まだ見ぬ闇の向こうへ
「どうした、できないのか、カシア?まさか今さら罪もない者を斬るのが怖くなったんじゃないだろうな」
追い打ちをかけるように、レヴィンは言った。
「何を言っているんです、先輩?私がそんなに甘い人間だとでも思っているんですか」
「人間、か。お前は
「決してそんなことはありません!私はそんな臆病者では……」
「なら、早くその犬戎を斬ってみせろ。お前の信条は行動で示せ」
カシアがゆっくりと剣を振り上げると、犬戎は固く目を閉じた。
カシアは剣を構えた姿勢のまま固まり、どうしても振り下ろすことができない。
「どうした。神の救済から漏れた種族に冤罪を着せたところで罪には問われんぞ?」
「わ、私は……」
声を震わせると、カシアはそれ以上言葉が継げなくなっていた。
「光の鞭よ、神の愛もてかの罪人を打て」
レヴィンが素早く聖句を唱えると、掌から伸びた光り輝く鞭がカシアの手首をしたたかに打った。カシアが苦痛の呻き声をあげると、剣が石畳の道の上に転がる。
「下手な芝居はよせ。お前に罪もない者を斬れるわけがない」
呆然と立ち尽くしているカシアの腰に、光の鞭が伸びた。
鞭が腰から下げられている麻の袋に巻き付き、革紐を引きちぎると、レヴィンの手元へと引き寄せられる。
「さっきからこの匂いが気になっていた。ちょっと中身を改めさせてもらう」
麻の袋を開けると、中からは鼻を刺す異臭が漂ってきた。
中身を取り出してみると、入っていたのは奇妙に曲がりくねった黄土色の根だった。
「氷雪ウコギの根だな、これは。滋養強壮効果に優れ、万病に効く。特に
カシアはうなだれたまま、答えは返さない。
「こいつはノルガルドの冬虫夏草と並ぶ貴重品だ。武装書記官の給料じゃ、切り詰めても五年は貯金しないと買えやしない。でもこの量では、まだ労咳を完治させるには至らないだろう。お前は弟の病気を治すための薬代が欲しくて、ミラを捕らえようとした。そうだな?」
「だとしたら、何だって言うんですか」
「困っているのなら、最初からそう言えばいい。今の俺はただの逃がし屋の傭兵だが、金のことなら多少は力になれるかもしれない」
「力になる、ですって?」
カシアは軽く鼻を鳴らすと、片頬を歪めて笑った。
「どうして先輩はいつもそうなんですか?そうやって上から
「そんなつもりはないんだがな」
「自覚がないだけです。貴方は私に恩を着せて、いい人ぶりたいだけでしょう」
「そうだとしても、病気が治るならそれに越したことはないだろ?薬代が欲しくないのか」
「確かに、お金なら必要です。でも、先輩からもらったのでは意味がありません」
「いい加減に人の助けを借りることも覚えろ、カシア。そんなに一人で突っ張ってどうするつもりだ」
「貴方は何もわかっていない!」
カシアは突然声を荒げた。ミラが怯えたように、レヴィンの背中に隠れる。
「私が犬戎の血を引いていることで、どれだけ蔑みの目を向けられてきたと思ってるんですか?同僚からは獣臭いと顔を背けられ、訓練のときも教官にはまともに稽古をつけてもらえない。今だって私と巡回に出るのを避ける者すらいるんです」
「そのことと、俺の助けを拒むことにどう関係がある」
「私を見下してきた人間の力など借りるわけにはいきません。私は、私自身の力で自分の優秀さを証明しなければいけないんです。犬戎の血を引く者でも、純粋な人間以上に活躍できると」
「でも、今ミラを捕らえなくても、まだ活躍の機会はいくらでもあるだろ?」
「教主様は、ミラを捕らえることができれば、犬戎に市民権を与えることを検討するとおっしゃいました」
カシアはまっすぐにレヴィンを見つめている。その瞳には一切の揺らぎがない。教主を心から信じ込んでいる様子だ。
「……なるほど、そういうことか」
レヴィンが軽く息を吐くと、再びカシアが口を開いた。
「私は、この国をもう犬戎が虐げられなくてもすむ国にしたいんです」
「お前はさっきそこの犬戎を
レヴィンが顎をしゃくると、犬戎は断頭台の脇で膝をつき、怯えきった様子でこちらを見つめている。
「それは方便というものです。これで同胞の未来が開けるなら、彼にとっても本望でしょう」
「本当にそうかな。教主の言っていることなんてただの口約束じゃないのか」
「私は、この可能性に賭けるしかないんです」
「そうだとしても、お前にミラは渡せない」
「なら、渡してもらわなくてもいいですよ。力ずくで奪い取ります」
カシアは薄く笑うと急に身をかがめ、剣を拾い上げるとその場で姿を消した。
青白い閃光がレヴィンに向かってほとばしり、次の瞬間、カシアはレヴィンの目の前に姿を表した。
(影走りだと?黒翼衆の技か)
カシアは、レヴィンの影の先端まで一気に移動していた。それは教皇庁の特殊部隊にしか伝えられていない技だった。いったいいつの間に、こんな秘技まで身に着けたというのか。
「死ね、人間!」
カシアは剣を振りかぶり、そのままレヴィンの頭上に振り下ろそうとしたが、ミラの髪がまるで命を持っているかのように伸びていき、カシアの手首に絡みついた。
「ぐっ……何て力なの?やはりお前は魔女なのね」
ミラの橙色の髪が光を放つと、カシアは剣を取り落とした。
「ねえ、どうしてそんな目で僕を見るの?なんだかとても辛そうだよ」
「私は、子供に憐れまれるほど落ちぶれてはいない」
「もういい加減、自分に嘘をつくのはよせ。本当はお前だって、年端もいかん子供を捕まえたくなんてないんだろう?」
「そんなことはありません。私はその魔女を捕らえて、第一審級に……」
カシアはミラの髪を振りほどこうとしながら、怒りの籠もった目をレヴィンに向けた。
(あと一息だな。もうひと押しでカシアの怒りを解放できる)
「なあカシア、なんなら武装書記官なんて辞めてしまってもいいんじゃないか。なにも犬戎の将来をお前一人が背負うことはないだろう」
「貴方は自分が人間だからそんなことが言えるんだ!だからせっかく第一審級まで昇格しても、簡単にその地位を投げ捨ててしまえる。私が喉から手が出るほど欲しかったその地位を、まるで着古した法衣を脱ぎ捨てるかのように、貴方は捨てた!」
「人の上に立つなんて面倒が多すぎるのさ。今のほうがずっと気楽でいい。いっそお前も一緒に来ないか?陰気な司教どもに顎で使われるより、旅暮らしのほうが気が晴れるぞ」
「お前ごときに何がわかる。犬戎を見れば、私の視界には『神の救済から漏れた六種族のひとつ』という文字列が浮かんでくる。神が同胞を見捨るなら、この私が救わなければいけないんだ。さあ、さっさとその小娘をこちらに引き渡せ」
「嫌だと言ったら?」
「私の前に立ちはだかるものには死んでもらう。さあ、どこを斬って欲しい?それくらいは選ばせてやる。手か、足か、それとも耳か。斬り落とした首を蹴転がしてやるのもいい気分だろうな。人間が犬戎を私刑にかける時のように、私もお前を切り刻んでやる!」
カシアは目を剥いて叫んだ。血走った目は狂気に彩られている。レヴィンがミラの脇に身体を寄せると、ミラがそっとレヴィンの手を握ってきた。
ミラと共有した「目」には、カシアの身体のうえに無数の碧色の光点が明滅するのがみえる。悲愴の
「あれは
レヴィンが黙ってうなづくと、ミラは半ば透けて見える橙色の髪をカシアの全身に巻き付けた。ミラの髪が太い血管のように脈打ち、カシアの背に取り憑いた哭鬼が苦しげにのたうつ。哭鬼は苦しみから逃れようと、鉤爪をミラに向かって伸ばしてきた。
「浄化の力が、足りない……?」
ミラの髪が鉤爪に絡みつき、その刺突を止めたが、ミラはじりじりと哭鬼の鉤爪に押され気味になっていた。哭鬼の髪が逆立ち、地獄の門が開いたかのように口が耳まで裂ける。
「いい加減に目を覚ませ、カシア!お前は人間を超えたいんだろ。犬戎の力を証明したいんだろ。なら邪霊ごとき付け入る隙を与えるな。お前の魂の手綱はお前自身が握れ。お前にならできるはずだ」
邪霊はびくりと身を震わせると、鉤爪を引っ込めた。明らかにひるんでいる。ミラの髪がより一層輝きを増すと、カシアのこわばった表情が少しづつ和らぎ、哭鬼は魂を押しつぶすようなおぞましい悲鳴を上げ、散り散りになって消えた。ミラが巻き付けた髪を解くと、カシアはその場にくずおれた。
「カシア!」
レヴィンが急いで駆け寄ると、ゆっくりと波が引くようにミラの髪がカシアの身体を離れた。
「……私、一体今まで何を……」
カシアは両の掌で自分の頬を叩いた。さっきまでの刺すような眼光が影をひそめ、瞳が明るい精気に満ちている。
「お前は悪い夢を見ていたんだ、カシア」
カシアのそばに腰をかがめると、レヴィンはゆっくりと言った。
「私は先輩を殺そうとしたんですね。己の功名心のために……」
「邪霊がお前に取り憑いていた。そいつに操られていただけだ」
「でも、邪霊を招き入れたのは私の心の弱さです。武装書記官にあるまじき失態」
カシアは法衣の埃を払うと、ゆらりと立ち上がった。
「見苦しいところをお見せして申し訳ありません。先輩を手にかけようとしたことは謝罪します。ですが、ミラを逃がすことはできません」
「そこはお前自身の意志か」
レヴィンは軽く溜息をついた。哭鬼を浄化しても、カシアの決意は変わらないらしい。
「ねえ、キミ、お金が欲しいんでしょ?イワウコギの根を買うための」
ミラが進み出ると、無垢な瞳でカシアを真っすぐに見据えた。
「そうだ。それがどうかしたのか」
「残念だけど、僕はキミに捕まってあげることはできない。僕は自分が何者なのかを確かめなくちゃいけないからね。でも、キミの力になることはできるよ」
ミラが橙色の髪を伸ばし、カシアの足元の剣を拾った。
「これを持っていって」
ミラの髪が逆立ち、天に向かって長く伸びた。
一房の髪に握られた剣が翻り、伸ばした髪を半ばから断ち切る。
はらはらと舞い散る髪を呆然とカシアは見つめていた。ミラは地面に散らばった髪を拾い集め、カシアに差し出した。
「この国では半透明の髪は珍しいんだって。妖精の体毛だって言えば高く買ってくれる貴族や錬金術師もいるって聞いてる」
ミラが口角を上げると、本当に妖精めいた笑顔になった。
戸惑いの表情をみせるカシアに、レヴィンは語りかける。
「なあ、これでもお前はこいつが魔女だと思うか、カシア?」
「それは……その」
「ミラはさっきまで自分を捕らえようとしていたお前にすら情けをかける奴なんだ。これこそ汝の敵を愛す、ってことじゃないのか」
「ですが、魔女は人を欺くすべに長けているとも聞きます」
「そんなことができるなら、ミラはとっくに燕にでも化けて逃げてると思わないか?」
カシアはぐっと詰まった。しばらくうつむいて考え込んでいたが、何か思いついたように顔を上げた。
「──ミラは
そう言うと、カシアはそのまま踵を返した。ミラはきょとんとした表情で、小さくなっていく背中を見つめている。
「さあ、そろそろ出発しようか、ミラ」
「え、ここで待ってなくていいの?」
「カシアにも立場ってものがある。面と向かって行けとは言えないのさ」
ミラは不思議そうに首を傾げつつも、すぐにレヴィンの後に従った。
市壁の入り口に立つ衛兵に通行証を見せ、何事もなくムロタの町を出ると、土埃にまみれた道がうねりながら小高い丘陵を這いのぼっている。道端に咲くギンバイカの黄色い花弁が、初夏の風に吹かれてかすかに揺れていた。
(この花で冠をつくってかぶせてやったら、さぞ似合うだろう)
生まれ故郷の村で、村祭の日に娘たちが花冠をかぶり、意中の若者と連れだって踊っていたときのことをレヴィンは思い出していた。
(あんな人並みの幸せを、俺はミラに与えてやることができるのか)
表情を曇らせるレヴィンの顔を、ミラは心配そうにのぞき込んだ。
「ねえレヴィン、どうかしたの?」
「いや、なんでもない。先を急ごう」
無理やり笑顔を作ると、ミラもつられて微笑んだ。もう、カシアが追ってくる気配もない。ここから先は、神の加護の及ばない闇の領域、とされている。だが、目の前に広がる光景は色鮮やかで、やわらかな光に包まれているように感じる。
「……あのね、レヴィン」
レヴィンに少し遅れてついてくるミラが、背中から声をかける。
「犬戎さんみたいに、僕も神様の救う対象に入ってなかったりするのかな」
「さあな、俺は神じゃないからわかりようがない。だがな、ミラ」
レヴィンは足を止めると、ミラに向き合った。
「お前の価値は、神の救うリストに入ってるかどうかでは決まらない。神がこっちを救ってくれないなら、こっちから見限ってやればいいだけの話だ」
「やっぱり、レヴィンってマティアスお爺ちゃんの言ってたとおりの人だ」
「なんて言ってたんだ?」
「あれほど罰当たりな奴はいない、って」
ミラが微笑むと、レヴィンは声を上げて笑った。久しぶりに、心の底から笑えたような気がした。
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