悲しみ喰らいの魔女と護衛者

左安倍虎

序章 未登録種(アンノウン)の少女と逃がし屋

プロローグ

 闇の中から這い出るように、三つの影が暗がりから現れる。

 中のひとりが右手を上に向けて差し出し、くぐもった声で何事かつぶやくと、掌の上に光球が表れ、その者の頭上までゆっくりとのぼっていった。

 まばゆい光が照らし出す男の額には、深い皺が刻まれている。

 老人の先導に従い、湿っぽい空間に硬い靴音を響かせつつしばらく歩いたのち、やがて三人は足を止めた。


 老人の半分眠っているようなまなざしの先にあるのは、血の染みで薄汚れた石壁に力なくもたれかかる若者の姿だった。ほっそりとした体型と両肩に落ちかかる半透明の橙色の髪のせいで、少年か少女かの区別もつかない。

 木格子の向こうで、その者は両手を鎖につながれて吊るされたまま、苦しげな吐息を漏らしている。痩せこけた体に薄汚れた襤褸ぼろだけをまとい、まるで奴隷のような有様だ。


「まだ生きているのか。教皇庁の査問を3日も耐え抜くとは、やはりこいつは人ならざる身のようだな」


 黒いフードを目深にかぶった男がくぐもった声を漏らす。

 目の前の若者は顔のつくりこそ端正だが、頬の肉は削げ落ち、明らかに衰弱していた。眼だけが猛禽類のように鋭い光を放っている。

 手足に痛々しく散らばる打撲の跡が、この若者の受けてきた凄惨な仕打ちを何より雄弁に物語っていた。


「グレシウス司書長、この者をどうなさいますか」

 

 年老いた男が、真ん中にいる男におずおずと問いかける。


「知れたこと。始末するより他はあるまい」


 年老いた男はごくりと唾を飲み込むと、その言葉には答えなかった。


「神聖なる教主様を、この者は喰らおうとしたのだぞ。その罪だけでも万死に値する。大体あの髪はなんだ?まるで生き物のようにうごめき、尊い御身を縛り上げようとしていたではないか。あのような種族が存在するなど聞いたこともない。光明大典にすら記載されていない種族ゆえ、まだ危険な力を隠し持っているかもしれぬ。こんなものを生かしておけば、必ずや我がマーセラス教主国の歴史に禍根を残すことになる」

 

 グレシウスと呼ばれた男は若者を一瞥すると、冷たく言い放った。


「私がやりましょうか」

 

 そう訊いたのは女の声だった。緊張のせいか少し掠れて聞こえる。

 茶色の髪から伸びる耳は白い毛に覆われ、尖っている。亜人だ。


「いや、こいつはこう見えてもまだかなりの力を残している。お前では手こずるかもしれん」

「武装書記官を拝命して五年になるこの私に大事な任務を与えてくれないのは、私が犬戎けんじゅうの血を引いているからですか」

「よいかカシア、この任務は万が一にも失敗は許されないのだ。血の問題ではない。神兵隊十人でようやく捕えたこの者の力を侮ってはならないと言っているのだ。こやつを仕留め損ねたら、国一つ揺るがしかねない力を持つ者を野に放つことになるのだぞ」

 

グレシウスの強い口調に、カシアは押し黙った。


「――ならば、私が始末をつけましょう」


 牢の中に響くしわがれた声に、グレシウスは無言でうなずく。


「うむ、頼んだぞ、マティアス」


 そう言い置くと、グレシウスはカシアを連れて、音もなくその場を後にした。


「どうだ、苦しいか」

 

 二人の姿が消えたのを確認すると、マティアスは牢の鍵を開け、若者にささやきかけた。若者はマティアスを睨みつけたまま返事は返さない。


「私が憎いか。――いや、この世界が憎いか」

 

 若者の瞳は獰猛どうもうな光を灯す。もし手が鎖に繋がれていなければ、マティアスなどこの場で噛み裂いてしまいそうな雰囲気だ。


「正直な所、わしとておぬしには同情せぬでもない。おぬしはこの国の法を何も知らなかっただけなのだろう。おぬしが何者かは知らぬが、あのときのお主の瞳には何の悪意も読み取れなかった。ただ、教主様に触れてみたかっただけだったのではないか」

 

 若者は軽く鼻を鳴らした。片頬だけを歪めて笑うその姿は、己の惨めな有様を笑っているようにもみえる。


「どうだ、生きたいか?」

 

 マティアスの問いかけに、若者は無言で応じる。


「残念ながら、今のお主を生かしておくわけにはいかん。お主がよこしまな者だとは思わんが、その人をはるかに凌駕する力はあまりに危険すぎる。このマーセラスにおいては、お主の存在は災厄でしかない」

「……僕を、殺す気なのか……」

 

 若者はようやくうめくような声をあげた。


「殺すとは言っておらん。だが、お主を今のお主のままにしておくわけにはいかぬ」

「それは、どういう意味なの」

「本来ならば、儂はお主の命を奪わねばならぬ立場だ。だがまだ年端もゆかぬ者の魂をこの手で天に返して良いものか?これは、思案のしどころだ」

「…………」

 

 若者は黙り込んだまま、マティアスの皺深い顔を見つめる。


「もう一度訊こう。生きたいか」

「僕を僕のままにしておかないって、どういうこと?」

「このままでは、お主は必ずマーセラスへの復讐を企むであろう。だが、新しくこの世に生まれ直すことができたとしたら、どうだ?」

「……質問の意味がわからない」

 

 若者はマティアスから顔を背けると、軽く息を吐いた。


「お主の生きてきた過去を全て無きものとし、もう一度赤子のように目に見えるもの、手に触れるもの全てが真新しく感じられる生を生きられるとしたら、お主は生きたいか」

「――少なくとも今みたいな人生は、二度とごめんだ」

「その言葉、承諾の言葉と受け取ってよいのか」

 

 マティアスが念を押すと、若者は曖昧に頷いた。


「良かろう。その年で命を投げ捨ててはならぬ。お主の過去はこの儂が封じるとしよう」


 そう言いつつ、マティアスはゆっくりと若者の額へと手を伸ばした。


「今度の生では、教主国の命運など背負ってはならぬ。東へ向かいレイダス山脈を越えるのも良かろう。ノルト大森林には我らとは違う神を戴く部族が住まうとも聞く。学芸都市ナルヴァなら信仰より理性が重んじられる。この広い天地の中に、お主を受け入れてくれるところが必ずあるはずだ。お主の居場所を己自身で見つけ、思うさま生きよ」

 

 マティアスが語気を強めると、その掌から青白い光が放たれ、若者の頭部を包み込んでいく。


「……ああ、ああああ……!」

 

 若者は苦痛の叫び声を上げるが、マティアスは構わずに掌の光をさらに強める。


「我々も罪なことをしたものだ。この国はおそらく今まで何十人と、お主のような者を闇へと葬ってきたのだろう」


 マティアスが淡々と言葉を続ける中、若者は焦点の定まらない視線をあちこちにさまよわせ、すでに声を発することができない様子だった。


「この国に適応するということは、この国の歪みに合わせて一緒に歪むということだ。武装書記官どもはお主を異端だなどと言うが、自分を曲げることのできなかったお主こそが、むしろ正道を歩んでいるとすら言えるのかもしれぬ」


 マティアスがそこまで言うと、若者はがっくりと頭を垂れた。


「――さて、これで良いか」


 そうつぶやくと、マティアスは懐から鍵を取り出し、若者の手にはめられた枷を外した。


「たとえ手足が自由になったところで、運命のくびきから自由になれるとは限らないが」


 マティアスは若者を背負うと、少し周囲とは違う色合いの石壁に掌を当て、瞳を閉じた。マティアスの手の甲に複雑な文様が浮かび上がり、それに応じて石壁が左右に開いて人一人がようやく通り抜けられる程度の隙間ができた。


(これが、最後の運試しになるか)


 マティアスは若者をその隙間から屋外に突き落とすと、老人とは思えぬ素早さで自身も外へ飛び出した。


(どうやら、儂も焼きが回ったらしい)


 驚くべきことに、マティアスが何度か宙を蹴ると、その老躯は落下する若者の身体に追いついた。マティアスは両腕で若者の華奢な体を抱きとめ、いったん空中に静止すると大きく息を吸い込み、ふたたび漆黒の闇の中へとその身を翻した。

 

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