犬戎の怨念

 役人の声を聞き、市場に集う人々の多くが処刑場へと歩き始めた。

 辺境の街ムロタは愉しみに乏しい。罪人が処刑される姿すらも、この地の民の心を浮き立たせる数少ない娯楽になる。レヴィンの足元を牙の生えた獰猛そうな豚がうろついていたが、人並みに押されて荒い鼻息をたてた。

 

(これは、一体どういうことだ?)


 レヴィンが脇に目をやると、ミラが心配そうにこちらを見上げていた。


「ねえレヴィン、あの宿で女の子を食べようとしていた犬戎けんじゅうさんなんていなかったよね?」

「ああ、そんな奴がいるわけがない。犬戎はただお前の様子を見てただけだ」

「じゃあ、捕まった犬戎さんは僕の代わりに処刑されちゃうの?」

「うむ……」


 レヴィンは首をひねった。何かがおかしい。昨日、酒場にいた誰かがミラのことを役人に告げたのだろうが、それでどうして犬戎が処刑されるのか。

 確かに犬戎は「神の救いから漏れた種族」としてこの国では忌まれる存在ではあるが、それにしても犯してもいない罪で処刑されるなど度が過ぎている。


「……やっぱり、これって僕のせいなのかな」

「馬鹿を言うな。お前は何も悪くないだろ」

「でも、僕が昨日女の子に手を出さなければ、こんなことには……」


 憂いを含んだ琥珀色の瞳が伏せられる。

 妖精めいたミラの顔は、翳っていても人形のように美しい。


「ミラ、自分を責めたらだめだ。あれはお前が生き延びるために、仕方なくやったことだ」

「でも、このままじゃ犬戎さんが殺されちゃうよ。ほっといていいの?」


 ミラに投げかけられた刺すような視線から、レヴィンは思わず目をそらす。


「俺がマティアス様に頼まれたのは、お前を無事この国から逃がすことだ。この国の不正を正すことまでは任務のうちには入ってない」

「僕は、無実の人を見殺しにしてまで生き延びたくなんかないよ」

「それでも、お前は生きなきゃいけないんだ。お前に生きていて欲しいという人がいる限りはな」

「見損なったよ、レヴィン。僕はそんなことを言う人に、僕を守って欲しくなんかない」


 そう言い放つと、ミラは急いで処刑場へと駆け出した。意外なほどの俊足だ。


「あ、おい、待てって」


 レヴィンは遠ざかっていく華奢な背中を急いで追った。

 人垣の中を縫うように走るミラは不思議と誰ともぶつかることもなく、レヴィンは追いつくだけで精いっぱいだった。


「さあ皆のもの、とくと御覧じろ。神の秩序を乱す者は、命をもって罪を償わなくてはならないのだ」


 役人が一段高い処刑台に立ち、甲高い声で集まった市民に告げる。その口調はどこか愉しげだ。

 断頭台の上には犬戎が両手を後ろ手に縛られたまま首を横たえ、その脇では物騒な仮面をかぶった死刑執行人が大斧を構えて立っている。


「やれ!犬畜生はさっさと殺しちまえ!」

「そいつの首は豚の餌にしろ!」


 群衆の間から情け容赦のない声が飛び、小石や腐った卵が犬戎に投げつけられた。

 その声に応えるかのように、死刑執行人が丸太のような両腕を振りかぶり、今にも大斧を犬戎の頭上に振り下ろそうとしたその時、処刑場に小さな影が躍り込んだ。


「待って!ムロタの宿で女の子を食べようとしたのは、その人じゃないよ」

「なんだ、このガキは?では誰がそんな真似をしたというのだ」

「この僕です」


 民衆の目がいっせいにミラに注がれた。役人は訝しげにミラを見つめる。

 レヴィンは必死で群衆をかき分け、断頭台のそばに寄る。


「ほう、けなげにもこの犬戎けんじゅうを助けようというのか?だがお前がそれをしたという証拠はどこにある」

「証人ならいます。あの人が見てました」


 ミラはかたずを飲んで見守っていたレヴィンを指さした。


「そこの者、本当にこの娘が子供を喰らおうとするところを見たのか?」

「いえ、そんなところは見ておりません。その者は犬戎に同情し、助けようとして嘘をついているのです」


 慌てて割り込むレヴィンを一瞥したのち、役人は問う。


「そうなのか、娘?」

「違います!本当に僕がやったんです」

「俺はそんなところは見ていません。どうかこの者の戯言をお信じにならないよう」

「おやおや、ずいぶんと情が深いじゃありませんか、先輩。その小娘の生命、どうしても守らなければいけないほどのものですか?」


 背後から嘲るような声がかかった。レヴィンが振り向くと、黒一色の法衣の上に胸甲を付けた若い女が立っている。胸の大鷲の徽章は、彼女が武装書記官であることの証明だ。周りを圧するような闘気に、さっと波が引くように人垣が割れ、十歩の間をおいてレヴィンと女は向かい合った。


(第三審級武装書記官、四分の一犬戎、カシア・フレーゲル。浄化術と攻性法術を得意とする)


 レヴィンの視界にすかさず女の情報が呼び出された。


「……カシアか」

「のこのことこんなところに出てくるとは、あいかわらず甘いですね、先輩」

「なるほど、俺達をおびき出すためにわざわざそこの犬戎を捕まえたってわけか」

「あなたが変わっていなくて安心しました。おかげで瀆神の罪を犯した不届き者を探す手間がはぶけましたよ」

「瀆神の罪だと?ミラが一体何をしたっていうんだ」

「おや、先輩はなにもご存じないのですか?なら教えてあげましょう。そこの小娘は、教主様を面と向かって侮辱したのです。貴方ほど悲しい霊光オーラをまとっている人を見たことがない、自分が楽にしてあげる、とね」


 マーセラス神聖国を治める教主は、迷える人々の魂を救い、教え導く立場だ。その教主を楽にしてやるなどと、まるで自分が救ってやるかのような物言いをすることなど、許されるはずもない。


「ミラ、お前は本当にそんなことを言ったのか」

「いや、そんなことは言ってないけど……教主様なんて会ったこともないし」

 

 ミラはかぶりを降った。だが、その言葉をそのまま信じるレヴィンではない。

 おそらく、ミラはマティアスに記憶を消されているのだ。


「教主様がラダト村を巡幸で訪れたとき、偶然目のあったその小娘が無礼にも教主様に駆け寄り、お顔が憂いに満ちているなどと申したのです。一介の村娘風情が神聖なる教主様に物申すなど言語道断。しかもその者は、護衛の神殿騎士相手に大立ち回りを演じ、何人にも重症を負わせたのですよ。さあ、先輩、その魔女をこちらに引き渡してください」

「そう言われてあっさり引き渡すくらいなら、俺は最初から武装書記官を辞めてないんだよ、カシア」


 レヴィンが軽く肩をすくめると、カシアは眉根を寄せた。

 茶色の髪の中からのぞく白い毛に包まれた尖った耳が、怒りでひくついている。その耳の形は、彼女が犬戎の血を引いている証だ。


「今ならまだ間に合います。さっさとその娘を引き渡してください。さもないと、先輩も捕らえなくてはいけません」

「お前、俺に勝てるつもりなのか?」

「私も第二審級の武装書記官になりました。三年前とは違います。先輩といえどもそうやすやすとは勝てないかもしれませんよ」

「そうか、そういや俺の光明大典の情報は更新されていないんだったな」


 レヴィンが頭を掻きながら言った。現役の武装書記官なら一年ごとに光明大典に記された聖職者や妖魔の情報が更新されるが、三年前に退職したレヴィンの光明大典はその時のままだ。


「先輩、今ならまだ間に合います。ミラをこちらに引き渡してください。そうすれば貴方の罪は問いません」

「あいにくだが、罪人になるのが怖くて逃がし屋は務まらない」


 レヴィンがミラの身体を抱き寄せると、ミラは緊張でその身を固くした。


「そうですか、では遠慮なくいかせてもらいます」


 言い終えるやいなや、カシアは目を閉じて朗々と聖句を唱え始める。


「光の鞭よ、神の愛もてかの罪人を打て」


 詠唱が終わると、カシアの掌の中に眩い光を放つ鞭が現れた。カシアが鞭を振るうと、光の束が勢いよくレヴィンめがけて飛んでいった。第二審級の武装書記官の用いる法術「神の鞭」だ。しかし、カシアが仕掛けるより早く、レヴィンもまたすばやく聖句を唱えていた。


「万能の盾よ、我に仇なす者に報復せよ」


 詠唱が終わった瞬間、レヴィンとミラの周囲を半透明の黄金の半球が包み込んだ。

 カシアの鞭はレヴィンの作り出した防護壁に弾かれ、反転して逆にカシアへと襲いかかった。

 カシアは素早く地を転がって鞭をかわすと、そこでふっつりと鞭の光が消えた。


「ふふ、あいかわらず攻撃的な守りですね。『恩寵の盾』に法術反転の術まで乗せるなんて、まるで魔術師のような戦い方です」

「お前のその鞭の力は魔術師の炎弾や雷光とどう違うんだ?」

「私の鞭はこの世にあるべき秩序をもたらすために振るうものです。破壊をもたらすだけの魔術とは違うんですよ」

「魔術師たちの方でもそう思ってるかもしれんぞ」

「そうやって屁理屈を並べるところも変わっていませんね。でも、これ以上抵抗しないほうが身のためですよ」

「どうしてそんなことが言える?第二審級の法術で、恩寵の盾は破れない」

「なにも戦うだけが武装書記官の仕事でもないでしょう」


 カシアは急いで処刑台に駆け上ると抜剣し、犬戎の首元に刃を当てた。


「おい、どういうつもりだ」

「先輩がミラを引き渡さないなら、この犬戎を斬るまでです。この者の首が地に転がるさまを、そこで見物していてください」

「もうよせ。そいつにどんな罪がある」

「わざわざこんな辺境までおもむいて、手ぶらで帰るわけにもいきませんからね。ミラを捕らえられないなら、この犬戎がミラを逃したと法王庁に届け出るまで」

「そうまでして手柄が欲しいか、カシア?」

「先輩にはわからないでしょうね。この三年、私がどんな思いでこの仕事に打ち込んできたのかを……」


 カシアはまた両耳をひくつかせた。顔は人間そのものだが、その両耳だけが彼女に犬戎の血が混じっていることの証明だ。犬戎の血を引いていているのに、同族を虐げてでも出世したいというのか。


「どうもわからないな。お前は昔から少し視野の狭いところはあったが、罪もない同族を陥れてまで出世しようとするような外道じゃなかったはずだが」

「外道は先輩の方でしょう。大罪を犯した魔女を連れてこの国を出ようとしてるんですから」

「それの何が問題なんだ?魔女がこの国からいなくなれば、この国から憂いの種がひとつ消えることになるだろうが」

「その娘の首には一万ギルダスの懸賞金がかかっているんですよ。絶対に見逃すわけにはいきません」

「うむ……」


 レヴィンは首をひねった。いくら教主や親衛隊に無礼を働いたとはいえ、一万ギルダスの懸賞金はいくらなんでも高すぎる。たかが娘ひとりのために、なぜマーセラスが十年は遊んで暮らせるほどの金を出すのか。


「ミラ、お前は人が本音を見せたときだけ悲しみを食らうことができると言っていたな」

「うん、そうだけど……それがどうかしたの?」


 ミラは不安げに何度も目をしばたく。


「どうもカシアの様子がおかしい。これから、俺がカシアに揺さぶりをかけてみる。あいつが心を露わにしたら、その時がお前の食事時だ。ちょっとしたデザートもついてくるかもしれんぞ」


 ミラはきょとんとした表情でレヴィンを見つめていたが、


「うん、わかった。その時はあの人をしっかり捕まえるよ」


 表情を引き締め、しっかりとした口調で言った。


(敏い子で助かる)


 カシアを突き動かしているものが何なのか、それを突き止めることさえできれば、カシアの暴走も止められる。レヴィンはそう確信していた。そして、おもむろに口を開く。


「カシア、残念ながらミラはお前には渡せない。代わりにそこの犬戎の首を斬れ。お前の剣の腕前、久々にここで見届けてやる」


 カシアは大きく目を見開いた。握りしめた拳が、小刻みに震えていた。

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