方を見ていたかったから、と言い残して事切れる。

 全身を噛み裂かれた夫の雪フェネックは人の姿を維持できず、狐の姿に戻り、娘の身体に折り重なって逝った──という話だった。娘が死に際に流した涙は月明かりを集め、固まって宝石となった、という後日談までついている。


「なんだか悲しいお話だね。これを読んだら、ますますこの町には悲しそうな人が増えそう」

「そうだな。それにしても、こんな立派な装丁の本がどうしてここに置かれているのか……」


 立派な革の装丁の本は、この片田舎にふさわしいとは言えない。

 この宿がこういうものを買えるほどに儲かっているとも思えないのだ。


「ねえ、雪フェネックってこんなに悪い生き物なの?」

「そうだな、俺の光明大典ではこうなっている」


 レヴィンは心のなかで雪フェネックという言葉を思い浮かべると、意識の中に埋め込まれた光明大典がすぐにその希少な生物の情報を探し出してきた。


「雪フェネック……マーセラス東北部からノストマルク西部、ノルト大森林にかけて生息する魔獣。人間に化ける能力を有し、しばしば人間を誘惑して連れ去った上持ち物を奪ったり、時に捕食することもある。その毛皮には希少価値があり、高値で取引される」


 目の前に浮かんできた文字列を、レヴィンはそのまま読みあげた。


「俺の辞書ではこうなっているが、これは三年前の情報だ。光明大典は一年ごとに更新されるから、今は新たな情報がつけ加えられているかもしれん」

「人間に化ける狐なんて本当にいるんだ」

「ああ、そういうことになってる。だが、俺は化けるところを見たことは一度もない」

「見たことがある人っているの?」

「過去の武装書記官なら見たことのあるやつがいるかもしれないが、何しろこの辞書は常に本当のことを書いているとは限らんからな」

「でも、さっきみたいな物語が書かれるってことは、多くの人が雪フェネックは人に化けるって信じてるってことだよね」

「そう、そこなんだがな、ミラ」


 レヴィン椅子に腰を下ろすと、一度言葉を区切った。


「実は、話は逆であるという可能性もある。つまり、こういう物語が書かれているからこそ、多くの人が雪フェネックが人に化けると信じ込むということだ」

「ということは、本当は雪フェネックは化けたりしないってこと?」

「あくまで可能性の話さ。ただ、どうもこの話には臭うところがある」

「そう言えばこの本、いいにおいがするよね」


 ミラは本の革の表紙に顔を近づけ、匂いを嗅いだ。レヴィンは苦笑しつつ答える。


「いや、そういう意味じゃない。この話はある意図を持って書かれてるんじゃないか、ってことさ」

「どういうこと?」

「この話を読むと、雪フェネックは人を騙そうとする悪い生き物だと読んだ人は思うだろう。娘と結婚したフェネックは情にほだされただけで、もともとは殺すつもりだった」

「それに比べて、娘さんのほうがやたら健気に書かれてるよね」

「いいところに気づいたな。そう、この娘の健気さがあって初めて異類婚姻譚が成り立つということであって、これを読めば雪フェネックが本来ずる賢い生き物だという印象がすり込まれるようになってる。それこそが著者の狙いかもしれない」

「へえ……そう思うと、なんだか感動も醒めちゃうね」


 少しがっかりした様子でミラは言った。


「とまあ、こういう性格だから俺には武装書記官が務まらないわけさ。マーセラスの聖職者なら光明大典の内容は一切疑わず、魔獣とされた生き物は素直に狩るべきなんだよ」

「魔獣が悪い生き物、ということ?」

「光明大典では魔獣が人に害をなす生き物、霊獣が利益をもたらす生き物と区別されている。雪フェネックは魔獣に分類されてるが、信じていいかは考えものだな」

「じゃあ、雪フェネックは本当はいい生き物かもしれないんだ」

「そうとも言えないな。そいつの存在がいいか悪いかなんて、簡単に割り切れるようなものじゃない。どんな生き物も、ただそいつの都合で生きたいように生きてるだけだ。それをマーセラス側の事情で魔獣か霊獣かに分類しているにすぎないんだ」

「ふうん、そうなのか」


 ミラは少しうつむいて小首をかしげ、考え込む素振りをみせた。

 

「にしても、その司祭さんのことはちょっと気になるね。もしかして、僕たちを追いかけてきたのかな」

「その可能性もなくはないが、お前を捕まえるつもりなら司祭一人では来ないだろう。武装書記官ですらお前には太刀打ちできなかったからな」


 レヴィンはミラが頭髪でカシアの打ち込みを止めたことを思い出していた。

 鍛え抜かれた武装書記官の剣撃すら通じない相手を、司祭一人でどうにかできるとは思えない。


「とにかく、今日はなるべくこの部屋から出ないようにしてくれ。俺はその司祭とやらの様子を見に行ってみることにする」


 どうもきな臭いものを感じたため、レヴィンはミラを残して部屋を出ることにした。




 ◇




 ペラの町人に司祭の話を訊くと、町外れの空き地で子供に祝福を与えているというので、レヴィンはそこまで足を運んだ。

 楡の木が背後に迫り、トビがのどかな鳴き声を響かせる広場に朗々とした声が響いていた。物珍しさも手伝ってか、司祭の周りを遠巻きに人々が取り囲んでいる。


「汝の行く末を、とこしえに慈愛の光が照らし出しますように」


 司祭は丸眼鏡の奥の目を細めつつ、母が胸に抱く幼子の額に手を伸ばす。

 掌からまばゆい光が発せられると、火がついたように泣いていた赤子は不思議と泣きやんだ。


「司祭様、本当にありがとうございます。この神に見捨てられた町に、貴方のような方が来てくださるとは」


 母親が深々と頭を下げると、司祭は面長な顔に笑みを浮かべた。

 すらりと高い背と丁寧になでつけられた灰色の髪は、見るものに気品と気高さを感じさせる。法衣に包まれた身体は、細身ながら引き締まっている。


「このような所だからこそ、私が赴く意義もあるというものです。神の光はあまねく、私達の住むところを照らし出さなくてはなりません。人の子が祝福から漏れるなど、あってはならないこと」


 ノストマルク王国領内ではあっても、僻遠の地にあり聖職者すら寄り付かないこの町に司祭が訪れるのは、まさに旱天に慈雨が降りそそぐようなものだ。しかし、マーセラスの司祭がわざわざここを訪れる動機があるとは、レヴィンには思えなかった。


「さあ、それでは次のお方、こちらへ」


 司祭が手招きすると、赤子を抱いた若い母親がおずおずと前に進み出た。聖職者というものをまだ見たことがないらしい。


「おや、この子は目に強い光を宿していますね。将来、この地に希望をもたらしてくれる存在になるかもしれません」

「本当ですか」


 母親の顔がぱっと輝いた。まるで神の託宣でも聞いたかのようだ。


「それでは、この子にも祝福を与えましょう。──汝の行く末を、とこしえに慈愛の光が……」


 そのとき、レヴィンの首筋をぞわりとした感覚が駆けめぐった。

 司祭の掌から発せられる光が、さっきよりも微妙に昏く感じられる。


「ちょっと待った、その光はもしかして……」


 そう言いかけたとき、聴衆の間から色白の若い男が飛び出し、司祭の手から素早く赤子を奪い取った。男は司祭を一瞥すると、脱兎のごとく駆け、広場の隅の森の中へ姿を消した。


(なんなんだ、あいつは)


 男は異常なほどの俊足だった。レヴィンは自分の足で追いつける自信はなかったが、それでも急いで男の後を追おうとした。しかしそのとき、後ろから手首をつかまれた。振り向くと、さっきの司祭が真剣な眼差しをレヴィンに注いでいた。


「お待ちなさい。あの足の速さからして、あれは人間に化けた雪フェネックかもしれません。貴方一人で追っては危険です」

「そうはいっても、誰かが追いかけなければあの子に危険が及ぶかもしれない。やつが遠くまで行ってしまってからでは遅いぞ」

「しかし、貴方の足ではとても彼には追いつけないでしょう。このあたりの森には魔獣も多く生息しています。自らを危険にさらすのはおやめなさい」

「そう言うが、貴方にはなにかいい策があるっていうのか?」


 レヴィンは焦りを含んだ声で言った。今こうしている間にも、雪フェネックは遠くへ逃れてしまうのだ。


「お願いです司祭様、どうかあの子をお助けください。せっかく祝福を授けていただいたのに、このままでは……」


 母親が必死で司祭の袖に取りすがる。彼女の訴えは途中から嗚咽に変わり、言葉にならなかった。


「俺には多少、戦いの心得もある。あの子を取り戻したければ、協力してもいい」


 レヴィンが母親に声をかけると、司祭が割って入った。


「それは危険だと申し上げているでしょう。たしかに貴方は腕に覚えがありそうですが、森のなかの魔獣は人間の匂いにはことさら敏感です。数を頼みにした戦いなら、獣のほうが上ですよ」

「では、あの子を見殺しにしろというのか」

「そうは言っておりません。何もわざわざ罠の中に自分から飛び込むことはない、と言っているのです」


 司祭はやけに落ち着き払った口調で答えた。この事態にいささかの動揺もみせないあたり、線が細そうに見えて意外と肝が座っているのだろうか。


「私にひとつ考えがあります。あの狐めを、こちらにおびき出しましょう」


 司祭は不安におびえる一同を見渡すと、口元に微笑を浮かべた。

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