旅立ちの前夜

「──さて、明日からの旅程のことなんだが」


 レヴィンは宿の自室へ入り、ベッドの脇の椅子に腰掛けるなり、そう切り出した。

 ミラはベッドの端に腰を下ろすと、興味津々といった様子でレヴィンを見つめている。


「ムロタを出たら、まずは東へ向かうことにする。最初に立ち寄るのはペラの町だ。ここでいったん宿を取る」

「神に見捨てられた町、だね」

「そこまでは聞いてるのか」


 ミラは黙って首を縦に振る。

 どうやらこの辺境の宿の先に何があるのか、少しはマティアスが話しているらしい。


「この町を出たら、もう神様の加護は受けられないの?」

「そういうことになってる、ってだけの話だ。このマーセラスの外はたしかに妖魔も多いが、少し危険が増すだけで人間も救いから漏れた六種族も普通に住んでる。心配するほどのことじゃない。そんなことよりも問題は」


 いったん言葉を区切ると、レヴィンは顎に手を当てて思案顔になった。


「お前さんのをどうするか、ってことだ。お前が人の悲しみを喰らうってところまでは呑み込めたが、問題はその食習慣を今後も続けていかなきゃいけないらしいってことだ。お前は一度その食事をすませたら、どのくらい食わずにいられる?」

「だいたい一月くらいかな。たくさん食べられればの話だけどね。それを超えるとちょっときつい」

「食いだめはできるか?」

「できる──と思う」

「思うって、したことがないのか」

「あまり一度にたくさん食べたことはないんだ。でも人の想いは食べ物と違って胃がもたれるわけじゃないから、できないことはないと思うよ」

「一月、か」

 

 食事もせずに一ヶ月も過ごすことができるのなら、食事代も浮く。

 見た目は人間なのだし、ミラを連れ歩くのはそれほど大変でもなさそうだが、問題はその食事をどう摂るかだ。


「お前、今までの飯はどうやって手に入れていた?」

「普段は泣いてる子供をあやすふりをして近づいていたことが多かったかな。僕は子供には警戒されないみたいだし、それに大人はあんまり感情を表に出してくれないしね」

「表に出ない悲しみは食えないのか」

「そうだよ。大人はいつも自分の本音をひた隠しにするし、自分でも自分のつらい気持ちに蓋をしてることが多いから、なかなかおいしい食事にありつけなくってね」

「大人の方が、子供よりも悲しみが大きいのか?」

「普通はそうだね。ちゃんと表に出してくれればの話だけど」

「お前の前で悲しみを露わにするような大人は、そう多くはないだろうな」

「そういうときはね、いろいろとやり方があるんだよ。普通に話していても人はなかなか本音を見せてくれないから、わざと怒らせるようなことを言うとかね」

「ほう、審問官みたいなことを言うんだな」

 

 マーセラス教主国では異端狩りのため、審問官が取り調べている相手の感情を逆撫でして口を割らせる手法を用いることがある。

 そのマーセラスから逃げようとしているこの娘が審問官と同じ手法を用いるとは、どういう皮肉なのか。生きるためだから仕方がないとはいえ。


「……わかった。お前さんの食事をどうするかについては、おいおい考えるとしよう。国境を越えればもうマーセラスの監視の目もないし、今までどおり子供をあやすついでに悲しみを吸わせてもらうのもいいかもしれん。都合良くそんな子供がいればの話だがな」

「子供ってどこにでもいるものなんじゃないの?」

「国境を超えたら子供連れで旅をしているやつはそうそう見つからないぞ。ペラについたらまた話は変わるが……あそこは不景気そうな顔をしているやつが多いからな」

「そんなに悲しんでいる人が多いの?」

「悲しんでいるというか、すべてを諦めきっているというか、まあそういう手合いの多い町さ。まあ、あの町のことは着いてから考えればいい。それにしても……」

「どうかしたの?」


 しげしげとミラの顔を眺め回すレヴィンを、ミラは不思議そうに見つめ返した。


「人の悲しみってのはどんな味がするんだ、ミラ?」

「蜜の味に近いかな?すごく心が満たされていくっていうか」

「人の悲しみは蜜の味、か。似たような諺があるが、お前の場合は文字通りの意味なんだな」

「……ねえレヴィン、僕って罰当たりな存在なのかな?」

「どうしてそんなことを訊く?」

「だって、悲しんでいる人がいないと、僕は生きていけないよね?不幸な人を必要としている僕の存在は、この国では許されないのかなと思って。マティアスのお爺ちゃんにも、お前はこの国にいると魔女にされてしまうって言ってた」


 レヴィンは言葉に詰まった。

 天神教の教義では、人の不幸を望むのは相手を呪っているに等しいことになる。

 しかも、人の悲しみを吸い取る彼女の力は、この国では禁忌とされている魔術に近いものと扱われかねない。

 「魔術」とは、マーセラスの聖職者が用いる治癒術や解呪のような「法術」の対極にあるもので、法術があるべき秩序を回復する術、魔術はあるべき秩序を破壊する術とこの国では位置づけられていた。ミラが魔術の使い手であるとするなら、彼女は魔女として捕縛の対象になってしまう。


「いや、そうとは限らないな。お前が人の悲しみを喰らえば、そいつの心は楽になるんだろう?」

「魂の三枚目の衣は、一度脱がせてもまた着込んでしまう人もいる。悲しみの原因がなくならないとね。ただ、少なくともその場は楽になるよ」

「だとすれば、お前は人の苦しみを救っているってことだ。お前のその力は、聖性に分類されるものだと考えることもできる」

「僕の食欲が、聖性……」


 ミラは大きく目を見開いた。

 磨き上げられた琥珀のような瞳が、輝きを増す。


「僕、そんなこと言う人にはじめて会ったよ」

「あくまでそう解釈することもできるって話さ。少なくとも、お前が自分の食欲を邪悪なものだと考える必要はどこにもない」

「じゃあじゃあ、僕はこれから周りを気にせずどんどんみんなの三枚目の衣を食べていいってことだよね?」

「いや、そういうことじゃない。そこはちょっとは気にしてくれ」

「なんで?僕、いいことをしてるんでしょ?誰にも隠す必要なんてなくない?」

「お前は何も悪いことなんてしちゃいないが、そうは思わない連中もこの国にはいるってことだ。だからマティアス様も、俺にお前を国外に逃がせと頼んできたんだろうよ」

「悪いことをしてないのに、僕は逃げなくちゃいけないの?」

「その辺のことをちゃんと説明しようとすれば、本一冊分の理屈がいる。今はお前の身の安全のためにはそうしなくちゃいけない、ってことだけ理解しといてくれ」


 レヴィンは心の隅に小さな疼きを感じた。

 この娘は十代なかばくらいに見えるが、その年齢にしてはあまりにも無垢だ。

 この無垢な瞳には、この国のあらゆる常識や建前が、欺瞞の塊にしか映らないだろう。


「あ、レヴィン、なんか辛そうにしてるね」


 エイルの頭頂の髪がぴんと立った。

 どうやら、彼女は何かに感づいたらしい。


「そうだ、もしレヴィンがなにか辛いことがあるのなら、僕に話してくれればいいんだよ。レヴィンが悲しみを僕に食べさせてくれたら、レヴィンは辛くなくなるし、僕はお腹もすかないし。うん、これは名案だよね!」


 ミラは蝋燭の灯りに照り映える橙色の髪の毛をそろそろとレヴィンの頭に伸ばし、そっと撫でる。

 レヴィンは憮然とした表情で、その髪を払いのけた。


「しかし、俺はお前の護衛であって、慰められるためにお前を連れて歩くわけじゃない」

「そうやって自分の心を押さえつけてるから、ますます辛くなるんだよ。それに、同行者の辛さをほっといてそのまま旅を続けるなんて、僕にはできないよ」


 レヴィンは軽く溜息をつくと、頭髪を掻いた。


「わかったわかった、どうしても耐えられないほど辛いことがあったら、お前にもこの心を食わせてやる。でも、そんな日が来ないことを俺は確信してるがね」

「どうしてそう言えるの?」

「おたずね者のお前を逃がすってことは、この国のお偉方を出し抜いてやるってことだ。これほど愉快なことはないだろ」

「僕はどこまで逃げればいいの?」

「そうだな、ペラを出たらレイダス山脈を越えてシルダリア草原を東へ抜け、ひとまずは学芸都市ナルヴァまで足を伸ばすとしよう。あそこなら天神教の権威からも自由だし、中原一大きな図書館もある。お前の正体について何かわかるかもしれない」

「僕、悪い魔女じゃないといいなあ」

「いいかミラ、お前のその力は人の役に立つ。それを悪だと定義するような奴がいるとしたら、それはそいつが間違ってるってことだ」

「マーセラスの教主様は間違ってるってこと?」

「ま、そういうことになるな。あんまり大きな声じゃ言えないが」


 レヴィンは椅子を立つと、今度は床に腰を下ろして壁に背を預けた。


「ところでミラ、通行証は持ってるな?」

「うん、マティアスさんからちゃんともらってきたよ。ギゾーでも本物と区別はつかないって言ってたけど、ギゾーってなに?」

「偽物ってことだ。でも衛兵にはそのことは言うなよ。そいつは本物だ、今からな」

「うん」


 ミラが面倒な性格ではなさそうなことに、レヴィンは安堵していた。

 ただでさえ食事の確保に困難が予想されるのに、これ以上面倒を増やされては困る。


「さて、そうとわかったら今日は早めに休むとするか。明日は一日歩きつめることになるから、お前はそのベッドで寝とけ」

「レヴィンはどこで寝るの?」

「ここで寝るさ。俺の特技はどこでも寝られることだ」

「ここで一緒に寝たほうがあったかいよ」

「俺の任務はお前の護衛であって、添い寝じゃない」

「良かった。そう返してくるようなら安心なんだって」

「どういう意味だ?」

「マティアスのお爺ちゃんが、レヴィンのセーヘキを確認する必要があるって言ってたから」

「あの爺さんめ……」


 レヴィンは憮然としたが、マティアスがレヴィンを試したのも無理はない。

 この国でも貧しい娘は、ミラの年齢からでも身体を売ることで生きていく者もいる。

 ミラの容姿は当人さえその気なら、十分にある種の大人を惹きつけることができる。レヴィンがおかしな気持ちを起こすようでは、護衛など任せられないのだ。

 

「じゃあ、おやすみ」


 ミラは毛布から半分顔を出しつつ言うと、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。

 どうやらレヴィンと同じく、寝ようと思えばすぐにでも寝ることができるらしい。

 蝋燭の灯を消して壁に背をもたせかけると、レヴィンの瞼もすぐに重くなった。



 翌朝は日の出とともに目を覚まし、旅支度を整えたレヴィンはミラとともに宿を出た。市場で干し肉や果物を買い、いよいよ国境に向けて足を踏み出そうとしていたその時、けたたましい喇叭の音が辺りに鳴り響いた。


「市民諸君に告ぐ。本日十の刻より、処刑場にてムロタの宿にて幼い娘を喰らおうとしていた犬戎けんじゅうの処刑を行う。我が国に仇なす犬畜生風情がどのような末路をたどるか、しかとその目に焼き付けるがいい」


 居丈高な役人の声に、レヴィンは思わず我が耳を疑った。

 市場に集う人々は眉をひそめ、周囲の者と何ごとかささやき交わし始めた。あたりが騒然とした空気に包まれる中、ミラがレヴィンの外套の袖をぎゅっと握ってきた。

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