謎多き待ち人

 すでに夜も更けた酒場のカウンターで、一人の男が大きな背を丸めながら、人ならざる者たちの演奏に耳を傾けていた。マーセラス人には珍しい艶のある黒髪が、鋭い輪郭の頬の両脇を通り、首筋にまで流れている。

 厚手の外套をまとっている体躯は雄大で、腰に釣った剣をひとたび振るえば強力な戦士となるであろうことを伺わせたが、楽士たちの方にぼんやりと向けられている眠たげな瞳は今ひとつ覇気に欠けている。顎の無精髭も、この青年にどこか倦怠感に満ちた雰囲気をつけ加えていた。


犬戎けんじゅう……主神の救済より漏れた六種族のひとつ。上ゲール語ではコボルトとも呼ばれる。一つの街に定住することなく各地をさすらい、歌舞音曲に優れているため多くは詩人や演劇を生業とするが、裏稼業として窃盗や誘拐、麻薬の売買などに手を出すものも少なくない)

 

 視界の隅に勝手にあらわれる文字列を消すため、男は目を閉じた。

 こんなものは、国境近くの宿で過ごす快適なひとときの邪魔にしかならない、と判断したからだ。

 その名の通り、犬の頭部と人の身体を持つ犬戎はこの国では呪われた種族とされ忌まれていたが、今この場においてその事実はたいして重要ではない。

 犬戎けんじゅうの楽士の演奏は巧みで、心地よい旋律に耳をゆだねると、たちまちのうちに眠りに落ちそうになる。しかし彼のまどろみは、演奏に断続的に交じる泣き声に中断されることになった。


「ミリア、そんなに泣いちゃだめでしょ?お父さんは笑顔で送り出してあげるって約束したじゃないの」


 隅の方のテーブル席で、まだ二十代半ばくらいに見える母親が、泣きやまない幼子を抱き寄せた。

 たくましい体躯を甲冑に包んだ夫らしい男は、目尻を下げつつ愛娘を見つめている。どうやらこれから辺境の騎士団に派遣されるらしい。


(ありゃあ、越境公のところにでも行かされるのかな)


 男はそう推測した。こういう光景は、もう何度も見てきているのだ。

 マーセラス教主国の国境の外は、この国を治める教主の庇護の及ばない闇の領域だとされている。日中から妖魔が街道沿いにも出没し、安全な通行すらままならない。

 野盗や山賊のたぐいもまたここから先は勢いを増すため、腕に覚えのある戦士か命知らずの冒険商人、辺地に神の恵みをもたらそうとする教導僧くらいしか、この宿の先の国境を越えようとする者はいないのだ。

 いわばこの宿は、マーセラスの住民にとってはこの世の果てにも等しい、忌避されるべき場所だ。それだけに、この国では蔑視されている犬戎にとってはかえって羽根の伸ばせる場所になる。


 娘の泣き声が耳に入らぬかのように、犬戎たちは黙って演奏を続ける。

 幼い娘の泣き声が一層激しくなったとき、ふと犬戎のひとりが細い口髭を動かした。同時に、男の背も粟立った。

 なにか、尋常ならざるものがここに足を踏み入れてきた──そう思いつつ男が気配を感じる方に目を向けると、酒場の入り口に立っていたのは薄汚れた旅装に身を包んだ小柄な若者だった。


「ほーう、なかなか美味しそうな子がいるじゃないか」


 目深にかぶったフードの奥から聞こえてきたのは、思いのほか高く澄んだ声だった。しかし、口から出た言葉はその無邪気な口調に似つかわしくない。若者は泣きじゃくる幼子のそばまで歩み寄り、背をかがめる。


(こいつ、何をする気だ?)


 男は急いで席を立つと、すぐに小柄な若者の背後に駆け寄った。

 戦士としての勘が、こいつはただ者ではないと告げていた。


「その子には邪魔な虫がいっぱいついてるから、僕が取ってあげるよ」


 若者がフードをはねのけると、その下から豊かに伸びる橙色の髪が現れた。

 半分透けて見える、どこか神々しさすら感じるその髪に男が見入っているうちに、若者の髪が獅子のようにひろがり、いまだ泣きやまない娘に向けてするすると伸びていく。


「おい、何をする!」


 男が叫んだときには、すでに橙色の髪が娘の身体に巻き付いていた。

 母親が短い悲鳴を上げる頃にはすでに、娘の小さな身体が髪に絡めとられ、若者の前に捧げ持たれる格好になっていた。


「ふふ、こりゃ久しぶりのごちそうだねえ」


 若者の舌が唇を舐めると、橙色の髪がその輝きを増していく。

 男は急いで剣の柄に手をかけたが、若者はどういうわけか、いっこうに娘を食べる様子はない。

 犬戎が演奏の手を止め、かたずを飲んで見守っているうちに、若者の髪が生き物のように脈打ち、娘の身体から何かを吸い上げていく。

 あっけにとられている男と娘の父母を前に、若者は陶然とした表情を浮かべた。


「あー、おいしかった。ごちそうさま!」


 若者が娘の身体をゆっくりと床に降ろすと、娘はきょとんとした表情で若者を見つめている。


(泣き止んだ……?)


 男が訝しんでいるうちに、あれほど激しく泣きじゃくっていた娘が、嘘のように穏やかな表情になっていた。

 急いで駆け寄った母親に抱きすくめられ、娘は若者のそばを離れる。


「あの……どなたかわかりませんが、ありがとうございます」


 意外にも、母親は若者に向かって深々と頭をさげた。

 いつの世も、母親には子供に害を為すものとそうでないものの差には敏感であるらしい。


(こいつは、一体何をしたんだ)


 男の心中に浮かんだ疑問に答えるかのように、若者はくるりと男に向き直って答えた。


「僕がそっくり頂いたんだよ、あの子の三枚目の衣をね」


 微笑んだ若者の顔は、少女のそれだった。

どこか妖精めいた雰囲気のある小作りな顔に浮かんだのは、混じりけのない無邪気な笑みだった。少し下がり気味の目尻には、なんとも言えない愛嬌がある。


「三枚目の衣ってのは何だ」

「魂がまとう四枚の衣、それが喜怒哀楽。僕が必要としてるのは三枚目」

「人の悲しみを吸い取る、ってことか?」

「だいたいそんなところだね。人の悲しみが大きくなりすぎちゃうと、いろいろと良くないものが取り憑いちゃうんだ。あの子には 幽欝蟲ゆううつちゅうっていう下級精霊がくっついてたから、食事のついでに吸い取ってあげたよ」


 事もなげに言うと、少女は男をまっすぐに見据えた。


「ところでオジさん、ちょっと僕の目を見ていてくれるかな?」

「俺はまだ、そんなふうに言われるほどの年じゃないんだがな」


 少し戸惑いつつ、男は顎の無精髭を撫でた。

 このなりのせいで、年齢より老けて見えてしまっているのかもしれない。


「いいから、ちゃんとこっちを見てよ」

「なぜ、俺がそんなことをしなくちゃいけない?」


 そう言いつつも、少女の有無を言わせぬ様子に気圧され、男はしばらく少女の瞳をのぞき込んだ。琥珀色の瞳はなぜか、こちらの心中を全て見透かしているように思えて思わず目をそらしそうになったが、ちゃんと見ろと言われた以上それもできない。

 仕方なく目を合わせ続けたが、男の視界にはなんの文字列も浮かんでこなかった。その事実が意味するところはひとつだ。


「……お前、未登録種アンノウンなのか」


 男の意識に埋め込まれた光明大典には、彼女の存在は記されていない。

 それは、彼女のような存在が今までこの世に現れ出たことはないことを示していた。


「目の中にはなんの字も出てこなかったでしょ?」

「ああ、そうだな。で、どうしてお前が俺の目のことを知ってる?」

「おヒゲのおじいさんから聞かされたんだよ。ムロタの宿で無精髭を生やしたやる気のなさそうな男を見かけたら声をかけて、目を合わせろって」


 男はわずかに目を見開いた。

 では、この娘が約束の待ち人だというのか。


「マティアス様が、お前をここに寄越したっていうのか?」

「そうだよ。かつてのマーセラス教主国で将来を嘱望された武装書記官、今は『逃がし屋』のレヴィン・アルタイル。それがキミの名だよね?」

「それは、ちょっと皮肉が入っているな。俺はそんなに大層な人材じゃない」


 レヴィンはかつての上官であるマティアスの姿を思い浮かべ、苦笑した。

 普段は好々爺然としているマティアスが、この娘に一体何を吹き込んだというのか。


「でもあのおじいさん、レヴィンになら安心してお前を預けられるって言ってたよ」

「まあ、これでも元武装書記官の端くれだからな。まだ剣も法術の腕前も衰えちゃいないつもりだ」

「『目』の力もまだ残してもらってるんでしょ?武装書記官はもう辞めたのに」

「ああ、そうだ。こんな力、もう要らないんだがな」


 それは本心からの言葉だった。マーセラス教主国に仕える武装書記官は、天神教の辞書である光明大典を記憶に埋め込まれており、視界に入る種族や妖魔の情報はただちに文字情報として視界の中に呼び出される。妖魔の生息状況や生態の調査を任務とし、時に戦闘を行うこともある武装書記官には、敵の情報が欠かせないとされているからだ。


「なんで要らないの?相手のことがわかれば便利なんじゃないの?」

「出て来る情報が正確ならな。でも俺の頭に埋め込まれたこの辞書は、どうもあまりあてにはならんようだ」

「もしかして、それに気づいたから武装書記官を辞めちゃったの?」

「それは、お前に話すようなことじゃない」


 どうもこの娘は一筋縄ではいかない相手のようだ。全くの世間知らずに見えるのに、妙に敏いところがある。


「で、マティアス様はお前をどこまで連れて行けって言ったんだ」

「僕が何者なのかがわかるところまで、だって」


 まっすぐにこちらを見つめる無垢な瞳と目を合わせても、レヴィンの視野にはどんな文字列も浮かんでこない。

 この娘の存在は、光明大典には書かれていないのだ。それは、彼女はこの世のどこにも存在しないと、すくなくとも天神教側では認識しているということだ。


「それはまた、ずいぶんと曖昧な依頼だな。そういうお前は、自分自身が何なのかわからないのか?」

「それがね、おじいさんに会う前のことがどうも思い出せないんだよ。僕が知ってるのは、人の悲しみは美味しいってことと、ミラって名前だけ」

「記憶がない、ってことか」


 ミラはこくりとうなづいた。おそらく、彼女の記憶は消されてしまっているのだろう。よほど、この国にとって都合の悪いことを彼女は知っていたらしい。

 マティアスが彼女を国外に逃がせというのも、彼女が何者であるかがわからないという、まさにそのことが関係しているのに違いない。


(しかし、この子の食い物が人の感情だってことになると、連れ歩くのは少々厄介だな)


 レヴィンの視線がミラの身体のうえを上下した。

 半ば透けて見える赤毛が目立つほかは、ただの人間の少女にしか見えない。

 しかし、彼女の嗜好がここまで特殊なものとなると、この先連れ歩くのはかなりの困難が予想される。


「お前、普通の食事は食えるのか?」

「パンでもお肉でもなんでも食べられるけど、それだけだとなんだか心が満たされないんだ。ここが痛くなってくるんだよ」


 ミラは自分の胸に手を当てた。


「人の悲しみが足りなくなったら、どうなる」

「そうなることはないと思うよ。辛いことも悲しいことも、この世界に絶えることはないから」


 しんみりとした様子で言うと、ミラはそっとレヴィンの手を握ってきた。

 痺れるような感覚が全身を走り、レヴィンの視界が一気に塗り替えられる。


(これは……何なんだ)


 急に世界が色を失い、白と黒だけの陰鬱な光景が目の前に広がっていた。

 目を凝らすと、視界の隅で小さな碧色の光が明滅している。

 犬戎のバラッドを聴いて涙する聴衆の全身に、まばゆい光球が散っていた。


「今、レヴィンは僕と『目』を共有している状態。碧色にみえるのが悲嘆の霊光オーラだよ」

 

 首を回すと、ミリアの父の甲冑にも碧色の霊光オーラがみえた。娘の前では精一杯の笑顔をつくっているが、やはり愛娘との別れが辛いのだろう。


「なるほど、これがお前にみえている光景か」

「うん、辛そうな人は見ればすぐにわかるんだ。ここにいる人達はわりと元気な方だね。邪霊が憑いてる人もいないみたいだし」

「邪霊?そんなものまで見えるのか」

「邪霊が憑いていたときは、悲しみと一緒にいただいちゃうんだ。放っとくと、あいつらは人の心を壊しちゃうからね」


 ミラが手を離すと、レヴィンの世界に色が戻ってきた。


「──お前がどういう存在かはおおむね理解できた。だがもう少し訊きたいことがある。ここから先は俺の部屋で話そう」


 レヴィンは手招きすると、ミラを従えて二階の宿へ続く階段をのぼった。

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